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 御来訪感謝申し上げます。

 今日で東日本大震災発生から4ヶ月目となりました。
 4ヶ月といえば1年の3分の1にあたります。それなのに未だに大規模な復興予算が決まっていません。
 これを菅直人一人だけのせいにすると本質が見えなくなります。
 改めて、 国とは? 政治とは? 政権とは? 政治家とは?を我々国民が自身に問うてみなくては、いつまでもこの政治の混迷は続くだけではないかと感じていたら、ブログ友の「さざんか」様のブログに素晴らしい記事( http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/12911526.html)がUPされていたので、紹介させていただきます。
 記事本文はかなり長文なので重要ポイント部分の引用転載と致します。
 文中の(中略)、太字、色文字は敬天の編集です。


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 日本の何を護るか 〜三島由紀夫氏の哲学(3)
2011/7/11(月) 午前 11:42 ブログ“日本の感性をよみがえらせよう”

三島由紀夫氏の哲学の続きです。

 大衆は群集心理的に動くだけである。

 この日本大衆の精神的元禄化は結局、占領憲法が“国家の尊厳”を奪い去り、国とは、民衆が福利を得るための組合組織であると定め(日本国憲法の前文)たところにある。けれども自民党政府にこの憲法改正を期待することは出来なかった。
 自民党政府を代表する佐藤総理はたびたび「私が総理である間は憲法は絶対に改正いたしません」と言明したのである。だから三島氏は政府に期待出来なかった。
 それならば自分が少数者であっても直接行動に出るほかはなかった。少数者が直接行動に出る方法は、暗殺か諌死のほかはなかったのである。そして氏は諌死を華々しく見える劇的シーンに於いて最も国民を動かす形をもって実行しようと決意したのであった。三島氏は政府に対する絶望を次の如く書いている。
『政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考えないであろう。世論はいつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には大衆社会の持っているその非人間性を否定しようとするのである』と。
 大衆の思想や行動は、一種の「流行」のようなものであって、一貫した理想をもたないのである。 
                (中略)
 世論はこれらの顔(敬天註:時どきの流行のファッションやスタイル)の化粧と同じように、流行によってつくられて行くのである。唯、勇気ある個性あるもののみが化粧にも思想にも流行を追わないのである。大衆はこの勇気ある個性の持続者を「保守反動」という。三島氏の晩年は、この勇気ある個性の持続者であったが故に、段々文壇で孤立の位置に立つに至った。しかし三島氏はその少数者であることに誇りをもっていたのであった。
 そして、みずからが少数者であることを誇りとして次の如く言ったのである。――
『では、その少数者意識の行動の根拠はなんであるか。それこそは、天皇である。われわれは天皇ということをいうときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮のゆえに天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わなければならないと信じているからである。……』(文化防衛論)


 国とは時の政府のことではない

 三島由紀夫氏は言う。
『日本は世界にも稀な単一民族単一言語の国であり、言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげており、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかっている。そして皮肉なことには、敗戦によって現有領土に押し込められた日本は、(異民族問題はないのに、革命勢力は)……国を現実の政治権力の権力機構と同一化し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買弁政権と規定することに熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力(つと)めるのである。』
 これをここに引用したのは三島氏が「国を現実の政府と同一化し」といっているところに注意したいためである。革命勢力は現在の政府のやったことを皆「国がした」という語をもって表現することによって、国家というものは如何に悪いものであるかというような印象を国民全体に与えることにして、民族と国家とを分離して、民族主義を革命勢力の方へ引きつけようと巧みに「言語の魔術」を弄するのである。
 しかし日本に於いては「国」とは、その時代又は一時期の政治を担任するところの幕府とか政府とかいうものではないのである。日本に於ける「国」とは天照大御神より発祥し、天皇を中心として展開し来たった歴史と文化と伝統とか渾然と融合した一体系を成すところの生命体なのである。

 彼は“憲法に体をぶっつけて死んだ”

 三島由紀夫氏の檄文は既に、多くの新聞にその全文が発表されたが、三島氏の檄文の骨子となるものは二つに分かれる。その第一は、自衛隊が国を衛るべき軍隊であるのに、「健軍の本義を与えられず……忠誠の対象も明確に与えられず」あまりに永く眠っていた。「自衛隊が目覚める時こそ、日本が目覚める時だと信じた。」
 ところが何故自衛隊が目覚めないのであるかというと、占領憲法が忠誠の対象をハッキリさせず、士道の発露を縛っていて、愛国の真情を目覚めさせないようにしているのであるとして、第二段の占領憲法改正の必要を説いているのである。何故、占領憲法を改正しなければ自衛隊が目覚められないかというと、檄文はこう書いているのである。
『法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、最も悪質の欺瞞の下に放置されて来た』からである。
                (中略)
『日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはゐないのか。』
 この占領憲法へ体をぶつけて体当りし、彼は、彼の壮絶なる行動に、自衛隊員が、その長夜の眠りから覚めることを希望して、日本古武士の作法に則り、割腹して、予定の通り、森田君に介錯してもらってその魂は昇天したのであった。
 三島氏は以上の如く切々と、日本の魂と共に日本の建国の理想たる“天皇国家”が永い眠りの状態にあることを歎き、自衛隊が目ざめる時こそ日本が目ざめる時ぞと説いているのであるが、やっぱり自衛隊は三島氏の「要望書」にも「檄文」にも、その割腹に面してさえも、まだ直ぐには目覚めなかった。
                 (中略)
 三島氏は現在の日本の政治と政党の腐敗、欺瞞、無節操に、もうこらえ切れなくなった。しかし、三島氏自身も日本の国に属しているのであり、属するとすれば、その属する団体に“士道”をつくすのが武士としての道である。三島氏にとっては石原氏のように、政党の悪口をいうことだけで自分の鬱憤をもらすだけ(三島氏は石原慎太郎氏が自民党に属しながらも自民党をきびしく非難しているのを「士道に反する」といって公開質問状を「毎日新聞」にのせた)では無害無益無効である。
「本当に知ることは行なうことでなければならない」という陽明学の倫理が氏には出て来た。そこで、その国に属するものが、その国の政治に不満と憤りがあるならば、石原慎太郎氏のように党に属しながら党の悪口をいうことでもなく、テロリズムに走ってその責任政治家を暗殺することでもなく、“諌死”の道を選ぶのが“士道”であると三島氏は知ったのである――そして“本当に知る”ということは実践することである。

