桜のためいき

日本と帝国海軍大好きな人間のつぶやきです。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全20ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

ことのほか寒かった平成二六年の冬も、関東周辺ではそろそろ終焉なのだろうか。
待ちにまった桜が咲き始めて心嬉しい日々である。出来るなら花をめでに行きたいものだが仕事がある身であるからそうもゆかぬ、今年は六日に九段へ桜を拝みに行くつもりである。その日まで散らないで待っていてほしいと切に思う。
そういえばその頃には九段周辺だけでなく各地の桜の名所で花見がにぎやかに行われることだろう。すでに行われている場所もあると聞き及ぶ。どうかマナーを守って良い思い出にしてほしいと願うばかり。
私自身はそれほど酒も飲めないし、大騒ぎする花見は好きではない。
以前建て替えをする前の家では、棟続きの叔父の家の前に大きな桜の木が植わっていて春になるたび素晴らしい花をたくさんつけて、私はこどもたちと自家用トラックの荷台に、『花見弁当』を作ってあがり桜を見ながら楽しく食べたことを懐かしく思いだす。
その桜の樹は、叔父の家の解体および駐車場にするために切られてしまった。が、その枝が駐車場の隅に植えられてそれがずいぶん大きくなって今年も花をつけた。
その一部を手折ってきてコップに差し、『大和』他の人形の前に供えた。
 
内地の桜です。
今年も立派な花をつけましたよ。
 
呼べど答えぬ英霊たちにそっと口の中で呟きささげる二枝の桜はまだつぼみ。しかし間もなく開き始めるだろう。その日が楽しみである。
 
私がいわゆる花見が好きでない、気が進まない理由の一つが以前読んだ本に書かれていた光景が嫌でも脳裏をよぎるからで、それはかの『菊水作戦』で出撃し奇跡の生還を遂げた『雪風』他の駆逐艦の艦上の話。
戦死者が一人もいない艦は「初霜」くらいなもので他の残存駆逐艦は数名以上の犠牲者を出している。その中の一つの艦の甲板に戦死者が並べられている。
艦は内地に戻ってきたが敗戦の痛手をこうむり皆押し黙っている。艦には救助された『大和』他の将兵たちも乗っている。
佐世保に入港する艦、その将兵の目に爛漫の花を咲かせた桜が見えてきた。折からの春風に吹かれてその花びらが艦にまで舞ってくる。優しい桜色の花びらは優しく傷ついた将兵たちの肩に舞い降りたのだろう。ある将兵の目に、甲板に寝かされている戦死者の顔や体にその桜の花びらが舞い降りるのが見えた。
血に染んだ物言わぬ将兵の体を飾る桜の花弁。
その将兵はあふれる涙を抑えられなかったという。
 
また別の艦上。
同じく佐世保に入港する駆逐艦上から満開の桜を見た兵が「櫻が、櫻なんかが咲いてやがる。俺たちが血みどろの戦いをして戦友をたくさん死なせたのに!」と叫んで甲板上を走り回ったという。
その兵隊の心内はいかばかりだったのだろうか。簡単に推し測ることはできないが、決死の覚悟で出撃し、戦友たちの無残な死を目の当たりにしてきた彼にとって、生きて帰った内地では桜が何事もなかったかのように咲いて人々も(当然ながら)彼らのむごい戦いなど知る由もなく生活を送っている。その落差がどうにもたまらなかったのではないか。
その時、桜という花は彼らにとっては<自分たちの凄惨な戦い>と<それを知らない者たち>の埋めようもない溝の間にまたがる存在だったのかもしれない。
 
そんな話を読んだためか私は、大騒ぎの花見はしない。出来ない。
桜を見ると必ず、その話を思い出す。「櫻なんかが」と叫んだ兵は戦後、櫻をどう見たのだろうか。そして――桜の花びらをまとって永遠の眠りについていた将兵は今、この<平和>な日本の桜をどう見ているのだろうか。
 
              ・・・・・・・・・・・・・・・
家の裏に植わっているかつての桜の名残の一枝です。
「私の神棚」と呼んでいる『大和』『武蔵』『回天』他の人形が飾ってある所に置いてみました。私なりの御供養です。
イメージ 1
 

はたちに思う。

今日(一月一二日)、遅まきながら靖国神社に初詣に行きました。ちょっと風邪気味で喉が昨晩から痛かったのですがそれくらいなんだというわけでGO!
 
