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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」 武器よ!さらば! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 新しい日本!! (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『731部隊の生物兵器とアメリカ』 (バイオテロの系譜) 2003年発行 (ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版) ◆40年後の731部隊関係者 ◆連合軍捕虜たちの戦後 クリスティが書いた政府宛ての手紙には、国防省(人事・調達部)のJ・C・ロッポ氏の以下のような返信の抜粋が示すように、奉天において連合軍捕虜が日本人によって人体実験に使われたなどということは信じ難いという、断固とした否認が返って来た。 1986(昭和61)年12月12日 ・・・私どもはいまだ日本軍が奉天の連合軍捕虜を人体実験に使ったという申し立てを裏付ける証拠、並びに真実を隠ぺいする謀略があったとする申し立てを裏付ける証拠を発見するに至っておりません。 1987(昭和62)年3月16日 ・・・・奉天の捕虜は外部からのーおそらくは480キロ離れた平房にあった731の医療チームによって治療を受けたということはわかりました。この治療は結果的にはそれまで高かった捕虜の死亡率を下げるのに役立ちましたが、テストや注射が含まれていたことがわかりました・・・731部隊が平房において〔生物戦の〕研究を行っていたという事実は、同じことが奉天でも起こったという証明にはならないと考えます。 クリスティーや、英国やアメリカの他の多くの人々が、彼らの戦時中の体験に対する賠償を要求している。 ※この本の254頁には、次のように書いてある。 【第2次世界大戦後の細菌戦の研究のほとんどは、英国で行われた。ボートンの研究者たちが初期の革新的調査研究を終え、さらなる開発ともっと重要な生産段階に持ち込むためにアメリカに引き渡されるというパターンが確立されていた。・・・・ ボートンでは微生物学者の数が3倍に増え、英国では最大の煉瓦づくりの建物が、生物戦の拠点として化学戦施設の隣に新築された。そこで行われた実験についての詳細は依然としてほとんどが機密とされているが、1948年の冬にカリブ海で行われた馬具作戦と名づけられた実験に、イギリス・アメリカ・カナダの科学者が参加し、本物の無害とは言い難い病原菌が使われたことが知られている。・・・・・】 このように、イギリスもアメリカと手を組んで、細菌戦の情報を活用していたことが分かる。だから、東京裁判では、イギリスも、石井らを訴追せず、戦後自国民の兵士の証言に対しても冷たくあしらった。奉天の捕虜収容所でもアメリカ人やイギリス人その他連合国の捕虜に対しても確かに、人体実験や生体解剖はあったのだ!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 馬静雯(女、64歳)の証言 日本軍が1937年に南京を占領した時、私と村の人たちとは豆菜橋の難民区に避難しました。ある日私は隣の家の井戸ベに行き米を研ぎ菜を洗い、戻って来る道で日本兵十何人かが、日本兵1人を取り囲んでげらげら笑っているのを見ましたが、それはその兵隊が銃剣で4,5歳の小さい男の子天秤担ぎにし、ゆらゆらゆすっては笑いこけていたもので、日本軍は全然中国人を人として見なかったのでした。難民区で私たちラオパーイシン(=庶民)十何人かはみんな建物の中の天井板の上や屋根裏の中に隠れていて、ご飯を食べるのでさえ下へ降りられませんでした。ある日階下にいた独り者の男の人が日本軍に見つかり捕まって行き、その後もう戻ってきませんでした。 明くる日、私たち屋根裏に隠れていて空気窓から見えたのですが、豆菜橋の河辺で、日本軍が捕まえてきた3、4百人が、、顔を河に向けていて、背後に日本兵が3、40人おり機関銃を3台据え付けていて、銃声を一しきりさせた後、こうした無辜のラオパーイシンが全部殺害されてしまい、豆菜橋の河の水がみんな真っ赤に染まったのでした。その時はこういうむごたらしい場面は至る所で見られたのです。(郭舜英と駱金浦が記録) |
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2010年07月15日
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