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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
                              「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
新しい日本!!
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆血液銀行からミドリ十字へ
 ニューヨーク科学アカデミーのメンバーでもある内藤は、1963(昭和38)年に人工血液に関する彼の先駆的研究に対して日本学士院賞を受賞した。平房では人間の血液の代用となるものを捜す初期の試みとして、人間モルモットたちに馬の血液をおもいっきり注入したりした。ミドリ十字は人工血液で大儲けした。ところが1982(昭和57)年になってから、1970(昭和45)年1月のこの製品のテストには、72歳の女性のがん患者を使ったという新聞記事が出て、ミドリ十字社に大混乱が起きた。しかし、人工血液を製造・販売する許可を受けるために厚生省に提出した申請書には、最初に実験台になったのは内藤を始めとする他のミドリ十字の重役たちで、実験が行われたのは3月だと書いてあった。最初の人体実験は健康な自発的協力者を使って行われるべきだとする広く尊重されている規則に反して、病気の人を使って新薬の実験をしたということで、ミドリ十字は非難された。しかし新聞の報道の内容が確認された後、厚生省は提出済みのデータをもう一度チェックして、政府の許可を再度受け直すよう指示しただけだった。

 1977(昭和52)年4月、内藤は旭日賞を受勲した。彼は仕事の関係でアメリカを含む世界各地に出かけた。彼は1982(昭和57)年7月に他界した。ミドリ十字はロサンジェルスに巨大な新社屋の建築を計画している。この建物は内藤博士にちなんで名付けられることになっている。
※このような人権を無視した新薬の開発はこの後にも続き、薬害エイズ事件に発展する。以下、ウィキペディアより
薬害エイズ事件(やくがいエイズじけん)とは1980年代に、主に血友病患者に対し、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件である。
原因は、ヒト免疫不全ウイルス (HIV) に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ、治療に使用したことである。後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通し、それを投与された患者がHIVに感染して、エイズを発症したことから多数の死者を出した。
世界でも日本だけは加熱製剤が開発された後も2年4ヶ月以上の間放置されたままなかなか承認されず、非加熱製剤を使い続けたためにエイズの被害が拡大した。1989年5月に大阪で、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求める民事訴訟が提訴され、1996年2月に菅直人厚生大臣が謝罪し、3月に和解が成立した。
この時製造販売で提訴された製薬会社は、当時のミドリ十字(現在の田辺三菱製薬)と化学及血清療法研究所であり、輸入販売で提訴された製薬会社は、バクスタージャパン(日本トラベノール)と日本臓器製薬、カッタージャパンを合併承継したバイエル薬品である。また、カッタージャパンの該当非加熱製剤を発売元として大塚製薬と、同じくバクスター製の同種製品の輸入発売元として住友化学(現在の大日本住友製薬)の2社も非加熱製剤を発売していた時期があり、無関係ではなかったが両社とも提訴されなかった。
裁判
1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、厚生省官僚だった松村明仁、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。なお、安部の容疑は自らが担当した患者にHIVに汚染された非加熱製剤を投与して死亡させたことであり、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させたことではない。この裁判は2000年にミドリ十字の3被告人に実刑判決、2001年3月に安部に一審無罪判決、9月に松村に有罪判決が出た。上訴中に認知症を患い2004年から公判が停止されていた安部は2005年4月25日に死去した。2008年3月3日、松村に対して最高裁は上告を棄却した。
なお、松村については、1985年から6月にかけて投与された患者に対する件については高裁段階で無罪が確定したが、1986年4月に投与された患者に対する件では、1986年1月に加熱製剤の日本における販売が開始され、十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の回収などの措置を講じなかったとして有罪判決が言い渡されている。
1996年8月9日にミドリ十字の当時の取締役に対する株主代表訴訟が起き2002年4月に和解した。株主代表訴訟の和解条項などに基づき、2006年5月以降社内に調査委員会を設置し、ミドリ十字が当該事件の惹起を防止できなかった原因を調査検討した。その結果、2007年7月9日に薬害事件の再発防止策に関する提言を含む報告書を取りまとめ、提言を受けた改善策と併せて公表した[1]。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
謝金文(男、71歳)の証言
3、王図福は、人力車をひくので生活していました。殺された時は50歳余りでした。ある日、彼が掃帚巷や衛三や竹行の付近で、手に入れてきた衣服を天秤棒で担いでいて、後ろに王の妻や子供たち数人が付いていましたが、日本軍は人に遭えば殺すもので、日本軍は王が物を担いで前を歩いているのを見て、銃で両手を持ち上げ、王を撃ち殺しました。途端に妻と子供が死体に取りすがって慟哭し、その様のすさまじさは見るに忍びないものでした。
4、楊儍子は、殺された時50歳足らずでした。ある日、厠に行ったところを、日本兵2人に見られ、日本軍の1人が楊を撃って傷つけ、もう1人が又一発発砲して、その場で楊を撃ち殺しました。4人は、生前みんな南宝塔根の住民でした。(以上:肖中煌が記録)
 

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