久々の靖国神社、今日はまだ初詣の続きみたいな感じでけっこうな人出がありました。ですがめげずに拝殿に手を合わせ、日本の安全や我が拙ブログにいらして下さる皆さまの弥栄をお祈りして、遊就館に入ります。
 
いつものように人をかき分け見て行ったのですが、今回ある人のご遺書を読んだ時なんだか思い切り泣きたくなってしまいました。このご遺書は普段もよく読んでいるのですが直筆の便箋を目にしたとたんなんだか一気に眼がしらが熱くなり、その場に誰もいなかったなら思いっきり泣きたいくらいの衝動にかられました。
その遺書の主は「水知創一(みずち そういち)」さん。
彼は早稲田大学出身の二一歳、昭和二〇年七月一六日回天特別攻撃隊轟隊の一員としてマリアナ東方海域で散華なさいました。
その遺書となった手紙はお父様あてとお母様あてがあるのですがそのうちのお母様あてのもの――(以前にご紹介したかもしれませんが改めて)
 
母上様
横浜で途中空襲警報発令され一度下車しましたが、何等の被害もなく無事帰還しましたから御安心下さい。
今度は短い休暇でしたが、皆様の御元気な御顔を見てほんとに安心しました。
車中で母上から戴いたものを拝見しました。
私の様な不孝者をあんなに迄想って下さり、ほんとに有難う御座います。私こそ身はたとへくちるとも、永遠に母上を御守りします。私に万一の事がありましても、決して髪等切らず笑っていて下さい。昭子始め弟妹が可愛そうです。まだまだ慎二も居ることだし、もっともっと気を強くもって呑気に御暮し下さい。昭子もそろそろ良い御婿さんでも貰って早く落ち着かせた方がよいと思います。
私の母上への御願いは、朗かに呑気に暮らして戴きたいことです。
話は別ですが、御弁当はとてもおいしくあれならもっと沢山作ってもらえば良かったと思いました。
                                           創一
 
御自分の必死の出撃行を前にしたためられた手紙には「回天」の「か」の字も出てこないしそういったことをうかがわせる雰囲気もないですが何かある種の切羽詰まったものを感じさせます。が、この手紙の最後の一行を読んだ時たとえようもない可笑しさと愛しさと可愛らしさ・・・さまざまな感情が交錯し私は大泣きしたい感情に駆られてしまいました。
母の行く末、兄弟のこれからを心配しながら書きつけた手紙、でも彼は手紙の最後に母の作ってくれた弁当がいかにおいしかったか、そしてもっと沢山作ってもらうべきだったなあ、ああ失敗したあという茶目っ気たっぷりな言葉を残しました。 
きっと食糧事情の悪い時のこと、自分一人にたくさん持たしてもらうのでは弟や妹に申し訳ないから私は少しでいいよ、という配慮があったのかもしれません。でも食べてみてその美味さに「もっと作ってもらえばよかったあ」と残念がっている水知さんの姿が目に浮かぶのです。
そんな――無邪気な子供のような彼がそのあと「回天」を駆って敵船団に突っ込んでゆき文字通りの散華をした・・・そのあまりの落差に悲しさを抑えきれません。
 
そしてもうひと方、回天搭乗員「塚本太郎(つかもと たろう・二二歳)」さんのこのお言葉は靖国神社・遊就館と、広島県呉市「大和ミュージアム」に実際の彼の声で聞くことができます。
父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さやうなら。
本当にありがたう。こんな我ままものを、よくもまあほんとうにありがたう。僕はもっともっと、いつまでも皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。春は春風は都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれてる。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのはだれだったかしら。行きが降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいよなあ。
かうやって皆と愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思ふんだ。
日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間、受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。
    (略)
至尊の御命令である日本人の血が湧く。永遠に栄えあれ祖国日本。
みなさんさやうなら――元気で征きます。
昭和一八年一二月十日
 
彼もまた懐かしい子供時代を回想する優しい兄も文末近くでは一転、国を心底憂うる青年に変わっています。
どちらも本当の彼の姿なのだと思います。先ほどの水知さんも、この塚本さんも親兄弟の前では無邪気で優しい子供であり兄でいたいというのは本当の心。でも国を挙げての戦争の秋国を守る男子としての気概もまた本当の心。
その本当の二つの心に、私は深い感銘とそして同じくらいの愛しさを覚えるのです。家族と故郷を愛しそして国を愛する。
今ではどちらもないがしろにされがちなその二つを必死で守ろうとわが身を投げだした彼ら若人。
その崇高な精神を、私たちは忘れてはなりませんね。
今回の参拝は、成人を迎えた娘と、もう七〇年以上前に二十歳だった今は亡き――若い人とを重ね合わせた思いの深いものとなりました。
(私の別ブログからの転載です 8月6日の記載です)
 
