|
本州の一番北にある青森県に、 「日本中央」 と、 おおらかな字体で刻まれた、薄茶色の大きな石碑があります。 文治年間(1185〜1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」には、 陸奥の奥地、日本の東の果ての「つぼ」という所に、 坂上田村麻呂征夷の折に、 矢尻で「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」という碑がある。 と記されていて、 古来、「つぼのいしぶみ」は歌枕として、 多くの歌人に詠まれているそうです。 石ぶみやつがろの遠にありと聞く えぞの世の中を思い放れぬ 藤原清輔(長治元(1104)年 - 治承元(1177)年) みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる 壷の石ぶみそとの浜風 西行(永元(1118)年−文治6(1190)年) 思ひこそ千島の奥を隔てねど えぞかよはさぬつぼのいしぶみ 顕昭(大治5(1130)年? - 承元元(1209)年?) みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬ 書き尽くしてよつぼの石文 源頼朝(久安3(1147)年−正治元(1199)年) 青森県東北町のこの石碑が、 「袖中抄」に記された「つぼのいしぶみ」であるとすれば、 坂上田村麻呂が制圧したのは、志波城(岩手県盛岡市)までなので、 石碑を刻んだのは、 弘仁2(811)年頃に、都母村(現在:坪)をぬけて浅虫周辺まで北上した、 文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)だと考えられるそうです。 この碑は、 青森市から国道4号線で七戸方面へ向かう途中、 青森県東北町字家ノ下タにある、 「日本中央の碑保存館」の中央に展示されています。 「日本中央の碑保存館」より南の森の中、 坪(つぼ)集落のはずれに、 千曳神社(ちびきじんじゃ)が鎮座しています。 参道の入り口に駐車場があり、 鬱蒼とした木立が続く砂利道の参道、念のため、熊鈴を鳴らしながら歩きました。 この神社の名称「千曳」にまつわることとして、 「千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めた」 と言い伝えられているそうです。 明治9(1876)年、明治天皇が東北巡幸の際、 「田村麻呂の石はどうなったか」と尋ねたことから、 この神社の地下を発掘するよう、政府から命令が下り、 神社の周囲を掘り返したけれど、石碑は発見できず、 昭和24(1949)年、千曳集落の川村種吉さんが、 千曳集落の東にある石文(いしぶみ)集落のはずれで、 発見したそうです。 この石碑の鑑定については、諸説あるようで、 書体・刻みは、断定はできないものの後年と作とは言い難いとされ、 文部省も調査を実施したようですが、結論には至らず、 真偽不明のまま、現在に至っているそうです。 9世紀には、 この一帯が、 蝦夷の国・日本(ひのもと)の中心として栄えていたのかしら。。。 最後の画像は、 千曳神社の境内に、ただ転がってるように見えたのですが、 「千曳石」?と記されていようです。 下の地図で、 日本中央の碑保存館 は、「家ノ下タ」の文字の辺り、 千曳神社 は、中央の神社マーク、 石碑発見場所は、右端の石文と千曳向の間で合流点より上流の赤川だそうです。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2008年10月14日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]







