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(私の別ブログからの転載です 8月6日の記載です)
今「生きろ」というTVドラマを見つつこれを書いています。
以前私のブログで少しご紹介した「島田叡」知事のお話です。島田知事は大変な人格者で、沖縄県民の為に粉骨砕身され、沖縄戦の中で散華されました。
しかし、知事の御遺骨は今も見つかっておりません。責任感のお強かった島田知事ですからきっと、沖縄の地に眠る多くの戦没者の御遺骨が集骨される日が来るまで、出てはいらっしゃらないのかもしれません。
知事は、いよいよ米軍が上陸し戦場となった時女学生の挺身隊(看護隊)の二人ほどが水を組んで重たい桶をもち、坂を上ってきました。足場が悪く滑ります。しかも狭い。
すると向こうから島田知事がやってきてその水に入った桶を二人から取り上げるとそのまま坂の上まで登って行ってくれました。突然のことで言葉もない女学生を後にして知事はその場を去って行きました。感激した女学生は担当教諭にこの話をして感涙にむせびました。
すると教諭は「馬鹿もの、戦争中だぞ。泣く奴が居るか」と言ってこれも感涙にむせんだのです。
また、いよいよ沖縄線が激しくなり追い詰められたころある朝県庁の女子職員が清水を汲んできて知事に「これでご洗顔を」と洗面器を差し出しました。
知事は、その水を使ったのでしょうか。
いいえ、島田知事は「お前さんが命がけで汲んで来た水で顔なんか洗えるかい」と言って自分は雨水で手拭いを浸してそれで顔を拭かれたそうです。
島田知事・・・前任の沖縄県知事が出張を口実にして沖縄に帰らなかったので急きょ、白羽の矢を立てられ沖縄に赴任し、そしてあの激しい戦いの中で散華されたひと。
沖縄県民、いや、日本人全体が島田叡知事の御遺徳をしのんでほしいものです。沖縄県民を大切に思い、そしてその心に殉じて言った島田知事。
もっともっと、知られていいお人です。
そして昨日は広島原爆祈念の日でしたね。
この日を迎えていつも思い出すのは今から20数年前のある新聞の一面の「平和祈念式」の写真です。新聞にはよく平和の火を後ろから撮った写真が載りますがその日の新聞(正確には6日夕刊です)もそのアングルからの一枚でした。
何気なく見ていたのですが何か・・・感じまして良く見ますとその大きな炎の中に数体の「ひと」の姿が浮かんでいました。
正面向いた男性の姿一体、子供を抱いた女性らしき人一体、そのほか数体の「ひと」の姿。きっとあの原爆で亡くなった人の魂が写真に写り込んだのだと思いました。
あの日、一瞬のうちに亡くなった人が多かったでしょう。もしかしたら今も自分が死んだということを御理解できない御霊もあるかもしれません。だとしたら・・・なんと残酷なことでしょう。長崎でもきっと同じなのでしょう。
その御霊、安らかにと願うばかりです。
以前TVで聞いた被爆体験者の話に、学校が爆風でつぶれ、生徒が多数下敷きになった。が人手もなければ重機もない状態で助けることが出来ない。火が段々回ってくる・・・と涙にぬれた顔をその人に向けた少年が言ったそうです。
「おじさん、かたきを取って下さいね」
少年は火に包まれて行きました。少年の無念を思うと胸がつぶれる思いです。かたきを取ってね、と言って死んでいった少年に、応える術を今の私たちは持っているのでしょうか。
かたきを取る。
それは何も、アメリカに同じことをしてやるというのではないですね。あの当時なら、「アメリカにもこの爆弾を」と思ったでしょう。が今は違います。
私はアメリカにこの原爆の真実の姿をしっかり見せて、「あなた方のしたことは非人道的なことだ。これを以てあの戦争を早く終息させるためにしたという言い訳は通らない。過ちは素直に認めて、この先の世界に核兵器が三度使われないようにしてほしい」と、きちんとした謝罪を引き出すことが我々の時代における「かたきを取る」ということではないかと思いました。
戦争は「悲惨」です。それは当り前です。
でもただ「悲惨」だと言うだけでは戦争の本質を見失うことにもなります。
その中にそっと光る『人々の勇気』『国を思う心』などを見出したいと思います。極限状態にありながらも、人々は懸命に生き、生きようと努力した。
その「人」としての力を見てゆきたいと思うのです。
明後日九日は長崎原爆の日。
高校の修学旅行で訪ねた長崎を思い出しています。
長崎も広島も訪れました。沖縄にはまだ行っておりません。いつの日か沖縄を訪問し、戦跡を訪ね散華なさった英霊たちの声を聞いてきたい。
そう思う8月です。
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