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4月第2週の土曜日は、晴れ。
東京都で一番高い山
大岳山は、
春らしく、
すこし霞んでいました。
東京都西多摩郡檜原村8189
大岳山の南麓
桧原村白倉地区に鎮座する、
大嶽神社の里宮では、
春の御祭禮の
神輿巡幸が行われました。
正午をまわったころ、
道笛の澄んだ一声に、
太鼓がつづき、
神輿巡幸がはじまりました。
行列は、
吉野宮司を先頭に、
大提灯、
道笛、
太鼓、
鉾、
榊、
花万灯 が
急な坂道を
ゆっくりゆっくり下っていきます。
大嶽神社は、
本宮、里宮ともに
吉野家が宮司をつとめています。
社伝は焼失していますが、
大嶽神社は、
天平19年、桧原一帯を治めていた宿辺少将橘高安が
大岳山に蔵王権現を祀ったのが始まりと伝えられ、
その時代から、吉野家が司祝をつとめていたと伝えられるそうです。
揃いの祭袢纏で
子供神輿が
元気よく
くり出しました。
いよいよ ご出御。
神輿は、
平成元年、
栃木県の神輿師・小川政次の作。
台座2尺6寸で 見事な意匠が施されています。
のけぞるようにして
バランスをとりながら
急な斜面をおりていきます。
戻るときは、
もちろん、
ここをのぼるんですよね。。。
白い装束は、
「はくちょう」と呼ばれ、
「白丁」の表記もありますが、
地元では、
「白鳥」だと思っている方が多いようです。
祭神の日本武尊に因むのでしょうか。。。
沿道では、
わんこも一緒に
家族総出で見送ります。
山間の集落内は、
道が狭く、
両側が石垣に囲まれて、
ギリギリで通り抜けていきました。
すこし広い所で、
といっても、
ここも坂道。
揺らしをかけますが、
みなさん、必死です!
各集落内は傾斜地、
しかも、
一旦、川沿いの国道へおりるので、
相当なアップダウンがあり、
休憩を入れながら、
白倉地区から
中里地区へ、
大沢地区では、
17時ごろになりました。
夕方になって、
助っ人登場!
担ぎ手がふえてきました。
最後に、
あの急坂を登って、
大嶽神社里宮に担ぎあげたのは、
20時ごろ。
みんな、へろへろ。。。だったそうです!
うららかな春の日に
お神輿をかついで
みんなで 大汗かいて
いいですね。。。村祭り!
私も、
カメラ抱えて、歩き回り、
膝がガクガク。。。こりゃ、運動不足だわ!
大嶽神社
祭神は
大国主命
少彦名命
日本武尊
広国押武金日天皇(安閑天皇)
源家康
大岳山頂に鎮座する
大嶽神社本宮の例祭は4月8日に行われます。
遥拝所である里宮の春の例祭は、
4月第2週の土曜日
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神社・寺
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栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
JR宇都宮駅から西へ1㎞くらい。
大通りに面して、
樹齢400年の栃木産ケヤキの大きな両部鳥居(2008年建立)から続く参道、
長い石段がつづく臼ヶ峰(独立丘陵)の頂上に鎮座しているのは、
二荒山(ふたあらやま)神社
日光市の二荒山(ふたらさん)神社との混同をさけるため、
宇都宮二荒山神社 と表記されることが多いようです。
栃木県を代表する古社で、
宇都宮の地名はこの神社に由来し、
また、宇都宮の市街地は、
二荒山神社の門前町として発展してきたそうです。
社殿は、
かつて、20年ごとに建て替えられていたそうです。
戦国時代以降、いく度となく火災に見舞われ、
戊辰戦争の際には、新政府軍の砲弾攻撃で焼失し、
現在の社殿は、明治10年(1877)に明治政府によって再建されたそうです。
正面の石垣は、
江戸末期に組まれたものが現存していて、
弘化三年(1846)丙午正月吉日の銘があります。
平安中期にまとめられた「延喜式神明帳」には、
「下野国十一座 河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載されいて、
