|
手前の芝生の墳丘は、
地元では、メガリ・トゥンバ(大墳丘)と呼ばれていました。
1977年の調査によって、
大墳丘から 4基の墓が発見され、
そのうち、第2・第3の墓は、
未盗掘で、
王家にふさわしい格式と 夥しい豪華な遺物が出土しました。
発見されている未盗掘のマケドニア式墳墓は、この2基だけ。
被葬者の特定には いくつかの説があるようですが、
ギリシャの公式見解として、
第2墳墓はフィリポスⅡ、
第3墳墓はアレクサンドロス大王の遺児、アレクサンドロスⅣの墳墓。
現在は、
いったん崩された大墳丘を再現し、
地下に、王墓を巡る遺跡博物館が造られています。
館内は、うす暗く、
スポットで照らし出された豪華な遺物の展示スペース、
階段を下りると、墳墓のファザードが目の前。。。不思議な空間です。
壁面にはデリケートな漆喰画が描かれているため、
博物館内は全館撮影禁止だったので、
画像は、資料からのコピーを載せています。
1950年代のメガリ・トゥンバ(大墳丘)。当時、直径110m、高さ12m。
紀元前7世紀に建国された、
古代マケドニア王国の首都は、アイガイにおかれました。
伝承によると、
マケドニア王家の始祖とされるペルディッカスⅠは、
「山羊を導き手として王国を手に入れよ」というデルフィの神託にしたがって、
王国の首都を定め、
山羊(:ギリシャ語でアイゴス)にちなんで、アイガイと名付けた。。。
紀元前4世紀末に、首都をペラに移したのちも、
王家の墓や、宗教・祭儀の中心はアイガイだったそうですが、
遷都以降、
旧都アイガイは古典資料に登場しなくなり、
マケドニア王国が共和制ローマの支配下となってアイガイも衰退し、
紀元前1世紀ごろには都市が放棄されて、
長い間、アイガイがどこにあるかを確定できないままでした。
博物館の入口はトンネル。
入ろうとしたら、
混雑しているので、ちょっと待ってね。。。と。
ここでは、そんな風に見えなかったけど、
館内は人がいっぱいでした。
ヴェルギナ遺跡がアイガイと確定するのは、
1861年の調査で、大規模な王宮跡、マケドニア式墳墓1基が発見され、
1913年、マケドニア地方が、オスマン帝国からギリシャに戻ったのち、散発的に調査が行われ、
1938年、ロメオスの墓(マケドニア式、前3世紀初頭)が発見されています。
1950年代から、ヴェルギナ一帯の本格的な調査が始まり、
東麓の数百基の小円墳群(前10C〜前7C)から、この一帯に人が定住したのは初期鉄器時代にさかのぼることが判明。
また、さらに東でマケドニア式4基(前4C末)などの発見。
1968年、英国古代史家の、古典資料調査によるアイガイのヴェルギナ説支持。
そして、
1977−8年、大墳丘の本格的調査で、発見された3基(前4C後半)のうち、
2基が未盗掘のマケドニア式墳墓で、
長年にわたり調査を担当した考古学者アンズロニコスは、第2墳墓をフィリポスⅡ墓と発表して、大センセーションとなりました。
さらに、
1980年、大墳丘で第4墳墓(マケドニア式)。
1981−82年、小円墳群の東側で3基のマケドニア式。
1982年、フィリポスⅡが殺害現場とされる劇場跡。
1987年、フィリポスⅡの母エウリュディケの墓といわれる墳墓。盗掘されていますが、アンフォラから紀元前340年頃と推定され、マケドニア式では最古・最大だそうです。
古代マケドニア王国の旧都アイガイは、
1977年にようやく、現在のヴェルギナであることがわかり、
紀元前4世紀ごろに建てられた
マケドニア式の王家の墓は、
長い眠りから覚まされ、
その時代の繁栄ぶりを、目の当たりにさせてくれます。
博物館内の見取り図。
見取り図だと、
展示室は、あまり広くないんですね。
暗くて、フロアを見渡せず、
遺物に目を奪われながら、さまよってるような感じでした。
左下の、トンネルのような入口から、
展示室を取り囲むように、
時計回りに、
第4墳墓 マケドニア式。前3C初頭。盗掘。被葬者不明。
第1墳墓 石櫃式。盗掘。被葬者不明。北側壁面にフレスコ画。
第2墳墓 マケドニア式。前4C後半。ギリシャ公式見解フィリポスⅡ墓。
第3墳墓 マケドニア式。前310年、アレクサンドリアⅣ説が有力。
