|
韮崎市街の東側を流れる塩川にかかる鷹巣橋付近には、 太公望が大挙して訪れていました。 きれいに並んでいますが、 上流と下流では、どちらの方が、よく釣れるのかしら? なんて、ついつい気になって眺めていると、 しょっちゅう釣れているみたいで、 釣りって、意外と忙しいものなんですね。。。 ところで、 塩川の向こう岸の断崖の上は、 日ノ出城址 この崖に鷹が巣を作ることから、鷹巣城とも呼ばれ、 室町時代の初期応永・永享(1394〜1433)のころ、 武田氏再興のため、 武田右馬助信長に味方して活躍した、 日一揆と呼ばれる小豪族連合の拠点だったそうです。 現在は、 中央自動車道がど真ん中を通っていて、 城址は、二分されてしまっています。 城址に上がると、高速道路の脇に石碑が建てられていました。 案内板を見ると、 西側は断崖絶壁で自然の要塞となっているので、 城址に入るには、 東側からの道があるだけ。。。 ここには、いまも、日之城集落があり、 神明神社が鎮座しています。。。気になりますよね! もちろん、こちらも気になります♪ |
山梨の神社・寺
[ リスト | 詳細 ]
|
韮崎市の武田八幡神社を出て二の鳥居を左に折れると、 しばらくして、田圃が広がるなだらかな斜面に、 一本の大きな桜が見えてきます。。。。(画像では右の隅です) わに塚の桜 樹高17m、根回り3.4m、幹回り3.3m。枝張り23m。 樹齢は約300年といわれるエドヒガンの大木です。 わに塚は、 「芝間十五間二十間塚ノ形神前ニカカル鰐口ニ似タルヲ以テ」と、 江戸時代の地誌「甲斐国志」に記され、 拝殿にある鰐口(わにぐち)の形に似ていることから、 名付けられたと伝えられているそうです。 田圃では、 久し振りにアマサギを見かけました。 土地の口碑によれば、 日本武尊の王仁武田王が、 諏訪神社の南西桜の御所で治を行い、 薨じてこの地に葬られ王仁塚とも伝えられているそうで。。。 諏訪神社の石鳥居には、 諏方神社 と銘記され、年代はわかりませんでしたが、古いもののように見えます。 社殿はあまり大きくなくて、 この土地の氏神さまという雰囲気です。 境内には、 たくさんの石祠が祀られていました。 日本武尊の御子・武田王は、 [尾張国の丹羽建部君の祖として、 愛知県一宮市に、舘跡が伝えられているそうですが、 そののち、 この地へやって来たのでしょうか。。。。。 諏訪神社の境内からは、 石鳥居の向こうに、わに塚の桜、 そして、 さらに奥の尾根に鎮座する武田八幡神社は、 八幡三神が勧請される以前から、 もともと、 武田の郷の氏神さまとして、武田武大神が祀られていたそうです。。。 |
|
韮崎市街の西側を流れる釜無川を渡り、 川沿いを少し遡ると、 山に向かって一直線に伸びた参道の両部鳥居は、 背後の山並みに負けない存在感。 武田八幡神社の二の鳥居です。 このあたり、韮崎市武田・神山の一帯は、 その昔、日本武尊の御子・武田王(たけたのみこ)が居を構えたことから、 武田という地名がつけられたと伝えられているそうです。 山の斜面の鬱蒼とした森に佇む神社、 まっすぐな参道は、石鳥居の手前で、石垣に遮られ、鳥居を迂回して境内に入ります。 石鳥居と石垣は、県指定有形文化財だそうです。 石明神鳥居は、大きな亀腹(礎石)の上に建ち、 柱は全体のバランスから見ると、とても太く(半径0.46m)て少し膨らみが感じられます。 貫の部分に、天正12(1584)年補修の銘があるそうです。 建立の年代は明記されていませんが、 峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えているそうです。 この一帯の何箇所かの神社で似たタイプを見たことがありますが。。。特徴的ですよね。 隋神門にはたくさんの絵馬がかけられていて、 隋神像が、見えにくくなっています。 隙間から、やっとのぞきこむと、 少し傷んでいるようですが、ふっくらとして穏やかな顔つきです。 武田八幡神社は、 二の鳥居、石鳥居、隋神門、舞殿、拝殿、本殿が、 山のふもとから中腹へ、ほぼ一直線に並んでいます。 長い階段を登ったところは、目の前に舞殿が。。。 さらに上にある拝殿は、柱の間から少し見えるだけです。 舞殿の案内板は見当たりませんでしたが、 堂々として、とても美しい建物だと思います。 案内板によると、 往古、この地に日本武尊の御子・武田王を祀る宮社があったところへ、 弘仁13(822)年、勅命により九州宇佐八幡宮を勧請して、 武田王の宮社に合祀し、武田八幡宮と称したのが起こりで、 のち、貞観念間(859〜876)に京都石清水八幡宮を社中に勧請したそうです。 新羅(しらぎ)三郎義光いらい甲斐源氏の尊崇が厚く、 特に義光の曾孫・信義は、武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名のり、 付近に白山城(要害城)を築くとともに、 武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったそうです。 現在の本殿は、 天文10(1541)年、その年、甲斐の守護になった武田晴信(信玄)よって、造営されたそうです。 