 肉体の生命だけを尊重して魂の生命を殺しては何になるか。
 こうして三島氏は“士道”を知ると共に“士道”を完了するために“諌死”の道を実践したのであった。

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 引用が長文になってしまったので、本記事では敬天がポイントとする部分だけを列挙します。

 ※占領憲法が“国家の尊厳”を奪い去り、国とは、民衆が福利を得るための組合組織であると定め(日本国憲法の前文)た

 ※われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本文化の全体性と、連続性を映し出すもの

 ※このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わなければならない

 ※国とは時の政府のことではない
 
 ※日本に於ける「国」とは天照大御神より発祥し、天皇を中心として展開し来たった歴史と文化と伝統とか渾然と融合した一体系を成すところの生命体
 
 ※占領憲法が(自衛隊の)忠誠の対象をハッキリさせず、士道の発露を縛っていて、愛国の真情を目覚めさせないようにしている

 この記事のコメントは次回に致します。


 三島由紀夫は今から40年以上前に今日を予見していたのです!!

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         GReeeeNの素顔!?  

 御来訪感謝申し上げます。

 正直言って、今日は書くべきネタ、というよりこれといったテーマが特にありません。
 週末でもあるし更新を休もうとかと思ったのですが、たまたまくだらない要件であるブログ友と電話で話をした時「今日もブログ楽しみにしています」と言ってくださったので、休むのは良くない、と勝手に思い込んでしまいました。
 本当はそんな言葉で強迫観念に駆られるタマではないのですが、格好つけて言うと、たまには「徒然なるままに、心の赴くままに」に書いてみるのも良いかもと考えた次第です。
 したがって、書きながら考えて(正確にはパソコンのキーを叩きながら)ふと思い浮かんだ言葉を羅列していこうと思います。
 身勝手でいい加減な記事更新で恐縮至極ですが、ご容赦くださるようお願い申し上げます。

 冒頭画像は「キセキ」などのヒット曲でご存知の音楽グループGReeeeNのメンバーの顔写真だそうです。実は彼ら、歯医者さんで本業と音楽活動を両立させるために顔出しNGの覆面バンドだそうですね。
 ずいぶん前から「キセキ」という曲はテレビなどで聴いていて「イイ曲だなあ」と思っていましたが、歌っているGReeeeNの4人のメンバー全員がお隣の郡山市在住の歯医者さんだと知ったときは驚きました。
 う〜む、福島は奥が深い!とひとりほくそ笑んだものでしたが、調べてみると彼らは出身地はバラバラで沖縄や大阪、佐賀、千葉と全国的に広がっているみたいで、郡山市にある奥羽大学歯学部で出会った歯学生同士ということですね。
 地元の人間としては奥羽大学というと旧東北歯科大学といって、この学校の経営者がいろいろと問題がある男で、特に何年か前に歯科医師国家試験の問題漏えい事件などの不祥事を起こしたりと地元でも評判が芳しくない大学でした。
 その後は日本テレビ「ズームイン!!朝!」の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」でお馴染みのスリランカ人 アントン・ウィッキーさんが教鞭を執るようになってイメージアップに努めたりしたおかげで、全国的に知られる大学となりました。
 その奥羽大学によって、彼らのような音楽の才能も持った若者たちが郡山市に縁を持つことになったことは、県民としてもとても嬉しいことです。
 で、この奥羽大学で結成されたGReeeeNなんですが、メンバー全員数年前に無事歯科医師の資格を取って歯医者さんとしてそのまま郡山市にお住まいのようです。
 今回の東日本大震災でも、犠牲者のご遺体の身元確認で歯型の照合作業に多くの歯科医師が駆り出されましたが、彼らもボランティアで参加されたそうです。
 大変な作業だったと想像しますが、心より敬意を評したいと存じます。
 当ブログにも「むつみデンタル」先生という青年歯科医のブログ友がいらっしゃいますが、きっとむつみデンタル先生のように素敵な歯医者さんたちなんだろうなあ、と思います。

