|
茨城県行方市手賀。 霞ヶ浦大橋から、 行方市を霞ケ浦に沿って南へ向かい、 手賀小学校跡地の先から東(左折)へ折れて、緩やかな坂を登ると、 台地の上には、ひろい畑が続いていました。 この一帯は、 縄文中期にはすでに集落があり、古墳群や集落遺跡が点在しています。 提賀里(てがのさと)。 常陸国風土記によると、 古来、手鹿(てが)と呼ばれる人々が住んでいたことから、 提賀里と名付けられたと記されていて、 現在の手賀の地名も、これに由来するそうです。 みんな「てが」ですけど、字が違う。。。 荒原神社は、 道に面した両部鳥居、 参道脇の手水鉢(小さい方)には、文久4(1864)年と記され、 拝殿の前には、 新しい石灯篭と狛犬が鎮座し、比較的最近、修復された様子です。 中世には、 桓武平氏、常陸大椽氏の一族である手賀氏の館が構えられ、 荒原神社もその一角に祀られていたと考えられるそうです。 祭神は 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 武甕槌命は、鹿島神宮に祀られていることから、鹿島神とも呼ばれます。 案内板には「現在の祭神は」と記されていて、 以前は、別の祭神が祀られていたのかもしれません。 神社の向かい側は、 古墳時代から奈良時代にかけての代表的な古代集落跡、 荒原神社馬場前遺跡で、 土器や漁労具が発見されているそうです。 |
茨城の神社・寺
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
大杉神社が鎮座する、 茨城県稲敷市阿波は、霞ケ浦の南端に位置しています。 交通量の多い交差点の角に大きな鳥居が建ち、 脇には、これまた大きな鼻高天狗と烏天狗の眷属がにらみを利かせていました。 参道は、舗装され、駐車場を兼ねていて、 境内に上がる石段の両脇には真新しい大きな石灯篭が連なり、 とても盛りだくさんな雰囲気です。 道路沿いの西方にも、南面する社殿のほぼ正面へ向かう階段がありました。 西の石段の上には、 楼門を建てるための礎石だけが配されていて、 萬延元(1860)年と刻まれた狛犬が一対、鎮座しています。 阿像は宝珠、吽像は角を戴いて、大きくて立派な狛犬です。 この石段が、昔からの参道なのかもしれません。 かつての霞ヶ浦は今よりもずっと広く、水運交易が盛んで、 沿岸の阿波の地は、 江戸時代の地図でもそれと判るように、 半島のように霞ケ浦に突き出していました。 『常陸国風土記』には安婆嶋と記されています。 そこには大杉が聳えていて、 行き交う船の目印となり、 また、航海の守り神として信仰されて、 「あんば様」と呼び親しまれていたそうです。 社殿は霞ケ浦を背にしてほぼ南を向いています。 最近、改修されたばかりらしく、 極彩色の装飾がとても鮮やかで、眩しいほどです。 木鼻は、 獅子、龍、そして、白い象も。。。 大杉神社の創建は、 元々のあんばさまへの信仰に加えて、 神護景雲元(767)年、大和国から下野国二荒山へ向う途上の勝道上人が、 疫病平癒を大杉に祈願したところ、 三輪明神の神々が降りてきて救済したことから、 大杉大明神と呼ばれるようになったそうです。 関東や東北地方の特に海沿いに多い大杉神社の総本社。 主祭神は 倭大物主櫛甕玉大神(やまとおおものぬしくしみかたまのおおかみ) 配祀神は、 大己貴大神(おおなむちのおおかみ) 少彦名大神(すくなひこなのおおかみ) 境内には、 御神木の三郎杉と次郎杉の二本の杉がそびえています。 手賀沼からも見えたという太郎杉は、寛政10年に焼失してしまったそうです。 画像は、神殿の脇の三郎杉。 神楽殿に並んで境内社が祀られ、 また、社殿の裏にあたる霞ケ浦寄りには、 稲荷神社、勝馬神社、相生神社などが祀られています。 特に勝馬神社は、 信太馬牧に祀られていた馬体守護の古社が遷座されたもので、 中央競馬会の美浦トレーニングセンターが近いこともあって、 競馬関係者や競馬ファンの参拝が後を絶たないそうです。 大杉神社の西側には、 延暦24(805)年、別当寺として「竜華山慈尊院安穏寺」が開基され、 以降、明治期の神仏分離まで、安穏寺が別当を務めたそうです。 文治年間(1185〜1190年)には、常陸坊海存が社僧として仕え、 多くの奇跡を起こしたのち、忽然と姿を消したことから、 海存坊が大杉大明神の眷属であったという信仰に発展し、 その風貌(巨体・紫髭、碧眼、鼻高)が似ていることから、 鼻高天狗、烏天狗が大杉神社の眷属となったそうです。 堂宇の意匠は素晴らしいものですが、 大杉神社のそれに比べて、とても落ち着いていて、ホッとしました。 最後の画像は、 大杉神社の本殿の裏、木陰のとても目立たない所にありました。 大きくはない石を鉄籠で囲っているようにみえます。 。。。なんだろう? |
