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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
実戦の被害地
1941(昭和16年) 湖南省常徳への細菌戦
 1941(昭和16)年前半、日本陸軍は、前年の細菌戦実施の結果をふまえ、攻撃方法や細菌増産のための施設拡充などについて、さまざまな検討を行った。そして、細菌戦再開が決定され、9月16日、陸軍参謀長名の「大陸指(大本営陸軍部作戦司令)」が発令された。目標は湖南省西部の戦略要地常徳で、目的はペストの流行による国民党軍への交通路遮断であった。
この時点で大本営作戦課に転じていた井本熊男中佐の業務日誌11月25日には、常徳へのペストノミ撒布攻撃について、「11月4日朝『アワ』36キログラムを撒布、操縦士は増田(美保)少佐、片方の開函が不十分なので、洞庭湖上に落とす」「11月20日頃 猛烈な『ペスト』の流行で各戦区から衛生材料を収集している。命中すれば発病は確実との判断が出来る」などの記述がある。
731部隊のパイロット松本正一は、この年(昭和16年)も秋から翌年にかけて、6か月ほどのあいだ南京勤務となる。このときは、松本の所属する航空班からは30人以上が出動し、ほかに山口班からも、実戦専門の技術者がかなりの人数参加した。航空班の97式単発重爆撃機、双発重爆撃機、同じく97式の双発軽爆撃機などが南京に出動した。また、南京の1644部隊からも人が出て合流し、合計は100名を越えていた。
南京の飛行場には当時、97式重爆機が3機、AT(軽爆撃機)、それに呑龍(重爆機)があった。南京にいる間に、松本の知る限りでは2回の細菌攻撃が行われた。哈爾浜(ハルピン)から搬送されたノミをペスト菌で汚染して、常徳の上空200メートルから散布したと聞いている。
※多くの技術者や医学者?が参加したものだ!!人を病気に感染させるとは何とも恐いものだ!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
毛徳林(男)の証言
 難民区は南京に留まった外国の人たちの代表が日本軍の司令部の同意を取ってからできたのです。準備の時が詰まっていて、難民区に来た難民がとても多く、学生寮の甲乙丙丁戊己庚辛の各楼と教室や体育館並びに新しく建てた図書館など、全部空っぽにして、難民を収容しました。あらゆるベッドや机いす等など全部壊して撤去し、より多くの人を収容できるようにしました。けれども難民はほんとに余りにも多く、うんと短い時間に全部いっぱいになってしまったのです。後から来たのは外に野宿するしかなく、ほんとにどうしようもありませんでした。その時は、南京の水道と電気が全部停まってしまったので、飲む水を難民に供給するために、私たちは色々方法を講じて、以前のあらゆる自然に流れ出て来る井戸をみんな使って水を取りましたが、人力で水を取るのでは量に限りがありました。大小便も問題で、葦ずを探して来て小屋にかけたり、溝を掘ったりして急場をしのぎました。それに火の気にも気をつけなければなりませんでした。事が多くて人は少なく、対応するのに非常に大変でした。(明日に続く:高興祖が記録) 

●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

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