 話は変わりますが、左翼と右翼、保守と革新というふうに対比される言葉が使われます。
 左翼と右翼はどうでも良いんですが、以前から引っ掛かっていたのが、要は左巻きの連中を表現するのに「進歩的」文化人とか「市民」運動家などと偽善的な美辞麗句を使ったレトリックを用いていることでした。
 これが左翼のプロガンダの上手さであり連中の専売特許なのでしょうが、詐欺師ほど上っ面を飾り立てたがるという通り、実体とは真逆の衣で着飾って無知な人たちを騙してきました。
 市民活動家の成れの果ての「アレ」がその最たる者です。
 韓国の言論を覗くと、韓国のご機嫌取りのお世辞や都合の良いことを論じる日本人は「進歩的知識人」などと賞賛されますが、史実に基づいた正しい歴史観で物申すと、忽ち「保守反動」とか「極右民族主義者」とレッテルを貼られてしまいます。
 ひどい場合は「歴史歪曲で妄言を吐く日帝の亡霊」とまで言われる有様です。
 ただし、この場合、どこの何が「歴史歪曲」で何を以って「妄言」と言うのかの具体的な指摘があった試しはありません。
 いずれにせよ、ご都合主義の典型であり、何ら正当性はありません。

 話は横道に逸れましたが、保守系の歴史研究家桜井誠氏が主宰する「在日特権を許さない市民の会」は、「市民」という左翼が常套句として使っている言葉は何も左翼だけのものではないだろう、保守派だって一般の「市民」に違いない、だったら自分たちも「市民」のための活動の場であるということで、命名したそうです。
 確かに「市民」は、立憲君主制・共和制問わず議会制民主主義国家においては、国家主権に対して国政参政権と選挙権を有する国民であると同時に、地方自治権においては地方参政権と選挙権を有する「市民」でもあります。
 しかし、社会主義的全体主義国家を目指す左翼が本来使用しなければならない言葉は「人民」です。
 ここに嘘つき左翼の巧妙なレトリックがあるのです。
 左翼にとっては、嘘は目的を達するための方便に過ぎませんから、どんな嘘・偽りでも平気で言えるのです。そこに罪悪感は存在しません。革命のための必要悪という概念だからです。
 左翼の嘘を最も端的に表している事例といえば、不肖敬天愛人は沖縄問題と思っています。
 普天間基地移転問題で散々騒がれてきた沖縄ですが、ネットの時代になるとマスコミなどが隠してきた事実も暴露されることになります。
 一番良い例が、普天間飛行場が出来た時の空撮写真でした。
 飛行場の周りには見事なくらい何もありません。当たり前です。軍用の基地であり飛行場を造るのに人の営みが盛んな集落地が選ばれるはずがありません。
 ほとんど休耕地になっている過疎地を選んで基地を造ります。
 したがって、基地の騒音被害を騒いでいる連中は、後から基地周辺に住みついた日本政府と米軍への嫌がらせと補償金目当てのならず者たちであります。
 これなど、暴対法で禁止されるまでのヤクザもんがよくやっていたカツアゲ目的の嫌がらせと全く同じ手法です。
 沖縄担当の米高官がはからずも言ってしまった「ゆすり・たかり」そのものです。
 騒音がうるさければ引っ越せば良いだけの話です。自分たちで勝手に来たのですから。
 沖縄の左翼やマスコミなど一部の人間は、本土から来た左翼にそそのかされて「中国共産党は沖縄=琉球の独立を支援する」という戯言を真に受けて、米軍基地がある限り悲願の沖縄独立は達成できないと愚かにも心底思っているようですが、米軍が去り、日本政府が去った後に琉球独立の後ろ盾として中共人民解放軍が入ってきたら、どういう結末になるのかも想像できないのでしょう。
 新疆ウイグル自治区・チベット自治区・内モンゴル自治区の現実の姿を見れば、簡単に解るはずなのですが、朝鮮半島同様、プライドだけが先行して、都合の悪いことは見ようとしない沖縄の宿痾が眼を曇らせているのだと思うのです。

 これは一度やらせてみようと無責任に政権交代した結果、悲惨な状況になっている本土と同様に、一度支那共産党を信じて独立を図ってみようと考えているのであれば、先に待っているのは琉球民族の存続すら不可能な悲惨な未来だけなのです。
 
 やはり、現実的な国際社会情勢と史実を基にした歴史を学ばないと取り返しのつかない失敗をして、やがて子孫に恨まれることになるということは肝に銘じなければならないと考えるのです。

 今日はとりとめもない記事になってしまいました。
 どうかお赦しくださるようお願い致します。

 

 
 美辞麗句ほど裏に恐ろしいものが潜んでいるのです!!

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                  ハイル カーン!!  

