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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」 武器よ!さらば! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 新しい日本!! (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『731部隊の生物兵器とアメリカ』 (バイオテロの系譜) 2003年発行 (ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版) ◆40年後の731部隊関係者 ◆血液銀行からミドリ十字へ 731部隊の2代目の隊長だった北野政次元中将は、戦後かつて彼の部隊のための人材スカウト係だった田宮猛雄の下でワクチンの製造会社を作ったが、破産させてしまう。しかし、朝鮮戦争が始まって間もなく、一時はマリー・サンダースの通訳だった内藤良一が日本血液銀行を設立し、北野も参加するよう頼んだ。北野は東京支店長になった。日本血液銀行を設立する前に自分の医院を開いた内藤は日本の医学界で有名になった。彼は血液銀行を、非常に成功した多国籍企業ミドリ十字に変身させた。大阪ベースの国際的医薬品製造の大会社で、多くの731部隊の元隊員を雇い入れ、インターフェロン、プラズマ、人工血液などの製造を専門としている。内藤はこの会社の副社長となった。北野も重役に名を連ねた。1973(昭和48)年に内藤はこの会社の社長となり、1978(昭和53)年には会長になった。この会社の1985(昭和60)年の推定利益は60億円だった。ミドリ十字は大規模な研究所を持つロサンジェルスのアルファ・セラビューティック社やイングランド州ノーフォークのアルファ・セラビューティック英国社などの子会社を持っている。 ※内藤らが設立したミドリ十字は大きな医薬品会社になったが、そこで行われた臨床試験などは731部隊で行っていた人体実験と本質的に変わらない人権無視の試験だった!! ミドリ十字(ウィキペディアより) 関東軍防疫給水部731部隊で活躍した内藤良一が中心となって設立。人工血液製剤製造のトップ企業となる。 1967年に赤痢予防薬の臨床試験を陸上自衛隊員を対象として行った結果、1089人中577人に急性食中毒が生じた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の痕があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。 内藤良一の死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。具体的には、当時の副社長には元薬務局細菌製剤課長補佐、取締役には元薬務局企画課長補佐、薬事部長には薬務局経済課長補佐経験者などがいた。政・財・官の癒着構造が、当時血友病患者らによってエイズ感染の危険性を指摘され始めたにもかかわらず、非加熱製剤の使用を許容させ、また当時は加熱製剤自体が新商品であった要因も加わり、ミドリ十字をはじめ、化学及血清療法研究所、バクスタージャパン(日本トラベノール)、日本臓器製薬、カッタージャパン(→バイエル薬品)など主だった企業による薬害エイズ事件が引き起こされることとなった。 なお薬害エイズ事件など一連の問題で経営が悪化し、1998年に吉富製薬に合併され(事実上救済合併)、法人格は消滅した。その後三菱ウェルファーマとなり、現在は合併して田辺三菱製薬となっている。 ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 謝金文(男、71歳)の証言 1937年の暮れに、日本軍が南京を占領する前に、家中の者が既に南京を離れ安徽省(あんきしょう)の含山県に避難しました。私は左足が自動車にひかれて傷し変形して、松葉杖を突いているのと、私は大豆のもやしを造るので、家には7部屋のわらぶきの小屋と、木の桶が百余りと、大きなかめが6つあって、看ている必要があり、それで私は行きませんでした。1938年の1月と2月に、私は隣近所の人たち4人が、前後して日本軍に殺害されるのをこの眼で見ました。 1、劉小三子は、殺された時40歳余りでした。彼は豆もやしを造っていて、ある日元々は国民党の倉庫だった所(今の南京刀具廠や内燃機配件二廠の場所)へ食べる米を背負いに戻って行きましたが、その時は倉庫の戸が開いていて、管理している人が無く、劉が倉庫の門を出る時に日本軍に見つかり、日本軍は直ちに劉に向けて一発射撃し、死ななかったので、二発目を撃って殺害しました。 2、郭三債子のわらぶきの家屋が、日本兵に火を放たれて焼け、日本軍が行ってしまったところで、郭がバケツで水を運んで消そうとしましたが、その時に日本軍が振り返って郭三債子が火を消しているのを見、すぐさま郭を押し倒し、銃剣を抜いて郭の顔を一太刀つつき、続いて又身体を数太刀むやみにつついて、その場で郭を井戸のそばに死なせました。日本兵は郭を殺害してから、死体を井戸の中に押し入れました。あの時郭は50歳足らずでした。(肖中煌が記録:明日に続く) |
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2010年07月09日
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