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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」 武器よ!さらば! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 新しい日本!! (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『731部隊の生物兵器とアメリカ』 (バイオテロの系譜) 2003年発行 (ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版) ◆40年後の731部隊関係者 ◆輝ける研究実績は人体実験から 今日、まだ存命中の科学者たちは731部隊や100部隊との関連についてあまり語りたがらない。池田苗夫は大阪の郊外で血液専門の医院を開いている。池田は1968(昭和43)年、満州で行われた流行性出血熱の人体実験の結果を日本の医学雑誌に発表しても大丈夫だと考えた。読者諸氏は驚くべきことと思うかもしれないが、池田は次のように書いている。「筆者は患者から採集したノミとシラミの伝染性と、流行性出血熱に感染した患者の血を吸うことで人為的に汚染したシラミが伝染力を持つことを実験した。かくして、健康人が毒化シラミによって発病することが確認された」。 私たちが見つけた証拠の記録は彼の名前で書かれていて、その中で彼は捕虜のかかとに破傷風菌を注射する実験を指導している。これについて尋ねたところ、池田は回答を避けた。私たちはなぜ彼がそのようなことをしたのか知る必要があると迫ったが、彼は「もう年をとりすぎた・・・昔のことだ」などと口の中でつぶやいた。そして、彼の質素なつくりの医院の廊下を、足をひきづるようにして奥へと消えてしまった。 ある人は匿名で語ってくれた。日本のあるホテルの一室で私たちは元細菌戦部隊の隊員だった、ずんぐりとした薬学者と会って、その殺りくの実態や、恐ろしいウィルスや細菌爆弾の製造について話し合った。それから彼はホテルを出て午後の暖かい日差しの中へ、社会の中枢へと戻って行った。彼の上着の襟にはロータリー・クラブのバッジが陽の光を受けて輝いていた。 ※戦後日本で活躍した731部隊の科学者のほとんどは、731部隊で得たデータを元に論文を書いたり、新製品の開発を進めた。そして、ある者は出世し、いろいろな賞を受賞した。 本人たちには、良心の呵責などなかったのか?みんなで、絶対に口外しないと誓ったことを、多くの上級幹部たちはかたくなに守った。そんなことをしたら、天皇の戦争責任につながると思っていたのだろう!! しかし、医学論文には、発表していた!! 池田苗夫について調べていたらこんな記事があったので転載します! 薬害エイズと日本の医学者 七三一部隊の陰を引きずったミドリ十字 ミドリ十字が設立されたのは1950年11月で、朝鮮戦争が勃発した5ヶ月後です。当時は「日本ブラッド・バンク」という名称で、設立者は内藤良一という人物です。 内藤は、侵略戦争当時、陸軍軍医学校「防疫研究室」の主任でした。この「防疫研究室」の主幹は、かの有名な七三一部隊の石井四郎でした。石井は満州で細菌戦の人体実験を行いながら、一方で侵略戦争全域での細菌戦展開の作戦についてはこの内藤に命じていたのです。ですから内藤はいわば七三一部隊の総参謀役ともいえる人物でした。 アウシュビッツにも匹敵する戦争犯罪だった七三一部隊の罪状がアメリカ進駐軍によって意識的に免罪され、データがアメリカに売り渡され、それと引き換えに七三一部隊関係者はその庇護のもとに戦後の社会で活動したことは周知の事実です。そして、朝鮮戦争でアメリカ軍人の輸血の必要が生じたことを契機に、内藤は売血制度を中心にして「日本ブラッド・バンク」を設立したのです。設立当時は石井の後の七三一部隊の部隊長だった北野政次が東京の工場長をしています。また石井の京都大学在籍時の指導教官だった木村廉が会社の顧問的役割を果たしていたようです。 このように、ミドリ十字は元から七三一部隊の陰を引きずって生まれ、七三一部隊の犯した戦争犯罪を何ら反省しない人々によってその事業が始められました。それ以後、戦後日本の医学界に入り込んだ七三一部隊の研究者とその弟子たちを取り込んで発展してきた会社です。