のびパンチ

あっという間に過ぎていく。。。

神社・寺

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
イメージ 1
 
 
東京都あきる野市原小宮101
秋留台地の北の端にある交差点。
平井川へおりていく坂は、鍛冶坂と呼ばれています。
 
土地の古老の話では、
このあたりに、屋号が鍛冶屋という家があり、
その家では、金山様が祀られているそうです。
また、秋川一帯には、鍛冶屋という家名(いえな)は珍しくないそうです。
 
 
ちなみに、屋号家名は、呼び名の一種で、姓を名乗れなかった時代や、その集落に同じ姓の家がたくさんある場合、場所や職業で呼び合っていました。屋号は商売をしている家。家名は普通の家ですが、かつて鍛冶屋の商売をしていた場合は屋号が家名として名残をとどめているようです。
たとえば、「たまやのタクヤ」とか、「桜坂のマサハル」とか。。。
これは家名ではないけど、「○○の」とつけると、
別のタクヤやマサハルと区別がつきやすいですよね。。。例はドンピシャじゃないかも(笑)
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
交差点の脇には、鳥居があり、
大きな桜の木がそびえている傍らに
小宮神社一神門
の石碑が建っています。
 
現在の桜は、二代目ですが、
この碑は、かつて大きな山桜の株に抱き込まれていて、
碑銘が読み取れなかったそうですが、
平成二十年、境内を整備する際、桜株の根元から掘り起こされました。
 
橋のなかった時代、
平井川を隔てて鎮座する小宮神社を遥拝する一番目の門として、
江戸時代後期に安置されたものと考えられています。
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
遥拝所の脇のお地蔵さまは、
とうがらし地蔵
と呼ばれ、
昔から、歯の痛みや腫れ物ができた時に、
「とうがらし」をお供えすると霊験があると言い伝えられています。
以前は、桜株の北側の代田坂にありましたが、
昭和8年、道路改修工事のため、ここに祀られるようになったそうです。
 
 
 
 
 
桜株 (秋川今昔物語より)
 
昔、山桜の実をくわえた鳥が原小宮の上を飛んでいました。
平井川近くに来るとその実を落としました。
実が落ちた所は、小宮神社の遥拝所で
小宮大明神と彫った二尺ばかりの石碑が建っている近くでした。
桜の実は芽をふきました。
何年かたつと、地面から少し離れた所から生えた枝を四方へ伸ばすという、
不思議な形をした桜の木になり、春になるときれいな花をいっぱいつけました。
桜の木は年ごとに大きくなり、
近くの小宮大明神と彫られた石碑を枝が取り囲むようになりました。
それからも桜の木は育ち続け、碑は太い枝に抱き込まれ上の方をわずかに見せるだけになりました。
その姿は、前を通る人の目を奪い、いつの間にか「原小宮の桜株」と言われるようになりました。
 
 
 
 
詳しい地図で見る
イメージ 1


東京都あきる野市草花1787番地。

草花神社 は、
大澄山(192m)の麓にある旧・花ノ岡集落から、
まっすぐに石段が続きます。





雨が降っていたので、やめようかと思ったのですが。


イメージ 2


山腹にしては、比較的広い境内です。




秋川市史によると、

創立年代は不詳で、
元は、十二天社と称し、麓の集落に鎮座していたそうです。
明治2(1869)年、
社号を十二天社から草花神社に改め、伊弉那岐尊、伊弉那美尊の二柱を祀りました。

同時に、一村一社の命によって、
周辺の集落( 折立、高瀬、森山、西ヶ谷戸 )の各鎮守を合祀しました。

さらに、
麓にあった社殿を、現在の山腹に造営し、
明治10(1877)年に、村社に列せられました。
ただし、
上草花村と下草花村に分かれており、下草花村の村社。

その後、
大正初期に入り、各社分離の状態となって、
折立、森山、高瀬の三地区は、元の場所に社を建て、

現在は、
草花、西ヶ谷戸の氏子によって、春秋の例祭がとり行われているそうです。



イメージ 3


祭神は、

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)(主神)、
伊邪那美命(いざなみのみこと)、
国底立命(くにそこだちのみこと)、
日本武尊(やまとたけるのみこと)、
誉田別命(ほんたわけのみこと)、
建須佐之男命(たけすさのおのみこと)。