 御来訪感謝申し上げます。

 とうとう菅総理の“不倶戴天の敵”である産経新聞の名物記者阿比留瑠比氏も心身ともに限界に達したようです。
 ご自身のブログで「菅」という名前を書くのも忌々しいとばかりに、「アレ」という代名詞に替わってしまいました。
 その「アレ」に対する、政治部記者としての絶望的な思いを綴った記事を転載させていただきます。


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  恥知らずの代名詞が他者を恥知らずと非難するとは
2011/07/08 15:37 記者ブログ「国を憂いて我と我が身を甘やかす」

 口にするのも汚らわしい、見ただけで食欲が減退しやる気がなくなり、前向きに生きようという気力すら失われる例の「アレ」の件ですが、「アレ」は本日の衆院本会議で、自民、公明両党にも東電福島第1原発事故の責任があると強調した上で、こんなことを口走りました。

 「すべての失政の責任を押し付けて責任を免れようとすることこそ、恥の文化に反する行動だ」

 …ああ。「アレ」はまた考えなしに思いついた言葉をそのまま口に出し、すべてをぶち壊す行為に出ました。ここまで野党を強烈に批判すれば、いよいよ国会は進まない。世紀の恥知らずにここまで挑発されたら、もう歩み寄ることなんて考えられません。
「アレ」は間違いなく、被災者のことなんか1ミリも頭の中にはないのでしょう。あるのは被害妄想と自己愛と原生動物にも似た生存本能だけなのだと思います。

 あるいは、「アレ」の狂気と妄想の中では勝つ気でいる衆院解散・総選挙に向けて、対決姿勢を強く打ち出すことにしたのか。衆院本会議場では、この「アレ」の言葉に、与党席からもほとんど拍手が起きませんでした。自分たちがその地位につけ、またその地位の維持を認めてしまったグロテスクな「アレ」のあんまりな姿に、みな一様にうなだれているかのようです。

 孟子はこう語りました。

 「恥の人に於けるや大なり」

人間にとって恥じの心が占める意義は大きい。恥を知らなければ、最低の人間に成り下がる、という意味ですね。廉恥の心がないことにかけては同時代に比類する者なしと言われる「アレ」に言ってきかせても、どう懇切丁寧に説いても理解はできないでしょうが。

 …実はこのところ、精神的にけっこう煮詰まっていて、このブログのエントリ更新も滞りがちとなっていました。毎日毎日、目に見えない何ともイヤな毒を放ち続けている「アレ」の言動を追い、取材その他を通じてそのやろうとしていることや心境を推し量っているうちに、その毒気にあてられて、こっちがまいってきたようです。

卑劣で醜悪なものを正しくありのままに描写しようとすれば、卑劣で醜悪な表現を使わざるを得ません。結果、それを描く自分自身が卑劣で醜悪であるような思いにとらわれる日々でもあります。

 人類はその進化の過程で、原生動物のたくましい生命力を失いました。人類を人類たらしめている脳髄はあまりにか弱く、繊細だからです。反対に、あまりに強い生命力を誇るものは、プラナリアでもクマムシでも間違いなく知性を失うか、もともと持っていないものですが、その眷属をウオッチし続けるのはしんどいものです。

 国会中継を見て、「アレ」があうあうと意味不明のことを言い出すたびに、胸が苦しく、呼吸が困難となります。6日付の読売新聞の一面コラムは、第五代国鉄総裁、石田礼助氏の「粗にして野だが卑ではない」という自己紹介の言葉をもじって、「アレ」をこう評していました。全く同感です。

 「粗にして野にして『卑』でもある」

 もう笑う気もおきません。ただ一つ言えることは、「アレ」はクトゥルー神話にでも出てくるような異世界のものであり、日本に仇なす最悪の存在であるということです。「アレ」が、いかにわれわれと異なる太古の原生動物的な思考を持つか、その傍証として「アレ」自身がかつて朝日新聞社のインタビューで振り返った政治家としての歩みから引用して示したいと思います。

 《市民運動をしていたころ、国会というのは遠い向こう側にありました。つまり、政党というのは私には縁のない存在だった。だから向こう側の中にある与党や野党がどういう関係にあるのか区別はできず、社会党も含めて体制に見えていたのです。
それが議員になって国会の中に入ると、与党と野党が違うということがわかった。与党は政権に入り、野党はアンチテーゼを出していた。さらに次のステップで、自社さ連立政権で与党になり私も閣内に入った。それまでは与党と内閣の区別がつかなかったが、ここでそれがわかってきた。》


 …3回連続して落選した後、4回目の挑戦で国会議員になるほど執着していたくせにこれです。これって、まるっきり馬か鹿かそのハイブリッドではないですか。その後、「アレ」を連続して当選させ続けた有権者に八つ当たりしたい気分です。
ああ、本当に頭が痛いし、体がだるい。放射能より無能が怖い。(阿比留瑠比)

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 官邸の番記者はどこの社の記者も似たような思いで、日々取材を続けているんでしょう。
 総理の座の前任者である鳩ポッポも憲政史上最悪の愚か者と言われましたが、現任者と比べればまだまだ毒は薄い方でした。

