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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!! 「No more war!!」 武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去! 「怨」 きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び! 「日の丸」・「君が代」反対!! (侵略のシンボル)(天皇賛美の歌) 新しい日本!! 「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」 (昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。) (時効なき戦争責任・戦争犯罪) 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!! 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ ●731部隊 『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪) 西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行 被害地への旅 衢州ー義烏 恐怖の伝播 日本軍が撒布したペストノミによる1940年の寧波ペスト禍は、地方当局の迅速な防疫措置によって終息し、周辺への伝播も食い止められた。しかし、寧波に先だって、細菌戦部隊がペストノミ撒布を初めて実戦で試みた衢県は、いくつかの悪条件が重なって、周辺地へペストを伝播させる最悪の結果となった。衢州は、浙江省から江西省につながる戦略上の要地であり、水陸の交通の要地でもあり、浙贛鉄道と自動車道路が県内を貫いている。 1935年、国民党政府は衢州城東に衢州飛行場を建設、中国東南部にあった最大の軍用飛行場として、国民党空軍主力部隊が麗水、玉山、建甌などの飛行場を管轄していた。衢州付近には、他にも軍事施設が建設され、常に一個大隊もの大軍が駐屯していた。そのため、衢州は終始、日本軍の細菌戦の主要な攻撃目標の1つとなった。 1940年10月4日早朝5時、日本軍機が1機、衢州城内柴家巷(ツアイジャーシアン)付近を低空で旋回し、屋根をかすめて飛び去った。その後、柴家巷一帯で、麦、黒麦、アワ、そしてノミが大量に発見されたという。その17日後、衢州城内では大量のネズミの死骸が発見され、11月に入ると、日本軍機がノミを撒布した地点で、突然ヒトペストが爆発的流行を見せる。11月末までに患者25人中24人の死者を出したが、衢州防疫委員会の防疫活動が効を奏して、いったん終息したかに見えた。しかし、厳重な防疫措置を取るのが遅れたため、ネズミ類のあいだに流行が始まっていたのだった。 ※戦争ともなれば相手を倒すために手段を選ばなかった!!細菌戦もその1例だろう。 伝染病を蔓延させて、相手を倒すことは、その当時の軍の正式な命令によって行われた。 ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! 2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 目撃された虐殺の凄まじさ 馬佩栄(男、66歳)の証言 1937年に日本軍が南京に入り込みましたが、その時私はやっと18歳で、日本軍に捕まって行き飯を作らされました。一度、私は日本軍に捕まって来た男子が1人、3、40歳前後でしたが、日本軍に牛の皮をはがさせられて、はげないでいるのをこの眼で見ました。日本軍は刀を持ち、その人の首の後ろを切断し始め、首の一番後ろに筋が一本残るところまで切り、頭が垂れ下がって来て、それから銃で撃ち殺したので、何とも残忍な事でした。 私には甥が2人いて、その時上海路の難民区に住まっていましたが、日本軍が人を捕まえて行き、年の若い2人が、手にたこがあり、頭に帽子の痕があるのを見て、中国兵だと言い、その場で日本軍に撃ち殺されました。(張登鳳と田梅が記録) ●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。 当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!! マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか? そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。 上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。 |
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2010年08月31日
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