と記されており、
合祀された時点の祭神が祀られているようです。

元々の鎮守である十二天社については、
新編武蔵風土記稿にも記載がないので、
祭神は不明ですが、
一般に、十二社、十二柱は、熊野神社が勧請されている場合が多いようです。




最後の画像は、

境内からの眺めです。
晴れていれば、見晴らしがよさそう。。。



イメージ 4






イメージ 1


東京都あきる野市。

多摩川に、支流・平井川が流れ込む少し上流に、
五日市街道の 多西橋が架かっています。

かつての五日市街道は、
多西橋より200mほど下流側を通っていて、
多摩川は、船で渡っていました。

渡し船は、
承応年間(1652-55)に始まったと伝えられ、
渡場が左岸の熊川町(現・羽村町)牛浜にあったことから、
牛浜の渡し 」でしたが、

明治23年、右岸のあきる野市草花に管理が移って、
大正14年に多摩橋が架かり渡し船が廃止されるまで、
森山の渡し 」と呼ばれたそうです。



イメージ 2


多摩川・平井川の2本の川を越えるには1km程あって、
荷駄や商人と、一般客が乗合う渡し船は、
ときには、二宮歌舞伎見物や拝島大師の縁日などの晴れ着姿もあり、
たいそうな賑わいだったそうです。

「森山の渡し」から多西橋を眺めると、
左(南)に平井川、右(北)に多摩川が流れ、
2本の川に挟まれた地域は、草花丘陵の小高い丘が続いていきますが、
その先端には、森山神社が鎮座しています。



イメージ 3


草花町は、
かつて上草花村と下草花村に分かれていて、

森山神社は、下草花の小名・森山の鎮守として、
江戸時代は、森山明神社とよばれていました。

明治2(1869)年に草花神社に合社されましたが、
大正初期に再び分離して、元の場所に祀られています。


森山神社からの眺めは、
多西橋の橋桁が高くて、視界が遮られていますが、
地元の方は「昔は、ずっと先まで見渡せた」。。。



イメージ 4


訪れたこの日は、
翌日に祭をひかえ、雨の降る中、準備の真っ最中でした。


ご祭神は、

現在、伊弉那岐命(いざなぎのみこと)が祀られていますが、


江戸時代の書物・新編武蔵風土記稿には、飯綱権現と記されています。

飯縄権現は、
長野県飯縄山の山岳信仰が起源とされる神仏習合の神ですが、
白い霊狐に乗った烏天狗の像で表わされます。
戦勝の神として、足利義満、上杉謙信、武田信玄など中世武士からの信仰が篤く、
上杉謙信の兜の前立ては、飯縄権現像。


また、
森山神社の神さまと、二宮神社の神さまは、姉弟
と、古くから伝えられていているそうです。

18世紀半ばに造営された本殿を拝見していると、

ひとりの氏子さんが、作業の手を休めて、
「ここの神さまは、二宮神社の姉さんなんだよ」
と。



イメージ 5



森山の明神様 (秋川今昔物語 より)

昔、三月の初めというのに、雨の多い年がありました。
いつもの年なら、この時期になると川原の水は涸れ川原が広くなっているのに、
その年は川原が見えないほど水が増えていました。

三月十一日は、森山神社のお祭りの日でした。
この日は、珍しく晴れたものの、朝から強い風が吹いていました。

このような日に、森山神社の近くで火事がおきました。
春先の強い風にあおられた火は、見る見るうちに燃え広がりました。

人々にまじって火を消していた森山神社の神様は、
「明神様の方に火が回ったぞ。」
と叫ぶ声を聞きました。

森山神社の神様は、二宮神社の神様の姉さんで、
土地の人から明神さまとあがめられておりました。

明神さまは社に戻ることにしました。
社の近くまで来ると、社の周りは一面の火で今にも社に燃えうつりそうなありさまで、
これ以上社に近づくことはできません。

「ひとまず二宮の弟のもとに身を寄せよう」

そう思った明神様は、平井川の岸に立ちました。

平井川は、数日来の雨で向こう岸の二宮まで濁った水がいっぱいに広がり、
足元の崖には川の瀬がぶつかりしぶきをあげています。
「二宮までと思ったが、この大水。向こう岸までどのようにして渡ろうか。」
うねりながら流れる川の面をじっと見つめている明神様の姿は、
渡り方を考えているようでした。