「非加熱製剤」が中止された後にも、それを回収するどころか販売し続けるという人命軽視、人間無視の姿勢は、まさに七三一部隊の思想を今に受け継いでいるといえるでしょう。 このことは、このような恥部をいまだにかかえている日本の医学界の重要な課題でもあります。いって見れば、薬害エイズは、日本の医学界が七三一部隊について未だに何ら反省してこなかったことと深く結びついている問題だと思います。 日本の医学界と七三一部隊 日本の医学界は七三一部隊について何ら反省してきませんでした。当時満州の七三一部隊で「研究」の主要な役割をしていた多くの技術者が、その後各地の医学部の教授となり、その後もそれぞれの学会でボス的行動をとってきたことを医学界は黙認してきました。例えば、石川大刀雄は金沢大教授、岡本耕造、田部井和、吉村寿人は兵庫医大教授、林一郎、斉藤幸一郎は長崎医大教授に就任しています。また南京につくられた「栄」一六四四部隊の技術者たちは、東大伝研(後の国立予防衛生研究所)に住み着いたごとくです。 五二年一〇月、日本学術会議第一三回総会が開かれました。この総会に平野義太郎、福島要一らが、「細菌兵器禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申し入れる件」を議案として掲出しました。当然の提案でした。ところが、これに反対したのは医学関係の第七部に属する戸田正三、木村廉でした。戸田、木村は京都大学医学部の教授で石井を指導した教官であり、侵略戦争当時は七三一部隊の技術者を送り込んだ張本人だったことはよく知られています。その反対理由として「現在日本では戦争を放棄しているのであるから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い。」「四〇年前に解決している問題であって、実用にならないものに苦労するはずがない。」などと述べています。七三一部隊の犯罪を反省するどころか、それがアメリカ軍によって免罪されたことを正当化した発言でもあります。 また、六七年一二月と六八年八月の日本伝染病学会雑誌(四一巻九号、四二巻五号)に、「流行性出血熱の流行学的調査研究」という原著を池田苗夫(かつて軍医中佐)が発表しています。これは四二年頃の満州・黒河、孫呉地方での流行性出血熱の七三一部隊での調査の記録です。七三一部隊がようやく日本の社会で問題視されたさなかに、日本伝染病学会でこのような論文が公然と発表され、しかも学会誌がそれを掲載しているのです。いかに医学界が七三一部隊の犯罪に無関心か、否、それを正当化さえしていることに憤りを感じざるを得ません。 今日まで、日本政府は一五年戦争が日本の侵略戦争であったことを正しく反省していません。同様に、日本の医学界も七三一部隊の犯罪性、非倫理性についての反省がなかったことを証明しているようです。 薬害エイズの原因となった血液製剤は製薬五社(ミドリ十字、日本臓器製薬、バイエル薬品、バクスター、化学血清療法研究所)によって供給されたものです。この中で最初に非加熱製剤の輸入を申請したのはミドリ十字です。おそらく製薬五社の中で主導的役割を果たしてきたのでしょう。このことから薬害エイズを発生させた遠因は、今から六十年も前の七三一部隊の人間無視の思想にあるような気がします。 (民医連医療No285(1996年4月)52-53 より転載) ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 車秀英(女、67歳)の証言 日本軍が1937年に入って来た時、私はやっと20歳でした。私たちは家中で沙洲圩の叔父の家まで逃げ、それから船で南京へ戻ろうと準備していました。長江の岸辺で私は日本兵が1人お婆さんを1人銃剣でほじくり殺すのを見かけましたが、それから日本兵は若い娘さんを1人無理矢理連れて行き、土地廟まで引きずって行って強姦しました。双○の大路で、日本軍が死んだ人の頭をたくさん一列にし、顔を長江に向けて並べていました。○虹橋の下に、殺された中国のラオパーイシン(=庶民)の屍が、うずたかく小山になっていて、醤園店の味噌のかめの中は、屍ばっかりで、今の淘煉廠の付近には「万人坑」が2つあります。(陸家○と段立平が記録)※○は日本の漢字に変換できない字。 |
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2010年07月11日
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