宇都宮二荒山神社と日光二荒山神社の2社が、その論社となっています。
式内社(名神大社)の論社。
下野国一之宮。
旧社格は、国幣中社。
現在は、神社本庁の別表神社。
神紋は三つ巴(菊に三つ巴)。
創建は、
社伝によれば、
仁徳天皇41年(353)下毛野国造に任ぜられた奈良別王(ならわけのきみ)が、
毛野国の開祖である豊城入彦命を、
荒尾崎(現・境外摂社下之宮)に祀ったことにはじまるとされ、
承和5年(838)に、臼ヶ峰(現在地)に遷座されたと伝えられています。
また、
豊城入彦命が東国下向の折、御諸山(奈良の三輪山)の大神を祀ったという説もあるようです。
祭神は、
主祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相殿 大物主命(おおものぬしのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
主祭神は、
現在は豊城入彦命ですが、
時代によって諸説あり、
彦狭嶋王、御諸別王、事代主命、健御名方命、日光三所神、・・・など。
豊城入彦命が外れた時期もあり、
江戸期には日光山大明神と称され、
大己貴命、事代主命、健御名方命が祀られたそうです。
祭神の組み合わせもいろいろあったようで。。。歴史の変遷がうかがわれます。
社名の二荒山(現在の男体山)は、おおよそ北西方向ですが、
社殿は、南面しています。
創建当初の鎮座地は、
境外摂社の下之宮として、
現在、大通りを隔てたビルの脇に鎮座していますが、
由緒書きの絵図では、
かつては小さな丘になっていて、社殿は西を向いているように見えます。
神殿の前の狛犬は、
年代などは不明ですが、
金属製で、阿像は構え型、吽像は蹲踞の姿勢で、珍しい組合わせですね。
境内末社は、
本殿の左側に、
(一番左側) 初辰稲荷神社 祭神:倉稲魂命
(本殿の瑞垣を背にして) 女体宮 祭神:三穂津姫命
十社宮 下野国式内社十社の祭神を合祀
本殿の右側に、
須賀神社 祭神:素戔嗚命
市神社 祭神:大市姫命
昭和59年奉納の狛犬は、目がまん丸で、とってもユニーク!
裏坂に、
東照宮 祭神:徳川家康公
神門の外になりますが、
参道の階段の途中、両側がひな壇のようになっていて、
左側の壇には、
(右側) 剣宮 祭神:素戔嗚命
(中央) 十二社 祭神:国常立神 ほか
(左側) 菅原神社 祭神:菅原道真公
右側の壇には、
(中央) 荒神社 祭神:素戔嗚命
(左側) 松尾神社 祭神:大山咋命、中津嶋姫命
(右側) 水神社 祭神:罔象女神
社務所には、宝物が展示されています。
その中の、重要文化財(国指定)の「鉄製狛犬」は、
鎌倉時代の建治三年(1277)に吉田直連が奉納したとの銘があり、
高さおよそ36㎝の鋳鉄製ですが、
「狛犬」というより、「和犬」のような姿をしていました。
所用があったため、時間に余裕がなく、
宇都宮二荒山神社だけをピンポイントで訪れましたが、
行ってみたいところはたくさんあるので、また訪れたいと思っています。
宇都宮は、ブログ友の地味居さんの地元です。
地味居さんが、力を込めて応援している
宇都宮商業高校野球部は、
34年ぶりに春の甲子園出場が決定しました。
宇商野球部の健闘と、
地味居さんが、休暇と資金をやり繰りして応援に行けるよう、お願いしました!
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東京都あきる野市五日市1081。
今日は節分。
延喜式神明帳の武蔵国多摩郡八座の筆頭(小社)にあげられる
阿伎留神社では、
節分祭がおこなわれました。
神楽殿で、
上町囃子連による、
神楽が奉納され、
宮司・阿留多伎氏による
大祓いの神事がとりおこなわれました。
そのあとは、
豆撒き。
あきる野市市制15周年記念映画「五日市物語」の
主演女優
遠藤久美子さんがゲスト。
豆撒きが佳境に入り
紅白のスモークが焚かれ、
赤鬼・青鬼の登場!
それまで、
はしゃいで、走り回っていた子供たちは、
さっと、お母さんの隣に戻り、
怖くないよ!
