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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) 65年前の8月14日、広島、原爆投下から8日が過ぎた。 長崎に原爆が投下され5日が過ぎた!!この間に多くの人々が死んでいる!! 日本の各都市でも空襲で、焼け野原となり多くの死者を出していた。 また、14日には大阪で空襲があり多くの人が亡くなった!! まだこの日も、国体護持にこだわり、日本政府は降伏の準備に手間取っていた!! 犠牲者がまた、また多くなった!!その責任は一体誰にあったのだろうか? 昭和天皇や軍部・政治家ではないのか? また、満州ではソ連軍が国境を越えて攻めて来て、主力部隊を欠く張り子の虎の関東軍は抗戦できず、それまで威張っていた日本人は大混乱になり、多くの日本人が広い中国を逃げまどい、ある者は両親と生き別れて中国の養父母に育てられたり、着の身着のままで何とか日本に帰国した者、八路軍や国民党軍の兵士になった者、あるいは、開拓団で集団自決した村、発狂した者、1人で自決した者、もちろんソ連軍によって殺された者、捕虜になった者、過酷な状況に置かれ、その後も運命に翻弄された!! 想像しただけでも、恐ろしい光景が浮かぶ! 一方731部隊にはいち早く撤退が命じられた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、マルタは1人残らず殺害され、松花江(しょうかこう)に捨てられ、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収した。 撤収に当たっては、特別列車が用意され、また幹部は飛行機を使ってである!!満州に取り残された他の人たちと比べて、この特別扱いは何だ!!如何にひどいことをしていたかを隠すために!! 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国で、アジア太平洋で行った残虐行為の多くの被害者の方々にも当てはまる!! 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 実戦の被害地 1940(昭和15)年 浙贛(せっかん)鉄道沿線都市 パイロット松本正一証言 731部隊のパイロット松本正一も、1940年の秋にかけての3ヶ月ほど、浙江省の杭州へ出勤を命じられた。このとき航空班からは、増田班長以下班員のおよそ3分の2に当たる20名ほどが参加し、細菌兵器担当の山口班や、憲兵、通訳なども731部隊から杭州へ出向いた。航空班の移動は97式重爆撃機を使い、座席が足りないので座れない者は床に足を抱えて座った。また、97式単発軽爆撃機も出動した。そして、中国国民党が建設した筧橋の飛行学校の跡地を使い、前線基地とした。哈爾浜(ハルピン)からは陸路爆弾や自動車などが到着し、南京の1644部隊からの人員を合わせると、総勢120名が集結した。攻撃地は衢州(チュウジョウ)と寧波(ニンポー)だった。 「衢州作戦」では、1940年の秋頃、単発の97式軽爆撃機で増田班長が操縦し、今村が爆撃手として乗り込んで、2つの箱にペストノミを詰めて装填した。その内の1つは衢州上空で開いてノミを散布し、もう1つは不発で、ノミが入ったまま帰路捨てたと聞いた。このときの失敗を反省して、ノミを詰める箱が改良され、小型にして、形を流線型にした。そして杭州の銭塘江(チェンタンジャン)では、地上に検知板を置いて、地上にどのくらいで到達するかを調べるため、ノミを散布するという実験を88式2型を使って行った。このときは高度300から500メートルという低空飛行だった。松本はその後、効果を調べるということで、現地に行かされた。 ※本格的に細菌戦が出来るかをいろいろ試験していた!!部隊員は人を伝染病に感染させて死なせることに何の抵抗も持たなかったのだろうか?731部隊の組織の中で生きて行くとなると人間の良心は殺さなければならなかった!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 毛徳林(男)の証言 私たちが自動車で校門を出て、中山路を通り新街口へ行く途中、中山路の両側の司法院(今の電業局)の門の所に、死体が3つとか5つとか血の海で倒れているのが見え、すこぶる凄惨な場景でした。口では言えない苦しく悲しい想いでいっぱいでした。それは私が生まれてから見たことのない凶悪残忍な暴虐さでした。車が新街口の円い路の辺まで来ると、樹に死体がつり下がっていて、身体中から血が地面に流れ落ちていました。男も女も老いたのも幼いのもいっぱい、血の海に倒れふしていました。更に又すさまじく見るに忍びなかったのは婦人が1人赤ちゃんを抱いて血溜りで惨死していたのでした。新街口は血の道に成っていたのでした。 車が太平路まで来ると、商店の門がどこもみんな開いているのしか見えませんでした。ある店の広間では、日本兵が木製の家具を壊していて、火を大きく赤々と燃やして暖を取っていましたし、日本軍が歩哨に立ってもいました。それで思い起こされたのが、南京市民で難民区に入り遅れたのが、日本軍に殺されたことで、市内各所の大火は、こんな風に燃え始めたのです。自動車が太平南路の礼拝堂(前の聖公会)と教会の学校に着きました。私と手伝ってくれる若い人が降りて、門をきっちりと閉め、掲示を貼り付けました。けれども東巷の裏門まで行くのに、日本の警官は車に乗ったまま降りて来ません。私たち2人は恐かったのですが、責任はわが身にあるので、行くしかありませんでした。裏門に行ったら、白髪の老人が1人門の敷居の上で殺されていました。私はその人を引きずって行くに忍びず、私たちは2人で死体を抱えてずらし、門をしっかり閉めて、掲示を貼り付けました。(明日に続く:高興祖が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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2010年08月14日
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