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東京都あきる野市網代 ( あじろ ) は、 圏央道あきる野インターや遊園地・サマーランドの西側にあり、 秋川の南岸の一帯です。 古くから弁天山と呼ばれている小さな頂きは、 中腹に「 貴志嶋神社 」が祀られています。 現在は、弁天公園 として整備され、 山頂へは、稜線脇と谷沿いのコースがあり、 手軽なハイキングコースになっています。 参道の鳥居は、 稜線脇のコースの入り口になっていますが、 谷沿いは、入り口の標識が見つかりませんでした。 左側の画像は、 途中で二手に分かれています。 左は、貴志嶋神社へ直接向かいますが、 右の石段を登って、山頂を目指しました。 右側の画像は、 山頂です。 山頂は、 大きな石がいくつもあって、 あまり広くはありませんが、 北から東方向の視界が広がっています。 秋川に架かる手前の橋は、山田大橋。 右側の木の間からは、あきる野インターやサマーランド、 前回ご紹介した、雨武主神社の山も見えています。 さらに遠くには、 西武球場のドームや、よくわからないけど高層ビルも。。。 山頂から、南側への下りは、 はじめ、岩の間を歩く足場の悪い道ですが、 少し行くと、 山頂の真下にあたるところに、 「 奥の院 」の「 弁天洞窟 」と呼ばれる、岩窟があります。 入り口はあまり大きくありませんが、 洞内は、意外に広く、二間四方だそうですが。。。真っ暗です! 懐中電灯を持っていなかったので、外からのぞき込みました。 奥には、 左に 大黒天像。 中央は燈籠、右側に 毘沙門天像 が祀られていました。 案内板によると、 毘沙門天石像は、無銘ですが、 大黒天像は、背面に「文明九年(一四七七)丁酉閏正月六日」の記銘があり、 おそらく主尊として、弁財天像 もあったと推定されるそうです。 新編武蔵国風土記稿には、 「毘沙門大黒などの石像を置く」と記されていて、 江戸時代には、すでに弁財天像はなかったのではないかと思います。 また、 考古学調査によって、 洞穴内から、須恵器 の欠片が発見され、 この岩窟は先住民の居住祉とも考えられるそうです。 さらに下っていくと、 まもなく、赤い方形の社殿が見えてきます。 画像は、 石段の上に正面が見えていますが、 この石段は、谷からの参道になっていて、 奥の院からの道は、社殿の脇に出てきます。 「 貴志嶋神社 」 旧網代村の鎮守で、創立は不詳。村内の妙台寺(廃寺)が別当。 明治2年までは、「 貴志嶋弁財天 」と称し、 現在でも「 網代の弁天様 」と呼ばれているそうです。 祭神は、市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) 末社は、 神明神社 祭神 天照大神 八雲神社 祭神 素戔雄尊 山を背にした社殿の後側、 石垣の上には、 文化年間( 1804~1817)の石祠と、 ボーリングの球ほどの大きさの、石の玉が祀られていました。 また、 前回ご紹介した雨間の雨武主神社には、 ここ、網代の貴志嶋神社にまつわる伝説が伝えられています。 大蛇の通った跡 (秋川昔物語) 昔、雨間の雨武主神社の神さまが、網代の弁天さまに用事ができて、 網代まで出かけることになりました。 弁天様の住まいがある弁天山は、雨武主神社がある山の西にありました。 神さまは、今までに何回か弁天山に行ったことがあり、 その道順は秋川の北の原っぱを通っていました。 弁天山に行くのに、いつも同じ道ばかり通っていた神さまは、 「たまには違う道を行くか。秋川谷をさかのぼってもいいし。」 と道筋をあれこれ考えました。 「道が悪いかもしれないが、峰伝いに行ってみよう。この方が一本道だし、他の道を行くより早く着くだろう。」 神さまはそう思うと、大きな蛇になって山を降りると西にある山に向かいました。 山の上に来ると、そこには尾根道があって弁天様の方へ続いているようです。 