と叫ぶものの、鬼に近づこうとはしない。。。のね。
明日から、春。
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東京都台東区浅草2丁目。
浅草駅の吾妻橋のたもとから西へ。。。
浅草寺は、
7世紀の縁起と伝えられる、歴史の長い寺院です。
関東大震災や、第2次世界大戦の戦禍により、
堂宇は昭和30年代の再建が多いのですが、
東京を代表する寺院のひとつとして、
いろんな国から訪れた、たくさんの人でにぎわっていました。
浅草寺の総門は、
当初、駒形付近に建てられ、
現在地に移ったのは鎌倉時代以降と考えらるそうです。
雷門(風神雷神門)は、
切妻造りの八脚門で、右に風神像、左に雷神像が安置されています。
江戸時代3度の火災にみまわれ、
3度目の慶安元(1865)年の田原町大火で焼失したのち、
95年を経て、昭和35(1960)年、松下幸之助氏によって寄進されたそうです。
風神雷神像は有名ですが。。。
大提灯の底には龍が彫られ、
境内側には龍神像が安置(昭和53(1978)年)されていています。
龍神像はあまり大きくないけれど、すごい目ヂカラ!
雷門から宝蔵門の間は、
仲見世。
参道の両脇にお土産屋さんがずらりと並び、
ここを歩くと、なんとなくウキウキしてきます。
浅草みやげはいろいろあるけど、
代表格は、「雷おこし」と「人形焼」かしら。。。
私が子供のころは「雷おこし」が定番だったような気がします。
宝蔵院の手前、
仲見世が途切れたあたりを右に折れて、
すこし奥まった木立が繁る弁天山には、
老女弁財天が祀られる弁天堂。
弁天堂の右手前の鐘楼の鐘は、
江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」。
元禄5(1692)年に改鋳されたもので、いまも現役。
毎朝午前6時を告げています。
宝蔵門(仁王門)は、
天慶5(942)年、平公雅による建立と伝えられ、
数度の火災に遭いそのたびに再建されてきたそうです。
慶安2(1649)年、徳川家光によって寄進された仁王門は、
300年間近の昭和20(1945)年、空襲により焼失。
現在の宝蔵門は、昭和39(1964)年、大谷米太郎氏によって寄進されました。
入母屋造りの二重門で、
内部に宝物が収蔵されていることから、宝蔵門と称しているそうです。
大提灯の底には、やはり、龍の彫刻。
宝蔵門をくぐると目の前に本堂がそびえています。
が、その前に、ぐるりを見回して、タワーをチェック!
右手には、スカイツリー。
左手には、五重塔。
そして。。。左手奥には、遊園地・浅草花やしきのスペースショット!
本堂(観音堂)は、
慶安2(1649)年に再建された旧本堂(旧国宝指定)は、
空襲で焼失し、昭和33(1958)年に再建。
平成22(2010)年の改修で、屋根瓦はチタン製。
浅草寺は、
山号は、金龍山。聖観音宗 総本山。
本尊は、秘仏・聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。
前立本尊は、慈覚大師円仁作・聖観音菩薩。
縁起は、諸説あるようですが、
浅草寺縁起によると、
推古天皇36(628)年3月18日、
檜前浜成・竹成(ひのくまはまなり・たけなり)兄弟が、
江戸浦(隅田川)で漁労中に、観音像が網にかかった。
兄弟の主人である郷司・土師中知(はじのなかとも)は、
像が聖観音菩薩像と知って、出家し、自宅を寺に改めて、礼拝供養した。
大化元(645)年、勝海上人(しょうかいしょうにん)が観音堂を建立し、
夢告によって本尊を秘仏と定めた。
平安時代初期、
慈覚大師円仁(えんにん)が当寺を訪れ、お前立の観音像を作った。
天慶5(942)年、平公雅が武蔵守に任ぜられた際に、
雷門、仁王門など、七堂伽藍を整備した。
と伝えられているそうです。
境内は広く、堂宇もとてもたくさんあるのですが。。。ごく一部。
日限(ひぎり)地蔵尊の六角堂。
日限地蔵は、造立年代不明の木造。
日数を定めて願をかけると霊験があるとされるそうです。
この六角堂は、
浅草寺誌に、元和4(1618)年の建立と記され、浅草寺内では最古の遺構。
平成6年、現・影向堂の南基壇上から移築された。東京都指定有形文化財。
橋本薬師堂は、
外部はかなり改変されているものの、
慶安2(1649)年徳川家光によって再建され、
二天門や六角堂に次ぐ古い建物。
再建当初、橋の傍らに建てられたので橋本薬師と命名されたそうです。
淡島堂は、
