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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
被害地への旅
商業港 寧波(ニンポー)

 寧波 開明街(カイミンジュ) 元泰酒店 何祺綏(ホーチーソイ)と銭貴法(チェングォイファ)の証言
 それまで一度もペストが発生した記録の無いこの街で、1940年10月下旬、突然ペスト患者が続出した。最初の患者は、人口密集地で商店が並ぶ開明街(カイミンジェ)からだった。原告の1人である何祺綏(ホーチーソイ)の父は、開明街で元秦酒店という食堂を経営していた。元秦酒店は、何には叔父にあたる、父の4番目の弟で会計係だった何福林(ホーフーリン)とほかの使用人も入れて、18人を抱える大世帯だった。
 1940年10月27日、10歳だった何は、学校からの帰り道の午後2時頃、自宅にほど近い開明街を歩いていた。その時胴体に赤い日の丸をつけた日本軍の飛行機が低空で飛んできて、オレンジ色の粉のようなものをまいてゆくのを見た。同じ時間、何の父の店は昼食の時間だった。
 以下の原告の1人で、元秦酒店の使用人だった銭貴法(チェングォイファ)の証言である。銭はペストに感染して、隔離病棟に運ばれながら生還した、寧波でたった1人の生き証人である。彼は当時14歳で、身寄りのない浮浪児だったが、元秦酒店に物乞いに来ていたのを、食事を与える代わりに店の掃除や出前などをさせて養ってもらっていたという。何によれば、銭が感染しながら生き残ったのは、浮浪児だった路上生活の経験から、細菌に対する抵抗力が普通の人より強かったからだという。私が会った時、銭は69歳、贅肉のない引き締まった顔つきで、美しい青色の人民服を着ていた。
※ペストという恐ろしい伝染病に感染した者はたくさんいたが、生き残った者は少なかった。貴重な証言であると思う。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
陳炎森(男、74歳)の証言
 1937年の12月13日に日本軍が入って来た時、私が住んでいたのは莫乾路7号の階上でした。日本軍が入って来て一週間足らずの、ある日の午前8時か9時頃に、私は階下の通りで卍字会の警官が1人日本軍に呼び止められているのを階上からこの眼で見ました。その時警官が日本軍を見かけた時は、日本軍に敬礼していたのに、その後日本軍に一喝され、地にひざまずかせられ、その日本軍は背後に回り、銃剣で一太刀突っついたのですが、その警官はその時は倒れながらも死にはしませんでした。明くる日、まだ息はしているのを見ましたが、3日目に死にました。(陳家栄が記録)

●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

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