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福岡県久留米市。 高良(こうら)大社は、高良山の中腹に鎮座しているため、 石段の参道のほかに、 つづら折りの舗装道路が整備され、 高良大社から、山頂近くの久留米森林つつじ公園へ、 さらに、耳納スカイラインへと続いています。 つつじ公園の少し手前の道沿いに、 高良大社奥宮の、木造の一の鳥居が建っていました。 切り立った高良山の尾根に遮られて、 鬱蒼としてうす暗い道をくだります。 右手が谷のところで、 高良大社からつづく参道と合流すると、石造りの二ノ鳥居。 9時半を過ぎた頃でしたが、 目を凝らして、やっと見えるほどの暗がりに、 三ノ鳥居 が見えてきました。 奥宮は、 古くは「高良廟」「御神廟」と称し、 高良の神である武内宿称の葬所とも伝えられ、 高良山の信仰の原点ともいうべき聖地であるそうです。 また、この一帯の地名は「別墅(所)」 (案内板より) 急な斜面に、境内社の石祠が鎮座しています。 祭神はわかりませんでしたが、 天狗の葉団扇が。 石祠の脇に、 古めかしいポストのような筒が立っていました。。。何かしら? 高良大社から、約1kmの山道を登って来た参拝者たちが、 参道わきのベンチで一休み。 地元の方たちらしく、うちとけた様子でした。 境内は、切り立った崖沿いの、とても狭いスペースです。 山側の手水舎に湧き出しているのは、 開祖・隆慶上人が、 修行中に、天竺無熱地の水を招き寄せたと伝えられる、 霊水「勝水」 ( 別名「保命水」 ) 石造りの四ノ鳥居の奥には、ちいさな社殿。 暗がりに燈明がともり、 拝殿というより、お堂という雰囲気。。。 もともと高良山は、仏教を固く禁じていたと云われますが、 天武天皇の白鳳2(673)年、 神部物部道麿(かんべもののべみちまろ)の子・美濃理麿(みのりまろ)に神託があり、 大祝(おおはうり)家の三男・隆慶(りゅうけい)を妻帯のまま社僧としました。 白鳳7(678)年、開山・隆慶上人が、 毘沙門天を高良の神の本地として、奥の院・毘沙門堂を建立したそうです。 南北朝時代、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとも伝えられています。 拝殿の奥には、 石積みの檀があり、玉垣で囲まれて、室町時代の石造宝塔が立っています。 中世末の記録に残る戒壇の跡であろうということです。 (高良大社由緒書、および案内板より) 隆慶の子孫は、神宮寺高隆寺(こうりゅうじ)にあって、高良山座主を称し、 以後、山内26ヶ寺、360坊、一千余名の僧徒を支配し、 大変な勢力を有したそうですが、 明治2年、廃仏毀釈により、 座主は廃止され、寺坊は取り除かれ、仏像などは山下の諸寺院に移されました。 奥宮は、 奥の院・毘沙門堂を、「水分(みまくり)神社」と改称し、 「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」 として、 今も、篤い信仰を集めているそうです。 江戸時代の中頃、 山中の極楽寺を再興した即心上人は、 晩年までの45年間を、奥の院に籠って念仏修行をしたそうです。 麓近くの林の中、 ひっそりとした極楽寺住職墓には、即心上人の墓があります。 高良山の記事でコメントを寄せてくださった、 地元にお住まいの「山じじい」さんによると、 高良山のあちこちに、 坊さんの頭のような、丸い墓石がならんだ墓所が残っているそうです。 最後の写真は、 奥宮で出会った、 ハンサムなシェパードのサケ号。 霊泉「勝水」を、手桶一杯、飲み干したところです! |
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2010年07月24日
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