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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!! 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 被害地への旅 商業港 寧波(ニンポー) ここでは私が、直接取材する機会を得たケースを中心に、被害地・被害実態について述べたいと思う。 1997年5月、私は弁護団の中心メンバーである一瀬敬一郎弁護士と、訴状執筆員の一員であり、原告団証人でもある慶応義塾大学の松村教授の、提訴直前の調査旅行に同行した。この旅は私にとって、初めての中国だった。近くて遠いこの国の人間と文化を直接感じ、広大な国土、膨大な人口、あふれるエネルギーと活気に、圧倒される思いだった。そして中国はまぎれもない日本文化のルーツであり、2度と戦火を交えてはいいはずのない国だというのが実感だった。 寧波(ニンポー)は、東シナ海に注ぐ甬江(ヨウコウ)の河口にある港町である。 天然の良港で、日本人遣唐使も800年代にはこの街を上陸の第1歩としたといい、古くは「甬城」と呼ばれていた。日本では読める人が少ない、私の名前の「甬」の字に出会って変に感動した。小学校に入学した時、机にも、靴袋をかける釘の所にも「にしさとふよこ」となっていて、1年間嫌な思いをした。今になって初めて、先生が辞書を引いたから「よ」となってしまったので、辞書に載っていない、無理な読ませ方をした私の父が悪いのだと納得した。 そして、私たちの泊っているホテルに、市内に住む被害者の遺族や、被害者本人が訪ねて来てくれた。ホテルの会議室で、寧波市人民政府外事弁公室の日本担当官を通訳に、半日かけて聞き取り調査をした。 ※戦後50年を過ぎてからの聞き取りである。どんな言葉が聞けたのだろうか?強烈な体験であったから忘れることはないだろう!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 陸洪福(男、60歳)の証言 私は陸洪福といい、1937年の12月13日に日本軍が入って間もなく、その年私は13歳で、避難しに家中の人について華僑路の服装廠難民所に入って住まいました。その時日本軍は大通りの至る所で焼き殺し犯しかすめるので、ラオパーイシン(=庶民)は恐がって、みんな華僑路の難民所に逃げ込み、そこは一時ぎっしりで1万人以上にもなりました。ある日日本兵がいっぱいやって来て銃を両手で突き出し、男をグランドに追いやり、女を別の所に駆り立てました。私は父の陸漢州や上の兄の陸殿青とそれに弟や甥など8人について、一緒にグランドに駆り立てられました。日本軍は1人1人検査し、坊主頭と見ると横にけり出し、中央軍だと疑いました。その時1人30歳余りの男の人で、既にグランドに来ていたのが、しばらくして誰かを探しに戻って行きました。日本軍がその人が逃げようとしていると思い、発砲して射撃したので、男の人は驚いて、人の群れに逃げ込み、日本兵がワーワーとやたらに叫んでいるのが聞こえるだけでしたが、日本兵が何人か駆けつけて来て、その場で銃剣でその男の人を突っつき殺しました。 何日かして、難民所の入口で遊んでいると、日本軍が馬に乗って華僑路を通り、14、5歳の男の子から落花生を買って食べました。日本軍は買って、硬貨を1つやりましたが、穴が開いていて、男の子は受け取ろうとはしませんでした。日本軍は一喝の下に、さっとサーベルを抜いて、男の子の頭を斬り落とし、血がいっぱい流れて、ほんとに見るに忍びないすさまじさでした。(劉君が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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2010年08月20日
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