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1938年3月10日 南京では日本軍の虐殺が続いていた!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!

●東京大空襲
3月10日に東京に大空襲があった!!
 日本軍は、中国の南京や重慶その他の都市で無差別空襲や毒ガス戦、細菌戦など残虐な戦闘をしていた。太平洋戦争勃発後、それまでの中国戦線の様子を見ていたアメリカは、日本の各都市を空襲するようになった。最初は軍事施設を目標にしたが、その後、無差別爆撃になってしまった。そして、陸軍中央・天皇が国体護持にこだわって降伏を遅らせたために、2発の原爆が投下されてしまった!!アメリカは、最初は正義の味方のように振舞ったが、その内戦争の魅力にとりつかれたのか、無差別空襲や原爆投下、果ては細菌戦のデータを日本から安い値段で買い取り、そして、自国の細菌兵器の開発に活用し、実戦してしまった。その後のアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争と戦いを続けている。地球が壊れなければいいのだが!!

「ウキペディア」より
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である。

東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に被害を与えた空爆である。

戦争犯罪
これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし、日本国政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

ところが、東京オリンピックから2ヶ月後の1964年12月7日に、日本国政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したルメイに対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。これには、遺族からは勿論、左右両陣営からも批判の声が出た。しかし、真珠湾攻撃に大きく関わった参議院議員で元航空幕僚長の源田実は、当時この勲章授与を賞讃した。なお、源田はこれに先立ち、アメリカ合衆国政府から勲功章を受けている。これを以って、日米両国政府が真珠湾攻撃と日本本土空襲の責任者を相互免責し、日米同盟の強化を図ったとする見方もある。なお勲一等に叙する勲章は本来、授与に当たって直接天皇から渡される(天皇親授)のが通例であるが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。ちなみに東京大空襲は昭和天皇の初孫の東久邇信彦が災難の中で防空壕で誕生した日であり、さらに皇居も空襲を受け、赤坂御苑内にある各宮邸が災害を受け、大宮御所や明治宮殿までもが全焼した。

ルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者であったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ合衆国大統領たちの選択であったと言ってよい。

東京大空襲訴訟 :詳細は「東京大空襲訴訟」を参照
大空襲から62年が経過した2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)が、日本政府に対して謝罪および総額12億3200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴した。空襲による民間の被害者が集団となって国に責任を問うのは初めて。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃であったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。

●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
命令、満州第731部隊ニ転属ヲ命ズ
 私は、明治43年に東京で生まれた。昭和13年4月に千葉医科大学を卒業すると、そのまま母校の研究室に残った。専門は皮膚泌尿器科である。
 昭和16年4月、私は召集令状を受け取り、満州へ赴いた。衛生部見習士官として、ハルピンにあった関東軍第28師団第3野戦病院付を命ぜられたのである。
 翌昭和17年、陸軍軍医少尉に任官すると、ハルピン郊外孫家屯にあった満州第379部隊(第28師団山砲連隊)第3大隊付軍医となった。3000人からの兵士たちの傷病の手当てをするのである。
 昭和19年になると、満州各地の関東軍から、続々と部隊が南方戦線へ抽出されていった。7月、私の部隊にも命令が下った。沖縄石垣島の守備を命ず、というものであった。
 この年の4月、軍医中尉となっていた私は、ハルピン在住の女性と結婚したばかりであったが、いよいよこれで玉砕か、と密かに覚悟を決めざるを得なかった。
 部隊が南下して、朝鮮の釜山に着き、これから乗船という時になって、1通の電報が私を追いかけるようにして、届いた。
「命令、満州第731部隊ニ転属ヲ命ズ」―関東軍命令であった。正直言って、命拾いをしたという思いがあった(なお、石垣島に渡った山砲連隊は、幸いにして戦闘が回避され、昭和21年に全員無事に復員した)。
 ハルピンの野戦病院にいた私は、もちろん、731部隊が、生体実験を行ない、細菌戦の研究に従事していることは、承知していた。
※この人は満州に渡ってから、野戦病院に配属になり、見習士官から出世?していくが、野戦病院ではどのようなことが行なわれていたかの記述がない。本当に傷病の手当てだけだったのだろうか?死体解剖や生体解剖はしなかったのであろうか?

寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)〜"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
6、被害同胞の屍体埋葬作業に参加した者の証言
戴渙高(男、91歳)の証言
 1937年に日本軍が南京を占領した時、家は二道○子で、あの時は割に寒くて、綿入れを着ていました。日本兵何人かがある日家に闖入して来て、私を連行し、向かいの野菜畑の窪んだ穴まで行き、藁を運んで来させて日本軍に殺された中国人3人の遺体の上に組み立てさせ、火をつけて燃やしました。それから又私と若い人6名とに命じて、死体を2つ抱えて賽紅橋まで運ばせました。戻って来る途中、鴨子塘(今の涵洞口)を通った時に、日本兵の一隊に行き逢い、止められて捜査され、1人が突然銃剣の先っぽで私のバンドを掻き切り、又も捜査しましたが、青年6名は捕まって行ってから行方不明です。それから、又私にその場で殺されたラオパーイシン(老百姓=全くの庶民、ごく普通の人々)4人を埋めさせようとしたのを、私は隙に乗じて逃げ出しましたが、恐くて家には帰れず、圩の中で何日か隠れていたのです。
 北頭にあるグランド(大建鋸木廠)が、その時は日本軍の人を殺す場所でした。私はこの眼で見ましたが、機関銃でラオパーイシンを大量に殺し、ある時は百人もの人を殺したのを見ましたし、毎日城内の難民区から車で死体を二道○子の醤油廠(今の南糧船廠)に運んで、醤油の池の中に抛り込んだのですが、それはみんな日本兵が運んだのでした。もう一度は、又私を捕まえ、ラオパーイシンに家に帰るよう私に叫ばせ、家屋は焼かずに、工場と兵の工場の建物を焼くだけだと言わせたのですが、何人かが帰って来たら、民家が焼かれ、それにラオパーイシンには逃げ出すのを許さず、逃げ出した人は、みんな銃剣で突っつき殺されました。(左国家が記録)

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