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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 第三章 新しい証言者と新資料の出現 昭和天皇死去・「731部隊展」以降 陸軍参謀の業務日誌 (1)中国での実戦 農安県における関東軍防疫隊は「防疫活動」というより、軍事色の強い「作戦行動」をとった。3本の専用列車で乗り込んできた防疫隊の強暴なふるまいと、荒れ狂う疾病に傷めつけられ、3万に満たない地域の住民は恐怖におののいた。防疫斥候班、病理解剖班は、車で駆け回って患者を捕らえ、死体を持ち去った。密葬された遺体を掘り返して、その場で解剖することもあり、そして、臓器は持ち去られた。 また、満州国の銃を持った警官が出動して、隔離区を縄と鉄条網で囲い、住民を厳重な監視の下におき、体温測定、リンパ腺の触診、採血や注射が行われた。採血は血清や血紛の製造、感染性の検査を目的としていたが、注射はペストワクチンの人体実験の性格を帯びたものであり、急死者が出たという証言もある。1940年10月は、農安地域のペストの流行としては、7月に続き2度目だったが、農安地域のペストの感染経路について解明した記録は残っていない。 「大塚備忘録」によるとこの1943年末において、戦局打開を模索する参謀本部は、ペスト菌を中心とした米英に対する細菌戦準備について、真剣な検討をしている。国際世論を気にせず、大量の細菌を使っての先制攻撃を主張する石井は、そのような持論をバックアップするための「既往実績」として、農安県のケースを持ち出してきて、「密偵によってペストノミを散布する方法が最も効果がある 1kgのペスト菌(Px)で500人から1000人を殺すことができる」と報告している。これは図らずも1940年の農安のペスト流行は、「(石井部隊の)密偵による散布実験で、効果があった(多くの感染者が出た)」と暴露した結果になっている。 元731部隊少年隊員の鎌田信雄は、「防疫隊」の一員として、このとき新京に派遣され、ペストに感染して死んだ人の墓を暴いて、塗沫標本を作るように命令された。暴いた墓は日本人の若い女性だったという。実戦的実験においては、日本人の民間人さえ犠牲になったことを、ここでも知ることができる。そして鎌田は、ペスト菌を持っているネズミの検査中にペストに感染し、死線をさまよった。危機を脱して本国へ送り返され、2度と細菌戦部隊に戻ることはなかった。 ※731部隊は着々と細菌兵器の開発を進め、農安におけるペストの発生にも関与していた。 多くの中国の人民がペストに苦しみ死んだり、解剖されたりした。その中には日本人の犠牲者もいた。 ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 朱伝安(男、66歳)の証言 1937年の12月中旬から1938年の元旦前後まで、私は通済門の鍛冶屋で徒弟をしていて、中国侵略日本軍の南京での大虐殺の事実を目撃しました: その年12月中旬に、私は難民区の通済門に向かう道で日本軍に旗を立ててやっていて、難民が何人か道を歩いている中に、師匠の息子たちが3人と、師匠の弟子が1人と、それに隣の人1人とみんなで5人いたのが、日本軍に捕まって行って道案内をさせられるのを目撃しました。その日の午後の5時ごろに、その人たちは上海路の近くで日本軍に殺害され、死体は沼に押し入れられました。2つの沼に屍がおよそ200体余りもありました。 12月20日頃に、私が通済門から難民区に行ったら、道で日本軍に捕まり天秤担ぎにされ、三牌楼の付近で3人日本軍に発砲されて撃ち殺されるのが見えました。 38年の元旦が過ぎてすぐのある日、私が山西路から通済門に行ったら、道で日本軍の1人に見られて、ホアクーニャン(=若い娘)を探してくれと要求され、探してやってる振りをして、あるあばら家にもぐり込み、こっそり裏門から逃げ出したのですが、驚きおびえから家に着いた後病気になり、何ヶ月もの病気でした。(呉大興と章歩錦が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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2010年07月26日
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