展示室は、
第2墳墓と第3墳墓の出土遺物をスペースで分けて、展示しています。
第1墳墓の壁画
第4墳墓は、マケドニア式。盗掘され、さらに石材が持去れています。
被葬者不明ですが、前3世紀初頭重の要人物と推定されるそうです。
第1墳墓は、石櫃式。盗掘で、副葬品が残っていません。
墓室の北側壁面に、フレスコ画「ハデスによるペルセフォネの略奪」
被葬者不明ですが、残された3体の人骨は、成人男性、20歳代女性、嬰児。
この墓をフィリポスⅡ墓とする説もあるそうです。
第2墳墓のファサード
第2墳墓は、
展示室から、暗い簡単な階段を2階分くらい下りた踊り場から、
さらに見おろすようなところに、
両側はむき出しの岩と土の間に、異質な感じで、この扉があります。
ちょっと離れているのですが、
高さが5.3mもあるので、ちいさくは見えません。
マケドニア式。
ドーリス式ファサードの上部に描かれたフレスコ画を見ることができます。
内部は非公開ですが、
前室と主室に分かれ、両方の部屋で埋葬が行われています。
発見者の考古学者・アンズロニコフが発表し、
ギリシャが公式見解として統一している、
フィリポスⅡ墓。
第2墳墓のフレスコ画(一部分)
第2墳墓のドーリス式ファサードの中央上部には、
フレスコ画(H1.16m x W5.56m)で、
10人の男たちの狩猟場面が描かれています。
資料には、
上画像の右側の人物は、
頭に冠を戴いた若いアレクサンドロス大王と説明されています。
第2墳墓の
主室と前室には、
それぞれ大理石の棺が置かれ、
黄金製の骨箱と黄金の冠が、
骨箱の中には、火葬された骨が収められていたそうです。
左側は、
主室の冠と骨箱。
冠は、実(どんくり)をつけた楢の木を模っています。
人骨の分析から、4〜50歳代の男性。
右側は、
前室の冠と骨箱。
20歳代の女性。
主室の被葬者がフィリポスⅡとすると、
前室の女性は、最後の妻クレオパトラ(20歳代)と推定されます。
ただし、
前室が通常より大きく、主室よりもむしろ念入りに仕上げられていて、
副葬品も豪華で、武具も出土していることを根拠とする異説もあるそうです。
戦いのとき身に付ける武具類。
兜や甲冑もありましたが、
気になったのは、
中央上の、ゴリュトス。
弓と矢を一緒に入れて持ち運ぶためのケースです。
もっと北方の騎馬民族の道具というイメージだったので、意外な感じがしました。
右端は、
おそらくは被葬者の脛を模った、脛当て。。。
大きな壺や鉢から食器類まで
銀製品もたくさん展示されていました。
画像は、
銀のストレイナー(濾し器)。
ワインは、
壺からレードル(柄杓)に取って、
ストレイナーで濾して、カップに注いだそうです。
つまり、
壺のワインには固形分が入っていたんですよね。
どんな味だったんだろう。。。って!
副葬品は
多岐にわたっていましたが、どれもこれも豪華絢爛!
第3墳墓のは、
やはり、
展示室から階段をおりた踊り場から見ます。
第2墳墓にくらべるとやや小ぶりなファサードで、
扉の両脇に柱はなく、
上部にはフレスコ画が描かれてあったようにも見えますが判然としません。
マケドニア式。
内部は、前室と主室に分かれていますが、
埋葬されているのは、主室だけです。
主室の内部には、
豪華な副葬品と共に、
テーブルの上に、
黄金の葉冠をかけた銀製のヒュドリア(水瓶)が置かれ、
その中に人骨が収められていました。
被葬者は、
人骨の分析から、12〜14歳の少年とみられ、
アレクサンドロス大王の遺児で、
紀元前310年に、
13歳で殺害されたアレクサンドロスⅣの説が有力だそうです。
画像は、
大墳丘の調査で、
盛り土の中だら出土した、
鮮やかな彩色を施された紀元前4世紀の墓碑群。。。
王族だけでなく、民衆の暮らしを知るうえで貴重な資料だそうです。
また、
大墳丘は、
墳墓の建立時に造られたものではなく、
紀元前3世紀前半に、王墓を守る目的で築かれたと考えられているそうです。
たしかに、
大墳丘が築かれなければ、
現在、
この王墓の姿を見ることはできなかったと思います。
王墓だけでなく、
旧都アイガイの遺構も興味深いのですが。。。長くなりすぎました!
