|
日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 第三章 新しい証言者と新資料の出現 昭和天皇死去・「731部隊展」以降 陸軍参謀の業務日誌 (1)中国での実戦 慶応大学医学部図書館にあった細菌戦部隊の医学論文 最近発見された、731部隊のペスト研究班高橋正彦の「昭和15年農安及新京ニ発生セル『ペスト』流行ニ就テ」という6編の医学論文は、このときの犠牲者57名の病理解剖記録を基に作成されている。少年隊員鎌田信雄は、高橋班の一員として新京に行ったと証言していることからして、石井防疫部隊の出動も、高橋班の病理解剖作業に基づいた軍事医学論文作りもすべて、ペストノミ散布実験の結果の検証を確認し、防疫実施訓練を兼ねた、作戦行動の一部だったといってよい。 ほぼ同時期に浙江省の一連の細菌戦は実行されていたわけであり、石井とその部下は、新京と農安の防疫戦と、浙江省の細菌戦の戦場とのあいだを頻繁に往復して、双方の前線で指揮を取った。これは偶然ということではなく、有効な細菌兵器をさまざまな方法で模索する過程で、ペストノミがもっとも有効であることを結論づける、最終的な「実戦実験場」と「戦場」とを往復していたということだった。 ※石井部隊は、農安や新京でペストノミの散布実験をし、その効果を確かめ、もう一方浙江省では本格的な細菌戦を行っていた。そして農安や新京で行った散布実験の結果を6本の論文にまとめた。それらの論文が発見されたのだ!!少しずつ歴史の闇の部分に光が差してきた。 ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 韓湘淋(男)の証言 日本軍が南京を占領する前、11月初めに、国民党政府は武漢に遷都すると決定し、上級官吏たちが陸続と西遷を始めました。11月中旬には、普通の市民たちでも田舎の方に難を逃れる者がいました。 12月12日に、私は下関に米を運びに行きましたが、それは私がその時国際救済委員会で難民区の食料を管理する仕事を担当していたからです。私は何人かを連れて珠江路から下関まで行きましたが、道々散り散りになった兵がたくさん、三々五々群をなして、下関の方に歩いているのが見えました。その時は、挹江門の東側の城門が1つ既にふさがっていて通れず、西側の門が1つ半分開いていて、車が1台やっと通れました。周りはみんな鉄条網や麻袋などの障害物ばかりでした。 12月12日の晩に、私はまた運搬労働者を6,7人連れて下関に米を運びに行きました。その道ではどこにもいっぱい打っちゃられた銃弾や軍服やトランクや行李などの物品が見られるだけで、城外ではもうその他に道行く人は見られなくなりました。 その時、城内では8割か9割の住民が既に難民区に逃げ込んでいました。 日本軍が南京を占領する前6,7日は、銃声や砲声が遠くで聞こえていました。陥落する10日前に、雨花台で激戦があり、日本軍の死傷が甚大だったと言われています。(明日に続く:高興祖が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年07月27日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





