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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
被害地への旅
商業港 寧波(ニンポー)

(証言)
 痙攣して、体をエビのように曲げてベッドから落ちて死んだ人もいた。目の玉が飛び出している人もいた。みんな共通なのは、体が赤く腫れたり、黒くなって死んだことだ。1つの棺桶に2つの死体が入れられたのを見た。それは地獄のようなありさまだった。ある日、意識不明になった私は棺桶に入れられたが、足が動いたのでまだ生きているということで出されたということだ。
 11月の末になって、開明街一帯が防疫のため焼かれることになり、生き残っていた私と陳坊さんの2人が、童考子廟の隔離病院に移された。そこには4人の医師が住み込んで働いていた。治療は毎日脈をとり、薬を飲み、熱を計った。私はこぶし大に腫れた右足の付け根のリンパ節の手術をしてもらった。真っ黒な血とウミが出て、しばらくは歩けませんでした。結局そこに収容された5人の内、生き残ったのは私1人でした。

 哀しかったのは、この日ホテルに来てくれた、何福林の未亡人付仁娟(フーレンジュアン)の話だった。おかっぱ頭の気弱そうな老女は、血のつながらない甥の何祺綏に伴われてやってきた。彼女は当時23歳、何福林と結婚して1年もたっていなかったが、戦時下ということもあって、彼女は寧波から40キロほど西の、紹興酒で有名な紹興に住んでいた。何福林がペストに感染して急死すると、何福林の父のところに電報が届いた。字の読めない彼女は電報の文面は分からなかったが、夫がペストにかかって死んだと聞かされ、驚きと悲しみで自殺してしまいたいと思ったという。
※それにしても、銭貴法はよく生き残ったものだ。よほど、抵抗力があったに違いない!!
また、多くの人がペストで死ぬと、残された者は、悲しみにくれ、憂鬱な気分になるのだろう!!特に、一家の大黒柱を失った者には、精神的なダメージが大きかったろう!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
袁巧仙(女、68歳)の証言
 私は名前を袁巧仙といい、前から上浮橋11号に住んでいました。日本軍が南京を占領した明くる日のことですが、私には李という親戚(姪の夫の父親で、陡門橋に住んでいた)があり、その老夫婦と息子さんとお嫁さんとの4人が家にいて、自分たちで掘った防空壕に隠れていました。日本軍が来て戸をたたき、李が恐くて、戸を開けるのが少し遅れたら、日本軍にお腹を2太刀突っつかれ、李のその時のすさまじい叫びで、4番目の息子(名前ははっきり覚えていない)が防空壕から走り出て来てみると、父親が地に倒れていて、逃げようとしたのが間に合わずに、日本軍に1太刀突っつかれ、すぐ又1発撃たれて、その場で撃ち殺されました。後に日本軍が民心を安定させ、私が李の家のお婆さんを見舞いに陡門橋まで行ったら、お婆さんが私に言うのに、自分自身も4番目の子の嫁も日本軍に踏みつけにされたのでした。(劉君が記録)

●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

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