 つい先日、気の置けない友人がこんなことを言い出しました。
 「この間大臣辞めた、あの松本龍とかいう威勢のいいオヤジ、同和の親分だって言うんじゃないか。被差別部落がどうのこうのという、俺が土建屋で働いていた時、よく会社に電話をよこして関西弁で『機関紙を取れ』とか騒いでいた、あの類だべな。
 それでオレ思ったんだけど、今オレら福島県民は風評被害で全国的に差別を受けている状態だわな。つまり、被差別部落じゃなくて被差別県ということでしょ。
 だったら、部落解放同盟にあやかって“福島県解放同盟”つうのを作ったらどうだべ?
 オレは福島にずっと居るつもりだけど、できれば県外に行きたいという人はいっぱい居るけど、どうせ県外に行っても『福島県出身』というだけでいろいろと差別を受けるのは間違いないし、実際、あちこちでそういう話が起きている。
 このままでは、国は何年経っても原発処理は進まないと思うんだよ。ということは、ますます福島県に対する風評被害という差別は広がる一方だ。東京だとか静岡だとか結構離れた所でも放射能物質が検出されると、みんな福島のせいにされる。もしかすっと、元々そこにあったものかも知れなくてもだ。
 東京方面に住んでいる連中がちょっと体の調子が悪くなったりすると、何でもかんでもフクシマ原発の影響だと心配するバカが多いという話も聞いている。
 もうこうなったら、オレらはマトモな人生を歩むことは無理だと思うんだよ。
 福島は半永久に差別されて行くことは間違いない。
 だったら、県内の不良でもヤクザでも何でも巻き込んで政治結社でも作って、松本のように他県に睨みと脅しをきかして差別利権というのを築いて、貪ってやる方策を考えねば、と夜中に布団の中で思ったんだ。とにかく、このくらいことを考えねえと気が済まねえんだわ。 アンタ、どう思う?」

 
 「アンタ、どう思う?」と言われたって、敬天としては気持ちは十二分に理解できますが、そこで仮に彼の考えを推し進めようとすると、イデオロギーでの理論武装も含めて・・・何たらかんたらと長々と説明をして、最終的には反国家主義者として生きていく覚悟を決めるしかない。反政府ではなく「反国家」となると、我が日本は「国家=天皇と臣民(国民)、国体=天皇」、つまり天皇陛下に対し逆賊になるんだけど・・・と友人に言ったら、この気のいい保守志向の人間は「あっ、そうか。それはとんでもねえことだ。この話はなかったことにすっぺ」ということに落ち着いたのですが・・・・・・。

 「そうすっと、あの松本は逆賊ということになるんだな。ああ恐ろしい。天皇陛下に逆らう逆賊が大臣になっている現実が今の民主党政権だということだ。菅も北朝鮮の拉致実行犯の関係者の団体に何千万と献金していたニュースがあった。
 これだって菅も逆賊だということだ。逆賊が総理大臣だっぺな!

 こっちの方が、オレには放射能よりおっかねえ!!」


 


 しかし彼のように考えて、逆賊が福島県からどんどん生まれる可能性は充分にあるんです!!

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 御来訪感謝申し上げます。

 今日は不肖敬天愛人がいつも共感している若手フリーライター宮島理氏のブログからの転載です。  (太字編集は敬天です)


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 原発政策を地元に押しつけるな
2011年07月07日13時00分

 菅政権の責任逃れに憤った玄海原発の地元首長が、再稼働了承方針を撤回した。結局のところ、都市部住民は原発事故前も後も、原発政策を地元に押しつけて知らんぷりをしている。菅首相は都市部住民のそうした無意識が具現化した存在に過ぎない。
 
 原発事故後に、浜岡原発停止“要請”をした菅首相は、地元(および電力会社)に原発政策を押しつけた。原発を停止せず、仮に何らかの事故が起きれば、「“要請”を聞き入れなかった地元が悪い」と言える。また、原発を停止して、仮に停電が生じれば、「あくまで“要請”しただけで、最終判断をしたのは地元」と逃げることができる。菅首相および菅首相の“要請”を支持した(主に)都市部住民は、原発事故による心理的不安から逃れ、原発政策に関する判断から逃れるために、地元にすべてをなすりつけたのである。

 だから、定期検査中の原発再稼働についても、“要請”という手法が取られた。原発を再稼働して、仮に何らかの事故が起きれば、「あくまで“要請”しただけで、最終判断をしたのは地元」と逃げることができる。また、原発を再稼働せず、仮に停電が生じれば、「“要請”を聞き入れなかった地元が悪い」と言うつもりだったのだろう。

 それでも、原発を通して都市部に安定した電力を供給し、エネルギー安全保障にも貢献してきたという自負のある地元は、真剣に菅政権からの“要請”について検討した。その結果、玄海原発の地元である佐賀県玄海町では、再稼働を了承することにした。ただし、事故や停電の責任をすべて負わされるのは筋違いだから、佐賀県知事は菅首相との会談を要望した。当然の要求である。

 ところが案の定、菅首相は佐賀県知事との会談を拒否した。佐賀県知事と会談すれば、玄海原発の再稼働について、菅首相は明確な意思表示をしなければならない。“言質”を取られることをおそれて、菅首相は逃げ回った。菅首相の頭の中にあるのは、原発政策について、具体的なことは何も言わず、フワフワと世間の「脱原発」ムードに媚びることだけだ。

 地元の神経を逆なでしたところで、菅政権は「原発のストレステストをやる」ということを急に言い出した。本来なら、全国の原発について、ストレステストをやるための具体的なスケジュールを策定し、基本的には原発を稼働しながら、一部の原発について順繰りに停止し、数か月から場合によっては数年かけてテストを行う必要がある。しかし、菅政権はそういったスケジュールをまったく用意しないまま、思いつきでストレステストと言い出した。

