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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 第三章 新しい証言者と新資料の出現 昭和天皇死去・「731部隊展」以降 連合軍に対する細菌戦 日本軍の細菌戦の調査のため、終戦直後来日したムリー・サンダース中佐は、この風船爆弾の調査を担当した。不気味に飛来してきた風船爆弾の真の意図が分からないまま、細菌戦を恐れて戦々恐々とするようすが、サンダースのインタビュウを通して、“Unit 731”に描かれている。風船爆弾は、北はアラスカから南はメキシコに至る広い範囲に飛来した。オレゴン州では好奇心から触ってしまった、教会のピクニックの一行6人が犠牲になったが、アメリカが回収した約1000個ほどの風船爆弾からは、細菌は検出されなかった。しかし、やはり細菌戦の一手段として参謀会議のレベルで検討されていたわけである。1944(昭和19)年11月から1945(昭和20)年4月初旬まで、太平洋岸の千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来(なこそ)の海岸の基地から、爆弾と焼夷弾を積んだ合計9300個の風船爆弾が、アメリカに向けて放球された。 前出の大塚文郎医事課長の業務日誌を見ると、積極派(井本熊男大本営参謀)と慎重派(真田穣一郎作戦本部第一部長)が、おのおのペスト攻撃を提案している。井本案は兵力1万2000名、ネズミ月産600万匹、予算1億2000万円。真田案はそのほぼ半分の規模となっているが、現行のままの縮小案(兵力2000人、ネズミ月産200万、予算1200万円)も出されていて、「効果ハアマリ期待出来ヌ」とある。石井は「対米英に対しては、多量の細菌を使って先制攻撃をするべき、国際関係に遠慮する必要はない」との提案を軍事課に提出したとある。具体的には飛行機27機を用意し、12機をもって2カ月に一回の割合で、ビルマ、インド、中国、ニューギニア、オーストラリア、太平洋諸島その他を、順次攻撃するという提案をしている。 ※大本営ではアメリカに対して最後の一撃を加えたかった。それで、いろいろ工夫して風船爆弾を飛ばしたが余り効果はなかったようだ!!その風船爆弾に細菌を積んで飛ばす案もあったが、実現できなかったようだ!!参謀会議ではいろいろな作戦を立てていた!!相変わらず、石井は積極的に細菌戦を考えて提案を上層部にしていた!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 韓湘淋(男)の証言 最高法院の近くに行ったら、三々五々とした死体が多かったのですが、10体余りが一緒になっているのもありました。山西路に行ったら、豆腐を売っていた爺さんが塀の脇で撃ち殺され、ひげに血がいっぱい流れているのが見え、それに8、9歳と2、3歳の子供の死体もありました。更に前に行くと、兵や馬やロバの死体がありました。 交通部の前に、死体が3、40体ありました。道の西には死体がもっと多く、どれもラオパーイシン(=庶民)の服装でした。北には兵士の死体が4、50体あり、門の所には10体余りあって、ラオパーイシンの身なりをしていました。北側の空き地にも2、30体ありました。 こうした死体は、見たところほとんどが集団的にあるいは個別に銃殺したもので、死体が割に集中していました。 海軍部に行ったら、入口に高射砲が2台あり、1台はもう壊れていました。そばに兵士の死体が3つ、5つありました。門の中にも何体かありました。(明日に続く:高興祖が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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2010年07月31日
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