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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) 65年前の8月10日、広島、原爆投下から4日が過ぎた。 長崎に原爆が投下されて1日が過ぎた!!この間に多くの人々が死んだ!! また、満州ではソ連軍が国境を越えて攻めて来て、主力部隊を欠く張り子の虎の関東軍は抗戦できず、それまで威張っていた日本人は大混乱になり、多くの日本人が広い中国を逃げまどい、ある者は両親と生き別れて中国の養父母に育てられたり、着の身着のままで何とか日本に帰国した者、八路軍や国民党軍の兵士になった者、あるいは、開拓団で集団自決した村、発狂した者、1人で自決した者、もちろんソ連軍によって殺された者、捕虜になった者、過酷な状況に置かれ、その後も運命に翻弄された!! 想像しただけでも、恐ろしい光景が浮かぶ! 一方731部隊にはいち早く撤退が命じられた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収した。それも、特別列車が用意されたり、飛行機を使ってである!!この特別扱いは何だ!! まだこの日も、日本政府は降伏の決断ができないでいた!! 犠牲者がまた、また多くなった!!その責任は一体誰にあったのだろうか? 昭和天皇や軍部・政治家ではないのか? 陸軍中央に入る情報は今と比べれば、はるかに少なかっただろうが、それでもだいたいの状況は把握できていたのではないか? 現人神であった日本軍の最高責任者 昭和天皇は、広島や長崎の平和式典に何故出席しなかったのか?あなたには関係が無かったのか? 今の天皇も何故参加しない? 戦争と皇室は無関係なのか?疑問に思う!! 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国で、アジア太平洋で行った残虐行為の多くの被害者の方々にも当てはまる!! 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 声を上げた中国の細菌戦被害者 細菌戦被害者による国家賠償請求裁判 記録に残る死亡者の数は、この6地域で2100名あまりになるが、火葬されるのを恐れて密かに身内で埋葬したり、家族全員死亡というケースも少なくなかったので、実際の被害ははるかに大きいと考えられる。現に湖南省常徳では、「ペスト被害者調査委員会」が周辺地域の聞き取り調査を進め、98年までに19郷鎮、計54か所、合計3563名にのぼる「被害者名簿」を作成した。これとは別に駐屯していた軍隊(国民党軍)の兵士3000人が、感染死したとの情報もあり、現地での調べが進められている。 1997年8月の提訴以後、1998年2月の第1回口頭弁論から2001年12月の結審まで、原告、研究者、省政府も含めて60人以上が来日し、その機会に日本全国を回って細菌戦被害の実態を訴えている。彼らが悶絶する肉親の死の苦しい記憶を繰り返し語るのは、踏みにじられた「人間の尊厳」の回復と、人道に反する残虐な犯罪行為の認定・調査と謝罪・補償を求めているからである。2000年12月には新たに72人の原告が追加訴訟を起こし、原告の合計は180人となった。 ※侵略戦争の犠牲者が多くいた。1972年の日中共同声明5項には「中華人民共和国政府は両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と書かれてあり、国家間では賠償放棄ということになるが、個人の被害者はどうなるのか?個人賠償請求権は放棄されておらず、180人の原告が裁判に立ち上がった!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 沈遐鴻(男、57歳)の証言 2日したら、九死に一生を得て来た李叔父さんが、その人たちの江辺まで引きずられて行って虐殺された経過を私たちに語るのに、話していても涙にむせんで声が出ないほどでしたが、それでも話してくれました。「俺たち江辺まで連行されると、周りにもう機関銃が配置されていて、号令一下、日本兵が機関銃で人々の群をねらって掃射し、銃声やら泣き叫ぶ声やらが耳をつんざいてつぶれんばかり、一団また一団と人が血の海に倒れるんだ。長江に跳び込みたがる人もいたが、土手の上の機関銃も火をふいていて、何人かが跳び込んでも小銃で撃ち殺され、ほんとに死体がうずたかく積まれて山のごとく、血が流れて河となるだった。俺は成り行きのままに倒れて死体の下になり、目を閉じて動こうにも動けなく、夜暗くなってから死体の堆を這い出して、壊れた車の腹の所に隠れ、とうとう逃げ出して来れたんだ。その後で日本軍は死体にガソリンをかけ火を放って死体を焼き痕跡を無くしてしまおうとしていたよ。・・・・・」。日本軍は南京の難民区でこんなにもでたらめをやり、凶悪残忍にも強姦したり、無辜のパーイシン(=一般大衆)を捕らえ殺したりし、上海路や高家酒館などではさらに又ほしいままに振舞って街を一筋血で洗い、丸々街一筋の男子たる者すべてが捕らえ尽くされ殺し尽くされて、従姉の夫がその時に捕まって行き銃殺され、屍は全く影も形もありません。(明日に続く:段月萍が沈遐鴻からの手紙により整理) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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