神さまは、どんどん進むことができました。 しばらく行くと、谷に出会いました。 向こうの山へ行くには、谷の底まで降りて、また登らなければなりません。 神さまは、 「仕方がない。下まで行くか。」 とひとり言を言いながら、谷を降り、谷を登りました。 そこには尾根道がありました。 神さまは、谷があったためにひまをかいてしまったので、いそいで行くことにしました。 ところが、また谷に出会いました。 今度の谷は、前の谷より深く、降りたり登ったりするのにひまがかかりそうです。 神さまは、 「この先、いくつ谷があるかしれない。峰を行くより裾の方を通って行こう。」 と考え、少しばかり谷に下りると、向きを変え、木や草が生えている山の中腹にはいって行きました。 後には、木や草が西を向いて倒れていました。 その後、神さまが通った跡は、木や草が生えなくなり、地肌を見せるようになりました。 |
神社・寺
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圏央道のあきる野インターチェンジの東に位置している、 東京都あきる野市雨間(あめま)は、 かつて、雨間村 とよばれていました。 多摩川の支流・秋川の両岸にまたがる雨間村は、 二宮−五日市の往還と、青梅−八王子の往還が交差し、 また、秋川の渡しがあったことから、 昔から、交通の要所だったそうです。 秋川の南岸にある明神山と呼ばれる丘陵の頂上付近には、 雨間村の氏神さまである 雨武主神社 が鎮座しています。 「雨武主」は、「あめむしゅ」と読みます。 とても珍しい社名ですよね。 明治2年の社名変更以前は、「 雨武主大明神 」と称し、 今でも、地元の方たちには「 みょうじんさま 」と呼ばれているそうです。 秋川の北岸の、見晴らしのいい河岸段丘の上に、 対岸にある雨武主神社に向かって、一の鳥居が建ち、 崖っぷちに拝所が設けられています。 ここは、「 鳥居場 」と呼ばれ、 かつて橋がなく、川を渡るのが大変だったことから、 天保3(1832)年に鳥居場を設け、 北岸の人々は、ここで参拝する風習があるそうです。 また、以前は、川の中州にも、鳥居が建っていたそうです。 南岸の河岸段丘の上には、 秋川グリーンスポーツ公園 があり、 両親に連れられた小さな子どもたちが遊んでいました。 道路を隔てた奥に、雨武主神社の深い社叢が続いています。 道路に面した鳥居から、 手入れの行き届いた杜の中、緩やかな斜面が続きますが、 最後は、196段の心臓破りの階段になります! え〜っと、鳥居のところから、全部で233段!!!(たぶん。笑) 階段を登りきると、 正面の、石段の上に拝殿。 右手前に舞殿。 境内社は、 拝殿の、左側の覆堂に流造の祠。右側にも小さな祠が祭られていましたが、 いずれも、祭神はわかりませんでした。 創建年代は不明ですが、 寛永16(1639)年に再建された旧社は、山のふもとに鎮座していたそうです。 現在地に遷座されたのは、明治42(1909)年。 そのときに、神殿の覆舎を新築し、従来の覆舎に手を加えて拝殿としているそうです。 祭神は、 天御中主命(あめのみなのぬしのみこと) 速須佐之男命(はやすさのおのみこと) 品陀別命(ほんだわけのみこと) 大気都比売命(おおげつひめのみこと) (相殿) 宇毛祁智命(うけしちのみこと) 雨武主神社の神さまについては、 いくつかの言い伝えがありますが、そのひとつ。。。 「麻で片目をついた神さま」 雨武主神社の神さまは、荒っぽいことが嫌いで、 お宮の前で相撲をとったら、気に入らなくて雨を降らせたこともあるくらいでした。 ある日、神さまは秋川の北にある畑へ出かけて行きました。 畑には麻がいっぱい作られていました。 麻の中の道を歩いているうち、麻の根につまずき転んでしまいました。 その拍子に麻の葉で片目を傷つけてしまいました。 これを聞いた人々は、 「神さまの片目を怪我させた麻を作るのは恐れ多いことだ」 と言うことになり、それからは、麻を作らなくなりました。 この記事は、次の書籍を参考にしています。 秋川市史、秋川昔物語、武蔵野歴史地理、新編武蔵国風土記稿。 本殿は、 弘化3(1846)年から嘉永2(1849)年にかけて造営され、 飛騨の匠・後藤三次郎橘恒俊の手になる、 見事な彫刻がほどこされています。。。金網越しですが、わかるかしら。。。 |