 その背景には、玄海原発の再稼働について責任を負いたくないという気持ちがあったはずだ。原発再稼働“要請”で地元に責任をなすりつけられると思ったら、「菅首相と会談したい」と言われて菅首相は困った。このまま会談をしないと、さすがに世論からも非難を浴びる。かといって、原発再稼働“要請”を取り下げるのも避けたい。原発再稼働“要請”を取り下げるということもまた、「菅政権は原発を停止させたままにする」という意思表示をしたことになるからだ。それでは、停電時に菅首相が責任を問われることになる。そこで、「原発再稼働を了承した地元があるようだけど、ストレステストというのをやることにしたから、もうちょっと待ってね」と、時間稼ぎをすることにしたというわけだ。具体的なスケジュールを決めずにストレステストの実施を宣言すれば、菅首相は永遠に原発再稼働の判断から逃れることができる。

 玄海町の岸本英雄町長は「了解は苦渋の決断だった。政府のやり方は、小ばかにしている」と怒った。この怒りは当然で、どうして原発政策を地元が引き受けなくてはならないのか、という気持ちだろう。

 原発事故が起きるまでは、都市部住民は原発から安定供給される電力を享受していた。原発にはリスクがあると承知していたので、地元には多額の“補償金”が支払われていた。ただ、基本的にはそれで終わりで、都市部住民は原発に無関心だったと言える。一方、エコロジストや国策による輸出政策論者は、「原発ルネサンス」と言い、原発を積極的に推進した。エコロジストで国家主義的な民主党政権では、2030年までに原発を14基以上増やす方針を打ち出し、海外にも国策として原発を輸出した。

 ちなみに私は、「「正義」を簡単に着替える日本人」 にも書いたように、エネルギー安全保障の観点から、消極的に原発依存度の現状維持という立場を取っていた。「原発ルネサンス」には懐疑的な、流行遅れの人間だった。日本がシーレーン防衛に積極関与できるようになったり、エネルギー輸入の多様化が大幅に進めば、原発依存度は下げても構わないという考えだった。だから、原発事故後も、基本的にはスタンスを変えず、既存の原発を稼働し続けながら、エネルギー安全保障と原発依存度のバランスを見ている。原発事故があったからと言って、それまでの自分のスタンスを隠し、感情的に「脱原発」ムードに媚びるのは、最も恥ずべき事だと思っている。

 ところが、菅政権は原発事故後にコロリと態度を変えた。正確には、それまでの自分たちのスタンスを必死に隠そうとした。その結果、原発政策については具体的に何も言わず、すべてを地元に押しつける最悪の“菅流”政治が行われた。菅首相自身は、原発をなくすともなくさないとも言っていない。何となくフワフワと、「脱原発」という雰囲気を醸し出しているだけなのである。

 実は、同じことは都市部住民についても言える。原発のリスクを知り、地元に“補償金”を支払っておきながら、都市部住民は原発事故後に「原発にリスクがあるなんて知らなかった」とカマトトぶった。さらに、福島原発の地元では放射性物質による環境汚染問題で苦しんでいるのに、原発から遠く離れた都市部で微量な放射性物質が検出されたからと、「こどものいのちを守れ」と大騒ぎし始めた。

 これは、一見素朴な恐怖心のようだけれど、都市部住民みずからが「被害者」となることで、原発政策にかかわる都市部住民の加害者性や責任をすべてチャラにしようという無意識の働きでもある。あれだけの原発事故が起きたにもかかわらず、本当に取り組むべき地元の環境汚染問題そっちのけで、都市部の些細な放射線問題で騒ぎ、政治的資源を浪費させているのは、都市部住民が自分たちのことしか考えていないからだと言われてもしかたがない(そして、こういう当然のことを指摘されると、客観性やロジック無視で「こどものいのちが些細なことだって言うのか!」とさらに感情的になる。「こどものいのち」を自己弁護のために軽々しく悪用するのはやめてもらいたいものである)。

 地元にはそれなりのリスクを昔から押しつけておきながら、いざ、自分たちに極々わずかなリスクが降りかかってきたかもしれないと感じたら、「放射能こわい! 原発要らない!(でも停電や不景気はイヤ)」と叫ぶ。ただ、かといって、原発政策を真剣に考えているわけでもない。菅首相の浜岡原発停止“要請”に何の疑問もなく賛同した有権者が少なからず存在したのは、「原発要らない!」という言葉が、実は「原発のことなんか考えたくもない!」というレベルでしかないことの証拠だ。

 結局、原発事故前と後とで、都市部住民は何も変わっていない。「原発のことなんか考えたくもない!」ので、原発事故前は“補償金”で原発を地元に押しつけると、無関心になった。原発事故後も、「原発のことなんか考えたくもない!」ので、フワフワとした「脱原発」ムードに便乗し、“菅流”政治を助長した。国民的なコンセンサスに基づき、長年、原発を支えてきたという地元のプライドは、ズタズタにされてしまったのではないだろうか。さらに、それでもなお、今夏の都市部の電力を安定的に供給するという使命を果たすべく、苦渋の決断でリスクを引き受け、原発再稼働を了承したら、その矜恃までもぶち壊されてしまった。