そのうち、良い思案が浮かんだと見え、静かに崖を折り始めました。
その姿は、いつのまにか大きな蛇になっていました。
蛇は平井川につつと這い入って二宮の方へ泳いで行きました。
それから間もなく社は炎に包まれました。

蛇が川を渡る様子を、大騒ぎしている火事場の中で見た人がいました。
その人は、後になって自分が見たことを皆に話しました。
これを聞いた人々は、
「今頃蛇が出るなんて変だ。しかもお宮の崖から現れると端。ことによると明神様かもしれない。」
「いや、明神様にきまっている。」
と話し合いました。



最後の画像は、

森山神社のすぐ脇を流れる 平井川。。。



イメージ 6




イメージ 1


東京都あきる野市二宮。

二宮神社の手水舎の脇から石段を降りたところにある、
御手洗( みたらい )池

日本武尊東征の折、
この地で水神・国常立尊に祈願したところ水が湧き出した
と、伝えられているそうです。

御手洗池は、
どんな旱魃にも涸れたことがないといわれる湧水を水源として、
昔から地元の人々にたいせつに管理され、
雨も続いたこの日も、少しの濁りもなく澄みきっていました。


二宮神社の記事は こちら → 二宮神社( あきる野市二宮 )



イメージ 2


かつては、
日照りが続くと、この池で、雨乞いが行われたそうです。
雨乞いは、
池の水源に近いところで、水甕の上に龍像を祀り、
褌一本になった男子数人が池に入り、
龍像に水をかけ、男子同士も水を掛け合いながら、「大岳山の黒雲・・・」と唱え、
その後、水甕を拝殿に納め、雨が降ると、龍を神社に納めたそうです。

どんな日照りが続いても、雨乞いを行うと雨が三粒は降るといわれていたそうです。

この雨乞いの儀式は、
聖地としてけがすことが許されない池に入り、大騒ぎをしている様子。。。
想像すると、
祈るというよりは、むしろ水神を挑発するような印象を受けます。

現在は、
馬場洗いの神事 」として、
7月15日(元は7月7日)に、池の大掃除が行われるそうです。


前回訪れたときに見つけられなかった、
オシャモジ様 は、池のほとりに鎮座していました。




イメージ 3



涸れない池 (「秋川昔物語」より) 

昔、景行天皇の皇子日本武尊は、
東の国を治めるため軍勢を率いて都をたち、或る年武蔵国にはいりました。

ところが、どうしたわけか晴れた日が毎日続くようになりました。
池や川の水がきわだって減ってくるようになっても、雨の降る気配はありません。
そのうち、泉は涸れ、川も砂や石ころが続く荒れた道のように干あがってしまいました。

飲み水がとれなくなった尊の軍勢は、だんだん勢いがなくなっていきました。
二宮の森近くまで来たときには、歩くことができない者も出てくるほど弱ってしまいました。

この様子を見た日本武尊は、
「このうえは、水を与えてくれるよう神に祈るほかはない。」
と思い、
軍勢を止めて祭壇をつくり、水の国の神様国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀り、
「水を授けてほしい。」
と一心に祈りました。

すると、崖の下から水が勢いよく湧きだしてきました。

水は、まわりの土や石を押し流し、みるみるうちに大きな水たまりをつくり、
溢れた水は帯のようになって低い方へ流れていきます。
皆は、声をあげて喜びました。

濁った水が澄んでくると、いままで水たまりのように見えていた所は、
きれいな水をたたえた池になっていました。
池に注ぐ水は、水が勢いよく湧き出たときにえぐられてできた崖の穴の奥から出ています。
人々は、池の周りに集まり、清らかな水を飲み喉を潤しました。