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陣馬街道の下案下(しもあんげ)集落の、 「枠山神社」は、 江戸時代に編纂された新編武蔵国風土記稿には、 「山神社」と記されています。 明治12年、この一帯の村社は上案下の熊野神社と定められたのちも、 下案下の人たちによって、枠山神社は大切に守られてきました。 ですが、 この神社は嶺の中腹にあることと、氏子数が減少していることで、 維持することが難しくなっている面もあるそうです。 案下川に架かる小さな木橋を渡ると、 草むらの中に小道が続いています。 両脇に土台のような桝がありますが、標柱か何かが建っていたのかしら。。。 ゆるくて長い石段を登りつめると、 そこから先は、九十九折りの細い山道に入ります。 10分ほど登ると、 やっと、嶺の中腹に鎮座する社殿にたどり着きます。 鳥居は、木に薄緑色の金属を貼ったもので、 付け根から折れて、 参道を塞いでいました。 石段を登ったところには、 一対の石燈籠が建てられ、 覆堂の庇の下には、小さな狛犬が鎮座しています。 覆堂の正面には、 天狗が描かれた、昭和13年奉納の「山神社」の扁額があり、 正徳元年(1711)奉納の鰐口(1枚目の画像)が掛けられ、修験道でしょうか。。。 本殿は覆堂の中に鎮座しています。 祭神は、大山祇命(おほやまづみのみこと) 本殿は、一間社流造り。簡素でしっかりとした造りです。 社殿の後方には、ちいさな石祠が祀られていました。 石燈籠の奉納は、明和9(1772)年11月吉祥日。 狛犬の奉納時期は不明ですが、 この一帯の、 上案下集落の熊野神社の狛犬(明和8(1771)年)や、 振宿集落の龍蔵神社の狛犬(寛政8(1796)年)に通じる、 個性的な雰囲気があります。。。よね。 最後の画像、 案下川に流れ込む沢のほとりでは、ユキノシタが満開でした。 |
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八王子市上恩方町、 高留集落の関場(せきば)から和田峠までのルートは、 案下(あんげ)川に沿った案下道(陣馬街道)と、 醍醐(だいご)川沿いに、途中から車進入禁止の醍醐路の、2通りですが、 もう一本、今は通る人もほとんどいない、 案下川と醍醐川に挟まれた中谷山尾根を抜けていく尾根道があります。 そのルート上にある、本宮山(標高732m)の山頂には、 明徳2(1391)年に勧請された熊野神社が鎮座していたそうです。 その社殿は、慶長年間(1596〜1614年)に、焼失したため、 慶長14(1609)年に、麓の上案下集落に移され、再建されました。 上案下の熊野神社は、 集落の中心から和田峠寄りの、 民家の脇をぬける細い道から石段を登った南斜面に鎮座していました。 石の鳥居は昭和29年に建てられたもので、 社名額には「熊野神社」 鳥居に続く石段を登ると、 安永5(1776)年に建立された石燈籠が両脇に建っています。 木漏れ日がさしこむ踊り場には、 左側に石碑、 右側には自然石にくぼみをつけたような手水鉢が置かれていました。 さらに石段を登ったところには、 あまり大きくはないけれど、 歯並びの良い、個性的な狛犬が鎮座していました。 この狛犬は、明和8(1771)年に奉納されていますが、 願主が阿吽別々で、阿像が落合八右衛門。吽像は、小澤仁左衛門。 代々禰宜を務めていたのは小澤家と記されているので、その一族なのかしら。。。 