祭神 誉田別命 (ほむたわけのみこと) (中殿) 応神天皇 足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと)(左殿) 仲哀天皇 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) (右殿) 神功皇后 武田武大神(たけだたけのおおかみ) (相殿) 武田王 ウィキペディア他では、以上の四柱と説明されています。 境内の案内板には、 重要文化財 武田八幡神社本殿 三間社流造・屋根檜皮葺・付棟札五枚・旧巻斗一筒 県指定有形文化財 武田八幡神社末社若宮八幡神社本殿 一間社流造・屋根檜皮葺 と書かれていて、 若宮八幡神社といえば、応神天皇の御子・仁徳天皇が祭神ですよね。。。 残念ながら、社務所は閉じられていて、 詳しい由緒などはうかがうことができませんでした。。。また、ですね。 |
|
雁坂みち(国道140号線)を笛吹川に沿って遡り、 雁坂峠の少し手前、 旧道へそれて、上釜口の集落へ入るところ、 笛吹川に架かる赤い橋の手前に、 大嶽山那賀都神社の標柱が建っています。 この画像は、さらに集落へ入ったところです。 集落の中には、広場のような駐車場が2箇所もあり、 多くの参拝者が訪れるようです。 案内板には20分とあったけれど、 神社までは、沢に沿って約30分ほどの登り道。 だいぶ登ったところに鳥居があり、 この先、沢を渡ったところから、 祠や、鳥居や、石碑や、狛犬や、天狗や。。。 鬱蒼とした木立の中、 参道には、さまざまなものが建ち並んで、独特な雰囲気です。 もう一度沢を渡ると、 神門があり、 これは、カラス天狗でしょうか。。。が、目を光らせています。 神門をくぐると正面には神楽殿。 そして、 拝殿は、右手の石段の上に建てられています。 拝殿へ向かう石段の途中から振り返ると、 個性的な風貌の狛犬と、 見事な意匠の隋神門。 大嶽山那賀都神社 旧村社 祭神 大山祇神(おおやまづみのかみ)
大雷神(おおいかずちのかみ)
本地垂迹 本地 観音菩薩 垂迹 大嶽山大権現高龗神(たかおかみのかみ)の三柱。 社伝によると、 日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、 雁坂峠を越えようとしたとき、 深い霧が立ち込めて進むことができなくなったので、 岩室にこもって三神(大山祇神、大雷神、高おかみの神)に祈ると、 進路を告げる神宣があったので、 日本武尊は、感謝の印として、剣を岩室に留め置いて三神を祀った。 その地が、奥の古院と伝えられているそうです。 養老元(717)年、連日連夜、鳴動が続いて、 ”我は国司に鎮座す神なり、里に祀れば万民に幸せを差尽く授く・・・” との神宣によって、神社創建の由来が伝えられています。 天武天皇の御代の役の小角(えんのをづの)以来、 修験道場として、多くの僧が参篭し、 天平7(736)年には、行基が甲斐国を訪れ、大嶽山に参篭して観世音像を彫ったそうです。 本殿は、 拝殿よりさらに高い、頂きに鎮座しています。。。。。なんとなく見えるかしら。 やっとのことで、本殿へ到達しました。 本殿は、 身舎を中心とした四方向拝唐破造り。 向拝に七賢人を中心に無数の彫刻を配しています。 作者は、福田俊秀。 伊豆の名工小沢半兵衛の息子ですが、 郡内谷村(都留市)の福田家の養子となってこの地へ来て、 嘉永年間から、30年をかけて、 本殿をはじめ、神楽殿、隋神門を手がけ、明治8年竣工されたそうです。 最後の画像は、 参道に鎮座していた 吽像だけの 狛犬 。。。 うふっ! |
|
笛吹川を右に見ながら、 雁坂みち(国道140号線)を秩父へ向かい、、 牧丘町から三富町へ入ってしばらくすると、 三富小学校と派出所の間、 石垣の切れ間に、鳥居が建っていました。 手前からでは目立たなくて、一旦行き過ぎて、戻りました。 下釜口集落の氏神 飛尾神社 道路整備のために境内が削られたのでしょうか、 急な石段の先は、すぐに拝殿になっています。 石の神明鳥居の額は「大明神」 この石額は元門元(1736)年に記入されたそうです。 祭神 大山祇命 日本武尊 社殿は、天文9(1540)年、武田信虎によって造営され、 拝殿は、 屋根は、銅葺きで四本の梁は 蛙股造り。 入口には、俳句の献額が掲げられていました。 薄暗い内部をのぞくと、 天井は、花天井が施されていますが、 残念なことに、ところどころ傷んでいるようです。 本殿は檜皮葺きで、唐破風、四面は見事な彫刻が施されています。 拝殿の右側には、 板状のとても大きな石が、まるで舞台のように横たわっています。 東西約5.4m、南北約3.6m、厚さ約1mもあり、 社殿の西にある琴比良山の岩が欠けて、飛んで来たといわれています。 この大石も、日本武尊(やまとたけるのみこと)に結び付けられていて、 日本武尊東征の折、 この石の上で一夜を過ごされたと伝えられていて、 日本武尊のお褥石(しとねいし)、または 腰掛石 と呼ばれているそうです。 この石は、まるで舞台のように、上が平たくなっていて、 すっかり気に入って、寝転んだり踊ったりしていたのですが、 写真を撮るのを忘れてしまって。。。。。木立の向うに見えるのがお分かりでしょうか。 |







