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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 第三章 新しい証言者と新資料の出現 昭和天皇死去・「731部隊展」以降 連合軍に対する細菌戦 サイパン島守備隊が全滅したのは1944年7月7日、東条内閣総辞職は18日だが、この時点で陸軍中央は、再度アメリカ軍に対する細菌攻撃を検討する。西部ニューギニアに近いビアク島とサイパン島を目標としており、提案者は神林医務局長だった(「大塚備忘録」)。 グアム島などの奪回にもペスト菌を使った細菌戦が検討され、22日には参謀会議で実行が決断される。杉山陸軍大臣、秦参謀次長、神林医務局長のあいだで、「特攻作戦においては戦闘員と非戦闘員の区別は不可能、敵も味方も玉砕となる」などのやり取りが記録されている。また細菌戦の実施は天皇には秘密とし、「御下問」あればサイパン、グアム奪回のためには、やむを得ないと答えるという意思統一を打ち合わせている。しかしこの計画は天皇の知るところとなり、中止命令が出て実現しなかったと言われている。それはまた、天皇が実質的にそれだけの、決定権と発言力を持っていたということでもある。 ※当時の軍の方針に医務局長の発言が大きな影響を与えていたとは、これも731部隊の賜物か?戦後、731部隊の罪業がなかなか世に出なかったのは、もちろん、京大や東大の医学部連中が必死に隠ぺいしたからではないかと思う。軍も政府も証拠隠滅に必死だった。 また、天皇が作戦の1つ1つに実質的にかかわり、その決定権や発言力は絶大だったことがよく分かる。天皇は積極的にあの戦争にかかわっていた!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 韓湘淋(男)の証言 およそ1か月ほどしたら、日本の憲兵が南京でビラをまいて、皇軍がこんな風によくあんな風にいいんだと宣伝していましたが、彼らは国際救済委員会をすこぶる嫌がっていました。彼らは口実を設けて人員整理をし、全ての人に登録させようとしました。難民区の中でペテンにかけて、およそ兵隊になったことのある者や、よそから来ている者で、自分から立ち上がる者には、やれる仕事があると言いました。またおどかして、立ち上がらない者は、銃殺してしまうと言いました。結局1人1人検査し、年齢や手や肩や帽子や衣服の大小などを見ました。たくさんの人が引っ張り出されて行き殺害されたのです。覚えていますが、上海路から五台山まで、敵は「良民証」を発行するという名の下に、中国人を4列に並べて検査を行い、疑わしいのは直ちにもう1列の方に分けて、トラックに積んで行って集団的に虐殺しました。 南京が陥落して1か月しない頃に、一度日本兵が小粉橋1号にやって来て、金を欲しがりホアクーニャン(=若い娘)を欲しがりました。その時囲いの塀の中には難民が300余りいました。それに一度は、日本兵が気狂いのように門をたたき、たたき方がとても酷く、銃剣で突っついて穴が2つ開いたほどでした。しばらくして、門を開けるしかなく、日本軍が4、5人入ってきましたが、その中には将校もいました。日本兵の1人が一方の手に包を1つ持ち、もう一方に銃剣を握っていましたが、包の中は女の人のハイヒール1足で、刃にはまだ血がついていました。私たちは気を失ってしまいました。続いて、身体検査でした。まさぐられて財布を持って行かれ、彼らはやっと離れて行きました。(以上:高興祖が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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