祭神は、伊弉那岐命 伊弉那册命 大日霊命 社殿は、明治40年に焼失した記録があり、 その間は不明ですが、昭和20年代に再建されているようです。 江戸時代の記録では、9月9日に湯立が行われていたようですが、 地元の方のお話では、祭りは、もう、やらなくなって、 正月のほかは、草刈りに集まって、そのあとに恒例の慰労会だそうです。 境内社は、 社殿の左側に、向かって左から、自然石が二座、 続いて、琴平神社、秋葉神社、稲荷神社、天満宮、日天宮、津島神社。 今は、一か所にまとめられていますけど、 かつては、それぞれ小さな祠が建てられていたのかしら。。。 社殿の右側には、自然石が祀られていました。 そして、奥の道は、かつての鎮座地、本宮山へ続いているそうです。 境内は木立が繁っていて、見晴らしはあまりよくないんですけど、 参道の坂道からは正面の山が見えました。 きれいな形ですけど、何という山なのかしら。。。 最後の画像は、途中に咲いていたウツギ。 |
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ご神木の陰になって、神社が見えませんが。。。 東京都千代田区神田駿河台1-2 御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口から、神保町へ向かう途中、 現在は日本大学法科大学院になっていますが、 かつて、主婦の友社によって1987年に開設されたカザルスホールがあります。 室内楽専用の魅力的なホールですが、 2010年春に閉鎖されてしまうそうです。。。淋しいですね。 カザルスホールの先を左に曲がると、 同じブロックのちょうど裏側にあたるお茶の水仲通りとの角に、 かつては、一口(いもあらい)稲荷神社と称された、 大田姫稲荷神社 が鎮座しています。 石段を登ると、 左側に手水舎、その奥に見えるのは境内社の金山神社。 右側には、構え型の狛犬が一対。 どの向きに据えようかと迷っているうちにそのままになっちゃった。。。 と云うような感じで、あちこちを向いています。 室町時代の末頃、関東一帯で疱瘡(天然痘)が流行した折、 太田持資(道灌)の姫も、この地で、病に倒れてしまったそうです。 そこで、山城国(京都伏見)にある一口稲荷神社で平癒祈願したところ、 姫の病は全快したことから、 長祿元(1457)年、江戸城を築く際、鬼門に一口稲荷神社を勧請したそうです。 天正18(1590)年錦町一丁目、慶長11(1606)年聖橋の袂へと遷座をくりかえし、 明治5(1872)年に村社として太田姫稲荷神社に改称、 昭和6(1931)年、総武線の敷設や道路拡張によって現在地に移設されたそうです。 祭神は 宇迦之御魂神 菅原道真公、徳川家康公を合祀 神紋は、太田道灌にちなんで、「太田桔梗」。 現在の社殿は、 聖橋の袂にあったとき、関東大震災で焼失し、 昭和3年に造営された建物を、そのまま移したそうです。 境内社の金山神社。 祭神は、金山彦命・金山姫命。 元々は金属の守護神ですが、 江戸時代は、幕府の金座、銀座の守り神として崇敬されていたそうです。 右側は、宮司によって建立された、 大田道灌公供養塔。 ところで、 「一口」と書いて「いもあらい」とは、なかなか読めないですよね。 由来の通り、元々は、山城国の一口(いもあらい)の里だそうですが、 市ヶ谷の近くに、「一口坂」があります。 昔は、「いもあらいざか」って云っていましたけど、 最近は「ひとくちざか」だそうです。 六本木の交差点のアマンドから麻布十番方向へ下りる坂道も「いもあらいざか」ですが、 これは「芋洗坂」と書くので、呼び方はそのままのようです。 この地名は、一口稲荷神社が祀られていたのかしら。。。地名って、面白いですね。 最後の画像は、 飛び狐の木像。 太田桔梗紋の太鼓の上で、とても柔らかな線の美しい狐でした。 |