長い記事におつきあいいただき、ありがとうございました!
参考
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子著 東京堂出版
MACEDONIAN TREASURES
- A tour through the Museum of the Royal Tombs of Aigai - KAPON EDITIONS
ヴェルギナ遺跡の周辺は、
土産物店が並び、
たくさんの観光客が訪れていました。
|
ギリシャ・トルコ2015春
[ リスト | 詳細 ]
|
ギリシャのマケドニア地方。
ペラ遺跡は、
現在も調査がつづく、
かつての、古代マケドニア王国の首都。
アゴラから、
丘の上の王宮までは約1km。
ゆるやかな斜面の
王宮跡の手前に、
ペラ考古学博物館の建物が見えています。
ペラ考古学博物館は、
ペラ遺跡の出土物が展示されています。
以前は、
仮の建物が、ペラ遺跡の入口付近にあったそうで、
開館してまだ数年、
新しくて、開放感のある建物です。
遺跡から移設されたモザイク画は、
2階の開口部からも見えるようになっていました。
イースターの時期だった所為か、
ヨーロッパ各地から
学生のグループが訪れていました。
たぶん現地の小学生のグループは、
日本人とわかると、
笑顔で、
口々に、
「こんにちは!」
と、挨拶してくれて。。。うれしかった!
全部、コイン。。。
金貨や銀貨がたくさん発見されているようです。
大きさもいろいろで、
たくさんの図柄があったけど、
各時代の、
いろんな国のコインが行き交っていたのでしょうね。。。
ここにも、
金の花冠!
でも、
王家の墓域は、
ペラにはないはず。。。どこで、出土したのかしら?
金に目がくらんで、説明文を確認しなかった。。。あちゃ!
ブロンズの彫刻。
おそらく
この部分だけが出土したのだと思いますが、
とてもリアルな腕。。。そして、印象的な展示方法でした。
戦士の防具と剣。
装飾的だったので、副葬品かしら。。。
黒絵式の陶器。
ペラ遺跡は、紀元前5世紀末からなので、
初期の頃の墓域からかしら。。。
テラコッタの香油瓶。
ペラ遺跡のアゴラの周りに香料の精製場が確認されています。
香りの文化は歴史が長いんですね。
ちいさな像はたくさん展示されていましたが、
片手にタンバリンをかかげて 脇にライオンを配している、
大地母神キュベレー像と、その型。。。
いわゆる既製品があったんですね!
ちょっと気になって。。。
もしかして、
言わザル と 聞かザル。。。そ、そんなことって???
ペラ考古学博物館の
玄関のテラスは、
目の前にペラ遺跡がひろがり、
テレマイコス湾の向こうに、
遠くオリンポス山まで見渡すことができます。
斜め後ろは、王宮跡です。
かつて、
王宮からは、
緩やかな斜面に沿って広がる
栄華を極めた首都ペラの街を眼下に望むことができたんですね。
バスに戻ろうとすると、
伏せ目がちに、
お尻を振り振り、
まっすぐに近づいてくる仔が。。。
なぜ、わかるんだろう?
やっぱり素通りできませんでした!(笑)
|
|
ギリシャのテッサロニキから北西へ40㎞ほど。。。
バスの窓から、
フェンス越しにみえる風景が
ぜ〜んぶ「ペラ遺跡」だと聞いたとき、
あまりの広大さに、
えっ、ほんとうに?