元禄年間(1688~1703)、紀伊の加太神社を勧請。
祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)
本堂再建 (昭和20〜33年) の間の仮本堂として建てられ、
本堂完成後は、影向堂(ようごうどう)となり、
平成6年からは、淡島堂として現在地に移築されたそうです。
本堂の前を東へすすむと、
二天門。
表参道の門に比べて、こじんまりとしています。
元々は、境内にあった東照宮の神門だったそうです。
元和4(1618)年に建立された切妻造の八脚門。
江戸時代初期の貴重な建造物として、重要文化財に指定されています。
長い記事になってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
サイズオーバーらしく、
最後の二天門の写真はUPされませんでした。。。
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東急・東横線 自由が丘駅のホームから見た駅前のロータリー。
「自由が丘」という地名は、
この地域に自由ヶ丘学園が設立(昭和5年)されたことから、
昭和7年、目黒区が成立時に、東京市目黒区自由ヶ丘となりました。
江戸時代は、荏原郡 衾村(ふすまむら) 谷畑(やばた)。
東急東横線の「自由が丘駅」は、
開設当初(昭和2年)は「九品仏前駅」。
東急大井町線に「九品仏駅」ができることになり、
旧地名の「衾(ふすま)駅」に改称予定でした。
ところが、
住民からの反対運動によって、「自由ヶ丘駅」となり、
さらに表記変更されて、現在の「自由が丘駅」になったのだそうです。 写真地図で見ると、
自由ヶ丘1丁目24のブロックには、
そこだけに、南北に細長い杜が残っていて、
熊野神社の境内とわかります。
東京都目黒区自由が丘1−24−12。
自由が丘の熊野神社は、
東急・自由が丘駅から、繁華街を通り抜けて5分ほど。
ビル街では地形が分かりにくいけれど、
参道には石段があり、高台になっています。
道路から北方向へ参道が続き、
一の鳥居、二ノ鳥居、そして、赤い三ノ鳥居。
石段の手前には、一対の狛犬(平成13(2001)年)。
石段をのぼると、正面に拝殿が見えます。
社殿は南向きで、
自由が丘の中心街を見守っているかのようです。
右手に、手水舎。その奥に、神輿蔵が並んでいます。
左手には、社務所と神楽殿。
神楽殿では、
9月の例大祭で、目黒区無形文化財の「目黒ばやし」が奉納されます。
拝殿の手前には、一対の狛犬(昭和48(1973)年)。
祭神は
速玉之男尊(はやたまのおのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
泉津事解之男尊(よもつことさかのおのみこと)
現地案内板によると、
熊野神社は、
「谷畑(やばた)の権現さま」として崇敬され、
創建年代は不詳ですが、
寛政8(1796)年の社殿改修棟札の写しが残っており、それ以前の創建。
また、中世から近世にかけて講が行われたことから、
村人の熊野詣によって、勧請されたと考えらているそうです。
また、
本殿は、
石蔵の中に鎮座しているようで、
外からはまったく見えないようになっています。
拝殿には、
奉納絵馬が掲げられていました。
年代は確認できなかったのですが、
江戸時代なのかしら。。。
赤い鳥居の先に石段があり、
簡素な拝殿に向かって、
参道に跪いて参詣している様子が描かれています。
新編武蔵風土記稿には、
(衾村)熊野社
境内除地五畝歩、小名谷畑にあり、是も草創の年歴をしらず、
本社一間四方の小祠、拝殿は二間に三間南向なり、村の持
奉納絵馬では、
拝殿の右手は、
築山か盛土のように少し高くなっているようですが、
祠などは描かれていません。
ちょうどその辺りに、
やはり、
熊野神社よりも地面(?)もすこしだけ高いかなあ。。。
境内社として、伏見稲荷神社が鎮座しています。
祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
右手に手水舎。手水鉢(明治41年)は天邪鬼が支えています。
赤鳥居をくぐると、
一対の狐像は金網で覆われて。。。いたずら狐が逃げ出さないように?!
伏見稲荷神社の右手から、
境内の北側へ通りぬけると、東へ向かって下り坂。
昔は、見晴らしのいい所だったのでしょうね。。。
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