この池が現在二宮神社の境内にある池です。
崖下から湧き出る水の量は、どんなに日照りが続いても普段と変わらないので、
池の面はいつも同じ高さを保っています。

崖の上にある二宮神社は、国常立尊を祭神にしています。



イメージ 4


この記事は、
秋川市史
秋川昔物語
新編武蔵国風土記稿
その他 を参照しています。




イメージ 1


東京都あきる野市。

秋留( あきる )台地は、
南北を 秋川と平井川にはさまれ、二本の川はすぐ近くて多摩川に合流しているため、
東西に長い、島のような台地です。

二宮神社は、
その秋留台地の東南の先端、
ちょうど船の舳先のようなところに鎮座しています。

境内には、縄文時代早期以来の各年代の遺跡が重なりあっており、
この一帯は、武蔵国多磨郡小河郷の中心だったと考えられるそうです。



イメージ 2


二宮神社の、
創建年代は不詳ですが、
中世までは、小川大明神 といわれ、
郷の守護神である小川大神を祀っていたそうです。

おおよそ平安後期から鎌倉時代のころ、
武蔵国総社・大国魂神社( 東京都府中市 )において、
武州六社明神の二之宮として奉祀されたことから、
二宮大明神 と呼ばれるようになったそうですが、
武州六社明神の中で、二宮神社だけが延喜式神名帳の記載がありません。

明治3 (1870) 年、二宮神社 に改称されました。



イメージ 3


祭神は 国常立尊(くにとこたちのみこと)

社伝によれば、
日本武尊が東征の折、国常立尊を祀り、
天慶2(939)年、平将門の乱に際して、藤原秀郷が将門追討の戦勝祈願し、
乱平定の奉賽として社殿、玉垣を造営したと伝えられているそうです。

社殿は東向きに建ち、本殿は三間社流造。
造営の年代は、判りませんでした。



イメージ 4


境内の末社は、
社殿に向かって右側手前から(画像は右側から)、

荒波々伎(あらはばき)神社
諏訪(すわ)神社
伊勢神社、八幡神社、八雲神社、天津社、稲荷神社
稲荷神社

荒波々伎神社は、珍しいと思いますが、
足神様と呼ばれ、
足の病にご利益があり、治ったお礼には、草鞋を奉納するそうです。

また、境内のどこかに、
オシャモジ様が祀られているそうです。
オシャモジ様は、咳に霊験があり、治ったらオシャモジを奉納するそうですが。。。



イメージ 5


境内案内板によると、
年間に、22の神事がとりおこなわれるようです。


拝殿の右側に囲われている篠竹は、
1月15日早朝に行われる「 筒粥の神事 」に用いられ、
米三合と、32本の節を残した篠竹の筒を一緒に入れて、
粥を炊き、篠竹の中に入り込んだ粥の量で、農作物の吉凶を占います。

さらに、残り火を、どんと焼きに点したのち、
1年間の無病息災を祈念して、炊きあがった粥は、参拝者に振舞われるそうです。


9月9日におこなわれる例祭は、
神饌として、しょうがさといも牛の舌餅が供えられることから、
別名「 しょうがまつり 」と呼ばれ、
境内で売られるショウガを求めて、多くの人でにぎわいます。

ショウガとサトイモは、
畑から掘り出した葉と根がついたままのものを(洗って)供えるようです。

牛の舌餅は、
かつては、神田で収穫した米を搗いた餅だったそうですが、
田んぼが宅地化された現在は、参道の和菓子店が担当しています。
約1kgのだ円形の餅3本を供え、翌日、薄く切って氏子の各家へ配ります。

牛の舌餅を配るなどの神事の進行を助けるのは当番制で、
「 目代(もくだい)」と呼ばれており、この呼称にも歴史を感じます。


右側の画像は、
顔面把手と呼ばれる、
縄文中期土器の口縁部に人面を模した装飾のある把手ですが、
二宮神社周辺で発見されたこの顔面把手は、片目が切られています。

片目の顔面把手は他の地域でも発見されているそうですが、
何故、片目なのか、とても興味深いですね。

(中央と右側の画像は、秋川市史から拝借させていただきました)




松の葉で目を突いた神さま 」 

昔、仲の良い姉と弟の神様がいました。姉は森山、弟は二宮の社に祀られていました。
そのころの二宮神社の周りは、何種類もの木が思い思いに茂って昼間でも暗い森でした。

或る日のことです。
弟の神様は、森の中を歩いていたとき、
松の葉で片目をつき、それがもとで片目が見えなくなってしまいました。

このことを知った人々は、
「 神さまの目を傷つけた松は、お宮におかないことにしよう。」
と言って、境内にある松を 皆きってしまいました。

その後、誰も境内に松を植えないので、二宮神社の境内には、松の木は見当たらなくなりました。



イメージ 6


この記事は、
秋川市史
秋川昔物語
新編武蔵風土記稿
その他 を参照しています。




.
アバター
nobikit
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事