             (後 略)
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 ある意味、菅直人という男ほど分かりやすい男はいません。
 簡単にいえば、「国民に対しての責任と判断からは絶対に逃げる(ただし韓国に対しての責任と判断からは絶対に逃げません)」という菅の法則です。
 菅の法則を行動原理に言い換えてもいいのですが、菅首相の言動はすべてこの行動原理によって為されるというポイントを押さえていれば、総理の不可思議な言動は看破できるのです。
 また、与野党ともに菅総理へ「即刻退陣」を口先だけで要求するばかりで行動が伴わない最大理由は、政治家センセーたちもほとんどが行動原理を総理と同じくしているからです。同時に「菅流政治」を裏支えしているのは、こういう政治家センセーの支持者である国民なのです。
 この国民とは被害者を装ったエセ被害者たちです。

 『韓流』と『菅流』、どちらも日本を破滅させる時限爆弾のようなものです。
 時限が来る前に処理しないと最悪の状況を招くだけです。
 喉から手が出るくらい爆弾処理班が欲しいのです。

 

 あえて言う、原発事故の本当の被害者は福島県民だけだぞ!!

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                     フランク・シナトラ(1915‐1998)  

 御来訪感謝申し上げます。

 「政治」カテゴリーのブログをやっていると、どうしても毎回下世話な話になってしまいます。
 若い頃、当時の知り合いの県会議員が「政治家とは最も俗な人間が就く職業である」と自嘲気味に話してくれたことがありました。
 確かに俗物でないと務まらないのが政治の世界です。
 ここ数日、世間を騒がせた松本某などはその最たる者でありますし、パフォーマンスしか能のない無能・無責任を絵に描いた菅直人はじめ民主政権の面々を見ていると、まともな感覚の持ち主はうんざりするだけです。
 元五代目山口組後藤組の後藤忠政(現後藤忠叡師)組長は著書「憚りながら」で島田紳助をして「小チンピラ」と称しましたが、政界に巣食っているのも小チンピラ連中です。
 
 連日こういう小チンピラの記事ばかり書いているのでは、決して精神上良くありませんから、たまには、小チンピラどもには絶対にできない「ちょっとイイ話」を取り上げたいと思います。

 不肖敬天愛人が20年前に、当時は脚本家の倉本聰のエッセイが好きでエッセイ集の単行本を何冊か買って読んでいたのですが、その中にあった敬天お気に入りの一説――米国の往年の大スター故フランク・シナトラについての深イイ話――を紹介致します。


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  もてなし

 新幹線が好きだった。
 夢の超特急と言われたあの滑るような感覚の中で、うつらうつらとまどろみ沈み、ふと気がつくと目的地に着いている。タイムカプセルに乗っているようなあの感覚がひどく好きだった。
 映画のキャンペーンで全国を駆け巡ることになったとき、だから飛行機はほとんどキャンセルして新幹線の旅を選んだ。ところがこれがあやまちの因(もと)だった。
 うつらうつらといかないのである。
 安眠することが出来ないのである。
 眠ようとする叩き起されるのである。
 ひっきりなしに社内へ乱入する売り子の声の暴力である。
 あまりのことに頭に来てしまってどの位の感覚で来るものか計ったら、一番短いのでわずか三分。ほとんど平均七分間隔で来た。国鉄は客を眠らせない気らしい。

 もてなしということについて時々考える。
 あるとき地元の青年たちが講演会を開くことになって、さてそのお呼びした講師の方たちをいかにもてなすか議論になった。即ち講演が終わった後で宴席を用意するかについてである。
 宴会など止めるべきだと僕は言った。
 そんなわけにはいかないと彼らが言った。
 いや、先生方は講演の後できっと体力を消耗しておられる。そこへまた初対面のがさつな者共が気の張る宴席など強要したら多分うんざりなさるにちがいない。勿論中には土地の食い物を愉しみにして来られる先生方もおられるだろうから、先方の意見をあくまでお聞きして、それによって自由に臨機応変に接待の方法を考えたらいい。あらかじめ儀礼的公式的な宴席などは用意すべきではない。そう言ったら一人が奮然と反論した。
 そうはいかない。我々の面子もある。
 我々の面子―――。
 さてここから話が狂ってくる。
 本来相手を慰撫する為の、相手への為のもてなしのはずなのに、そこへ自らの事情が入ってくる。