って。。。まさか、こんなに大きいとは思わなかった。
古代マケドニア王国の首都ペラ。
その範囲は、
現在の調査区域よりも さらに広いと想定されるそうですが、
首都としての中心的な機能をはたした
王宮やパゴラの遺構は、
現在のパレア・ペラ村の西側に隣接する区域で確認されています。
ペラは、
テルマイコス湾が間近で、
バルカン半島北部の東西ルート上にあり、
陸・海交通の要衝となる条件を備えていました。
新石器時代からの集落が確認されていますが、
古代マケドニア王国の首都となったのは、
紀元前5世紀末ごろという説が有力のようです。
古代マケドニア王国は、
紀元前7世紀ごろ、
北部山岳地帯の遊牧民である古代マケドニア人によって建国され、
そのころの首都は、西方の山麓のアイガイにおかれました。
次第に勢力をひろげた王国が、
首都をペラに移したのち、
フィリポスⅡの時代、
紀元前338年、カイロネアの戦いでギリシャの覇権を握り、
ギリシャ各地からの朝貢で、
さらに、アレクサンドロス大王(フィリポスⅡの息子)の大遠征で、
古代マケドニア王国は勢力をさらに拡大し、
首都ペラは繁栄しました。
ですが、
現在の遺構は、
カッサンドロス(即位316B.C.)による首都大改造の後のもので、
それ以前のフィリポスⅡやアレクサンドロス大王にまつわる遺構は
今のところ、確認されていないようです。
紀元前168年、ピュドナの戦いで敗れ、共和制ローマの支配下となり、
紀元前146年、共和制ローマの属州となって
首府がテッサロニキに置かれ、ペラは都市としても衰退し、
紀元前1世紀ごろ、大地震によって、ペラは壊滅したそうです。
2000年の眠りを覚ますべく、
発掘調査は、
マケドニアがギリシャに戻って、
1914年から2年間、
1957年にイオニア式円柱が出土したことから1963年まで。
そして、1976年からは、現在まで継続されています。
とくに
王宮は、
もともと増築が重ねられて構造が複雑、
ローマ軍による略奪、
さらには14世紀、石材が転用の為に持ち出されたことで、
遺構は荒れていて、年代の確定が難しいそうです。
この記事は、
「古代ギリシア遺跡事典」2004年 東京堂出版 を参照しています。
上画像の見取り図は、同書からの抜粋で、
見取り図と同じ番号を、
第2画像も、この記事でも使用しています。
① 碁盤目状の区画 ② 城壁 ③ 遺跡の入口
④ ディオニュソスの館 ⑤ ヘレネの略奪の館
⑥ 漆喰画の館 ⑦ アゴラ ⑧ アゴラの主門
⑨ アフロディテとキュベレの神域 ⑩ ダロンの神域
⑪ 墓域 ⑫ 王宮 ⑬ 考古学博物館
東側の南寄りのストアの遺構からアゴラ⑦方向。
道路が碁盤目状に通り、
整然と区画整備された都市で、
中でも、
アゴラ⑦はとても大きく、
10ブロック分(東西262m南北238m)を占めています。
ストアの復元 (ペラ考古学博物館)
アゴラ⑦の周りは、
北側は公官庁など公的エリア、西側は香料、南側は食料品、
東側の南寄りは、陶器類の制作場や店舗が並んでいたそうです。
アゴラ⑦の南側の家屋群では、
2件の大邸宅の遺構が発掘され、
それぞれ、
床に描かれたモザイク画のテーマから、
東側は、ディオニュソスの館④
西側は、ヘレネ略奪の館⑤
と名付けられています。
それぞれの館跡の床からは、
玉石で描かれた
精緻なモザイク画が出土しています。
ペラ遺跡のシンボルともいえる
イオニア式柱廊の6本円柱(復元)は、
ディオニュソスの館④の、
ちいさい方の中庭に建っていました。
ディオニュソスの館④は、
紀元前4世紀末のマケドニア貴族の大邸宅(約3000㎡)
円柱の右端と2本目の間の
ずっと奥に見える平たい建物は、
ペラ考古学博物館⑬
モザイク画「豹に乗るディオニュソス神」 (ペラ考古学博物館)
幾何学模様のモザイク画 (復元)
ディオニュソスの館では、
ライオン狩り(博物館)、男女のケンタウロス(博物館)、
市松模様のモザイク(現地)、
豹に乗るディオニュソス(博物館)、鹿を襲うグリフィン(博物館)、
幾何学模様のモザイク(現地)
6面の床モザイク画が出土し、
