全体表示

[ リスト ]

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
                              「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
新しい日本!!
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆関東軍参謀で天皇の従兄弟
 戦争直後竹田宮恒徳(つねよし)は千葉県で牧場を経営した。竹田は宮田という変名で関東軍司令部と731部隊をつなぐ要の役割を果たしていた。占領軍の命令により、明治天皇の孫に当たる竹田は皇族の身分を剥奪された。1951(昭和26)年、日本政府は竹田を含む2000名にのぼる大佐以下の旧軍将校の公職追放を正式に解除した。彼は日本体育協会の会長となった。1962(昭和37)年10月、彼は日本オリンピック委員会の委員長に任命された。
 日本スケート連盟の会長として、竹田はソ連を含む世界各地を広く旅行した。日本がスピードスケート世界選手権大会のホスト国を務めた後の1963(昭和38)年、竹田は『ジャパン・タイムズ』の記事の中で国際感覚について彼が考えていることを明らかにしようと決意する。スケートの国際大会で国際スケート連盟と日本の政府役人との間で、国旗掲揚と国歌吹奏は非政治的で平和的な国際大会の目的に反するのではないかという議論がなされた。
 「我々の軽井沢大会での国旗・国歌を使用しない方針は間違いなく成功を納めた」と竹田は書いている。
※竹田は、戦時中自分が勤務した関東軍で731部隊や100部隊に関わっている。「日の丸」や「君が代」が侵略のシンボルとして強く竹田の脳裏の中にあったに違いない!!
竹田は、戦時中何をやっていたかは以前のブログに書いた。もう一度紹介すると、

『死の工場(隠蔽された731部隊)』(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳)より
10章「誰が知っていたのか?」
竹田宮は20数年前、日本占領下の満州で任務に従事した。そこで彼は、主席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションに就いた。そういう地位の人間として、彼は満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際は、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満州にある他の死の工場も視察したはずである。
 竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

また、ウィキペディアで竹田を調べると全く731部隊のことには触れていない!!
【太平洋戦争には大本営参謀として、比島攻略、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は『宮田参謀』であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月に中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第一総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。因みにこの時、王の後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三中佐である。終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱する。以前から皇族が多いことに問題を感じていたため、あまり抵抗は無かったと言う。さらに「“竹田”と言う名は他の宮家と違い、ポピュラーで気に入っている」とも語った。皇籍離脱に伴い一時金が与えられ、この金を目当てに近寄るものが後を絶たなかったが、全てを丁重に断った。】
竹田の場合皇籍離脱は、占領軍の命令だった!!GHQは竹田が戦時中どのようなことをやっていたかを知っていた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
張静芝(女、54歳)の証言
 1937年には、私は7歳で、家は燕子磯の三台洞渡師石村でした。12月13日に、日本兵が南京を攻め落としました。家の近くでは、少なくない国民党の将兵やラオパーイシン(=庶民)が命を全うしに南京から長江を渡ろうとしていて、夜、長江の岸辺ではラオパーイシンの救いを求めるわめき声が絶え間なく伝わって来ていました。私は日本軍が中国のラオパーイシンを2列にし機関銃で集団掃射しているのをこの眼で見ました。上元門の大○子の近くは死体がびっしりで、歩く時に足が当たってばかりいて、その時、大○子の近くに屍の畦が5本できたのでした。(曹望鴻が記録)※○は日本の漢字に変換できない字

閉じる コメント(1)

顔アイコン

転載させていただきました。

2019/1/14(月) 午後 9:08 たんぽぽ新別館 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事