 フランク・シナトラに招待されてアメリカへ行ったという男の話をきいた。
 もう大分前の話である。
 空港に着くとタラップの下に(当時はまだタラップを使用していた)、おどろいたことにシナトラ自身がたったひとりで出迎えに立っていた。当の男も仰天したが他の客たちもみな仰天した。シナトラは他人には目もくれず彼を見つけると大声で叫び抱えるようにして迎えてくれた。
 何故か税関ほとんどフリーパス。
 断っておくが当の男は日本では決して偉い人じゃない。単なる無名のサラリーマンである。
 空港を出ると待っていたシナトラの自家用車に乗せられ、彼のとってくれたホテルへ向かう。緊張している彼をほぐすように軽い話題と明るい雑談。
 車がハイウエイを抜けダウンタウンへ入ってホテルへ近づいたと思われたとき、「ところで」とシナトラが真面目な顔で彼に向かって初めて切り出した。
 ところでミスター、招きに応じて本当にわざわざよく来てくれた。予定ではあなたはこれから一週間、このロスに滞在することになっているわけだが、ホテルは僕が厳選してとった。多分その部屋は気に入ってもらえると思う。
 さてその一週間の君のスケジュールだが、いろいろ御予定もおありだろう。私はずっと君といたいが、それでは君が気づまりだろうし第一君の予定を狂わすことになってはいけない。それで、これから部屋を確認したら一寸だけバーに付き合っていただいて、お疲れだろうから私は引き揚げる。後は自由にゆっくりして欲しい。明日からずっと用のない限り私は遠慮して顔を出さない。
 用があったらすぐ呼んでくれ。
 今運転しているこの男は私の秘書兼ボディガードだ、彼の電話を今教えるから二十四時間いつでもかけてくれ。やむを得ないスケジュールが入っていない限り、いつでも私はかけつける。
 私への用以外のことについても、何でも彼に言いつけてくれ。
 食いたい物。見たい所。行きたい所。困った時。何か欲しい時。女が欲しい時。
 何でもいいから彼に言ってくれ。二十四時間何時でもかまわない。いや、彼は君の為だけにそこにいるんじゃない。気にしないでくれ。それが彼の仕事なんだ。そうやって一週間自由に愉しんでくれ。
 ただ、ひとつ。
 ひとつだけ私から頼みがある。
 最後の晩だけ私に空けてくれ。
 一緒にめしを食い、ショーを見たい。
 その晩だけは私の為に、君の時間を空けといてくれないだろうか。OK?ありがとう。無理を言ってすまない。愉しい夜を保証する。

 それから彼はホテルへ着き、シナトラ自身がチェックインしてくれ、そうしてホテルのペントハウスの最高級のスイートへ―――それは男の日本の住居など比べものにならない坪数と豪華さで。為に幾分正直なところ心の底で傷ついたらしいのだが―――自ら一緒について来てくれて、気に入ったか? OK。よかった。うれしい――――。
 そしてふたりはバーへ行って少し飲み、シナトラは引き揚げて行ったというのである。

 もてなし。
 それは自分の為でなく、相手の為のものである。
 国鉄はどのように考えるのだろうか。 (倉本聰エッセイ集「左岸より」から)

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 この話を本の中で読んだ時、批判を恐れずに申し上げれば、正直言って「これではアメリカと戦争しても負けるわ」と何故かつくづくと感じました。
 フランク・シナトラの自分の客へのもてなしのスケールの大きさではありません。
 倉本さんも指摘しているように、日本人は相手をもてなすにも相手への配慮よりどうしても自分の面子が先に立ってしまいがちです。
 相手が望むことよりも、自分が恥を掻かないことにとらわれすぎているような気がしてなりません。一応「相手に失礼のないように」と礼を尽くしているつもりでも、それが相手に喜んでもらえるものかは相手が決めることであります。
 宴席を設けるにしても、往々にして接待を口実に自分が楽しみたいからという部分が無きにしもあらずではないでしょうか。
 それでは結局「相手の為ではなく、自分の為」になってしまいます。
 相手の方もこちらに恥を掻かせないように、喜んだふりをしてくれているだけかもしれません。これも日本人の美徳である「お互い様」の心なんでしょうか。
 シナトラだけでなく白人は自分の時間を非常に大事にします。その代わり、他人の時間も同じように大切にします。
 イチローがアメリカに行って心がけたのは、「野球ファンは自分の大切な人生のひとときを使って自分の活躍を見に球場に足を運んでくれるのだから、もし自分が活躍できなかったらファンの人生の貴重な時間を無駄にしたことになってしまう、それでは自分の存在価値などないだろう」ということだったとTVの密着番組で話していました。
 これが外国でも通用するイチローの賢さであり、強さなのでしょう。日本人にありがちな甘えの精神構造がありません。
 この時も、果たして日本人選手でこんなことまで考えてプレーをしている人間は何人いるだろうか、と思いました。
 和を最優先する日本社会と違って個人主義社会だからと言ってしまえばそれまでですが、シナトラのエピソードを読んで他人の人生の時間にまで敬意を表していること、また、それが彼らの価値観でもあるというのがはっきりとうかがえる話と感じました。
 白人の世界には公的なものだけでなく友人・知人を招いての個人的なパーティー文化がありますが、互いの人生の時間を共有して大いに楽しむ文化、これなどまさに「もてなし」の最たるものではないかと思うのです。
 客を招く側の主人のことを英語でホストといいますが、この語源は教会で聖職者が無私の献身と歓待をするホスピタリティから来ているらしいですが、シナトラのもてなしぶりを見ているとまさにピッタリであります。
 
 勿論、敬天が勝手に感じたことです。 感じ方は人それぞれですので、皆様はどう感じられたかをコメントでお教えいただければ幸いに存じます。


 敵が何を感じ何を考えているのかを知らなければ戦争には勝てません!!

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