|
火の見櫓の見える杜は、お寺の境内。 茨城県鉾田市中居集落。 ここにも「白鳥(しろとり)」の名残りがありました。 怪しい探検隊の続きです。。。(笑) 門柱には、 「天台宗白鳥山大光寺照明院」 ありました。「白鳥」です! お堂は無人のようです。 境内の入口には、 女人中によって奉納された、江戸時代からの子育観音が並び、 境内の一画は、墓地になっていました。 中居集落のあたりが、 かつての「白鳥」の中心だったようで、 常陸国風土記に記された由来の案内板が立てられていました。 境内から北へ2ブロックほどのところに、 茨城県の天然記念物に指定された、 樹齢推定500年、目通り6mもある、 「お葉つき公孫樹」 がそびえ、 傍らには、建替えられたばかりの阿弥陀堂が祀られていました。 畑のおばあちゃんが教えてくれたのは、 大光寺の前から南へ下っていく坂道は、 「牛子坂」と呼ばれ、 かつては、下の集落まで続いていた古い道だそうです。 今はあまり使われなくなって土砂が積もったまま、危険なので、 「行ったらいけないよ」って。。。 このあたりに神社があるはずと思ったのですが、 地元の方は、首をかしげるばかりでした。 牛子坂の曲がり角に、馬頭観音。 畑の真ん中に、ぽつんと。これは、塚でしょうか。。。 阿弥陀堂から、 いったん西へ向かい北側の谷へ下りる曲がり角にも、道祖神。 北へ下りる坂の途中に 天満神社。 参道の入り口には、道祖神。 鳥居の奥には、覆堂の中に、 きれいに修復された神殿が鎮座していました。 境内の石灯篭は、文政4(1821)年と刻まれていました。 最後の画像は、 ご神木の根元には、 注連縄が張られ、笹で作られた屋根の中に、弊が祀られていました。 ご神木の幹に注連縄を廻らしているのはよく見かけますが、 このような様式は、独特な感じがしました。 役所や、近所の方に伺っても、判らないことが多くて、 まとまらないんですけど。。。 怪しい探検隊の場合は、こういうことが多いんですよね。でも、懲りない。。。(笑) |
|
茨城県鉾田市札の集落の後ろに見える小高い丘は、 札城址。 茨城県鉾田市は、 千葉県にも近い茨城県の南部に位置し、 東側は鹿島灘(太平洋)、西を霞ヶ浦水系の北浦に挟まれて、 南北に長い半島のような地域です。 北浦には、 冬になると白鳥がやってきて、 飛来地は、白鳥の里と呼ばれています。 また、 この一帯には、 古来、「白鳥(しろとり)郷」という地名があったと伝えられています。 現在は、地名としての「白鳥」はなくなりましたが、 その名残が、 札城址の一郭に残っていると聞き、訪れてみました。 札集落から、 札城址の南端にあたる坂を登ると、 「白鳥山普門寺」の無人の堂宇が、南向きに建っています。 ここは、周囲が高いすり鉢状の地形で、 東側だけは緩やかな窪地になっています。 堂宇の両脇には、 古くなった墓石が集められ、 堂宇の裏側へ向かうと、 一段と高い日当たりのいい場所には、昔からの墓地が広がっていました。 普門寺の山号である「白鳥山」を示すものは、 見渡したところ、 この手水鉢の脇に寛永十三年の日付と共に刻まれた、 「白鳥山普門寺」だけのようでした。。。 普門寺の正面には、 石段の上に、稲荷社が北を向いて鎮座しています。 小さな祠の中には、木彫りの狐像が祀られていました。 稲荷社から見た普門寺。 互いに向かい合っています。 普門寺の東側は窪地になっているのですが、道が見つからなかったので、 いったん集落へ戻ると、 民家の間の空き地のようなところに小道があり、 馬頭観音が祀られていました。 鬱蒼とした竹藪の中の道は、 左の城址側は土塁のように高くなっています。 先ほどの、普門寺が見えるくぼ地に出ました。 木立の隙間から墓地の石垣が見え、 光が透けている辺りが普門寺だと思います。 さらに進むと、視界がひらけ、 広い草原の中に、真新しい鳥居が建っていました。 この参道を少し登ると小さな社があり、諏訪神社が祀られていました。 帰ってから、 札城址のサイトを調べると、 八幡神社と書いてあるのですが、 鳥居の額は、諏訪神社でしたので、別の場所かしら。。。 さらに北へ進み、 空掘りのような道を下って、 集落に戻ると、 安福寺の脇にある堂宇には薬師如来が祀られていました。 この日は、 鹿島神宮を訪れる前に、 せっかく茨城まで出かけるのだからと、 ちょっと寄り道のつもりが、 結局、 ぐるぐる歩き回って、怪しい探検隊になってしまいました。。。 最後の画像は、 天和4(1684)年と記された像もある、 安福寺の境内に祀られていた六地蔵。 下の地図で、 郵便局の東の道が普門寺へ登る道。 もう1本東が、馬頭観音から広場への道。 安福寺の南側の道が降りてきた道です。 札城址は、 さらに北の松尾神社までの山の部分のようです。 |
全1ページ
[1]