2面は、現地に復元され、4面は考古学博物館に移設されています。
ヘレネの略奪の館⑤は、
紀元前4世紀末の貴族の館(約2350㎡)で、
「テレセウスによるヘレネの略奪」 (現地)
「鹿狩り」(現地)
「アマゾン族との戦い」(現地)
3面の床モザイク画が、
保護用の屋根がかけられて展示されていています。
影ができてしまうし、
砂埃で小石の微妙な色の違いがにぶくなって、
撮影には向かないけど、
紀元前4世紀から、ここにあるんだ。。。時代がワープします。
自然な石を使った、
白から黒のバリエーションの中で、
微妙に、黄色かったり、褐色かかっていたり、
玉石の粒の大きさで変化をつけたり、
表現はとても豊かです。
また、
主題部分だけでなく、
まわりの装飾にも特徴があり、見飽きることがありません。
調査途上のエリアのようですが、
この画像の右端の奥にある
紀元前4世紀の
ダロンの神域⑩からは、
治癒の神ダロンの名を刻した奉納碑文が発見されています。
上画像は、
ダロンの神域⑩にあるトロス(円形堂)の
グリフィンと豹が描かれた床面モザイク画(ペラ考古学博物館)
墓域は、
何ヶ所かに分かれて、
紀元前5世紀末から紀元前2世紀末までの期間が確認されていて、
それぞれの時代の、陶器、装飾品、小像などの出土品は、
ペラ考古学博物館に展示されています。
ヘレネの略奪の館にいた犬。
文化の違いかしら、放れ犬をよく見かけました。
でも、
のら犬とは違う感じがします。
あえて言うと、
村犬っていうのかな。。。とっても友好的!
手順をまちがえなければ、
とっても上手に遊んでくれます!
ただ、
予防注射はしてない場合が多く、
狂犬病などの危険性もあります。
|
|
「プロポリス」は、
「都市(巣)を守る」という意味のギリシャ語だとか。。。
ミツバチが
集めた花粉や樹液などからつくる、
巣を丈夫に保つための樹脂だそうですが、
3〜400の成分でできていて抗菌作用があり、
ヨーロッパでは「天然の抗生物質」と呼ばれ、
古代から薬として用いられてきたそうです。
私も
サプリメントとして、
液体や錠剤をときどき使っていましたが、
今回、
バザールで、
こんな顆粒をみつけました!
ちょっと怪しい感じもしたけど、
花粉をまぶしただけのような素朴なつくりで、
ひと粒ずつ微妙に色が違うのも興味津々。
帰国した途端、
カルチャーショックの緊張が解けた所為か、
疲れが出て、
ひどい風邪をひいてしまい
さっそく、
このプロポリスのお世話になっていました!
買っておいてよかった。。。(笑)
|
|
ギリシャ・テッサロニキで泊まったホテル。
広間には
落着いた色の絨毯と、
壁には、古典的な柄の絵織のタペストリー。
タヴェルナというのは、
ギリシャ語でレストランのことですが、
ランチに入った片田舎のタヴェルナにも、
壁の片隅や、飾りテーブルに、
昔ながらの染料を使った古典的な絵織が飾られていて、
織物の長い歴史をあらためて感じていました。
左は、
テッサロニキ考古学博物館で、
右は、
ペラ遺跡博物館に
展示されていた、
竪機(たてはた)と分類される、
織り機で、
経(たて)糸を、ぴんと張らせておくための「重り」
けっこう重そうです。
なぜ、枠に結んだりしないで、重りを使ったんだろう。。。
どんな布を織っていたのかしら。。。
左の、
博物館の説明版には年代は出ていませんでしたが、
右は、
紀元前4世紀ごろの、ギリシャの黒絵手壺に描かれた竪機。
織物は、
紀元前7000年(トルコ)や、紀元前5000年(エジプト)の遺跡から
布が出土されるなど、
とても古くからの技術で、
織り機も、地域や時代によって特徴があるそうです。
現在は、
竪機でも、ほとんど下から織っていくと思いますが、
この竪機は、
上から織っていくのが特徴。。。はじめて見ました!
そういえば、
竪琴(たてごと)って、
織り機が変化してできたんだって。。。説があるんですね。
私も
木枠で手織りをするとき、
経糸(たていと)を張って、
テンションを確認するために、
弾いて、音を聴いたりする。。。あれかな?
|