今「生きろ」というTVドラマを見つつこれを書いています。
以前私のブログで少しご紹介した「島田叡」知事のお話です。島田知事は大変な人格者で、沖縄県民の為に粉骨砕身され、沖縄戦の中で散華されました。
しかし、知事の御遺骨は今も見つかっておりません。責任感のお強かった島田知事ですからきっと、沖縄の地に眠る多くの戦没者の御遺骨が集骨される日が来るまで、出てはいらっしゃらないのかもしれません。
知事は、いよいよ米軍が上陸し戦場となった時女学生の挺身隊(看護隊)の二人ほどが水を組んで重たい桶をもち、坂を上ってきました。足場が悪く滑ります。しかも狭い。
すると向こうから島田知事がやってきてその水に入った桶を二人から取り上げるとそのまま坂の上まで登って行ってくれました。突然のことで言葉もない女学生を後にして知事はその場を去って行きました。感激した女学生は担当教諭にこの話をして感涙にむせびました。
すると教諭は「馬鹿もの、戦争中だぞ。泣く奴が居るか」と言ってこれも感涙にむせんだのです。
また、いよいよ沖縄線が激しくなり追い詰められたころある朝県庁の女子職員が清水を汲んできて知事に「これでご洗顔を」と洗面器を差し出しました。
知事は、その水を使ったのでしょうか。
いいえ、島田知事は「お前さんが命がけで汲んで来た水で顔なんか洗えるかい」と言って自分は雨水で手拭いを浸してそれで顔を拭かれたそうです。
島田知事・・・前任の沖縄県知事が出張を口実にして沖縄に帰らなかったので急きょ、白羽の矢を立てられ沖縄に赴任し、そしてあの激しい戦いの中で散華されたひと。
沖縄県民、いや、日本人全体が島田叡知事の御遺徳をしのんでほしいものです。沖縄県民を大切に思い、そしてその心に殉じて言った島田知事。
もっともっと、知られていいお人です。
 
そして昨日は広島原爆祈念の日でしたね。
この日を迎えていつも思い出すのは今から20数年前のある新聞の一面の「平和祈念式」の写真です。新聞にはよく平和の火を後ろから撮った写真が載りますがその日の新聞(正確には6日夕刊です)もそのアングルからの一枚でした。
何気なく見ていたのですが何か・・・感じまして良く見ますとその大きな炎の中に数体の「ひと」の姿が浮かんでいました。
正面向いた男性の姿一体、子供を抱いた女性らしき人一体、そのほか数体の「ひと」の姿。きっとあの原爆で亡くなった人の魂が写真に写り込んだのだと思いました。
あの日、一瞬のうちに亡くなった人が多かったでしょう。もしかしたら今も自分が死んだということを御理解できない御霊もあるかもしれません。だとしたら・・・なんと残酷なことでしょう。長崎でもきっと同じなのでしょう。
その御霊、安らかにと願うばかりです。
 
以前TVで聞いた被爆体験者の話に、学校が爆風でつぶれ、生徒が多数下敷きになった。が人手もなければ重機もない状態で助けることが出来ない。火が段々回ってくる・・・と涙にぬれた顔をその人に向けた少年が言ったそうです。
「おじさん、かたきを取って下さいね」
少年は火に包まれて行きました。少年の無念を思うと胸がつぶれる思いです。かたきを取ってね、と言って死んでいった少年に、応える術を今の私たちは持っているのでしょうか。
かたきを取る。
それは何も、アメリカに同じことをしてやるというのではないですね。あの当時なら、「アメリカにもこの爆弾を」と思ったでしょう。が今は違います。
私はアメリカにこの原爆の真実の姿をしっかり見せて、「あなた方のしたことは非人道的なことだ。これを以てあの戦争を早く終息させるためにしたという言い訳は通らない。過ちは素直に認めて、この先の世界に核兵器が三度使われないようにしてほしい」と、きちんとした謝罪を引き出すことが我々の時代における「かたきを取る」ということではないかと思いました。
戦争は「悲惨」です。それは当り前です。
でもただ「悲惨」だと言うだけでは戦争の本質を見失うことにもなります。
その中にそっと光る『人々の勇気』『国を思う心』などを見出したいと思います。極限状態にありながらも、人々は懸命に生き、生きようと努力した。
その「人」としての力を見てゆきたいと思うのです。
 
明後日九日は長崎原爆の日。
高校の修学旅行で訪ねた長崎を思い出しています。
長崎も広島も訪れました。沖縄にはまだ行っておりません。いつの日か沖縄を訪問し、戦跡を訪ね散華なさった英霊たちの声を聞いてきたい。
そう思う8月です。
靖国神社には、男性の英霊だけではなく女性の御祭神も多く祀られています。
その数五万七千余柱にのぼります、日赤の従軍看護婦さんや陸海軍の軍属として内外地で働いた女性たち、そして沖縄の女学生たちも。
沖縄の女学生というと一番に頭に浮かぶのはやはり「ひめゆり」の乙女たちでしょうか。彼女たち「ひめゆり学徒隊」は沖縄師範学校女子部の生徒と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちを指します。師範学校生徒は百二十名、第一高女の生徒は二百名沖縄陸軍病院に配属されました。
しかしここで覚えていただきたいのは沖縄戦に看護婦として活躍したのは彼女たちだけではないということです。
他に
県立第二高等女学校・六十五名 白梅学徒隊 配属部隊・第二十四師団第一野戦病院
県立第三高等女学校・十名 名護蘭学徒隊 配属部隊・沖縄陸軍病院分院
県立首里高等女学校・八十三名 瑞泉学徒隊 配属部隊・第六十二師団野戦病院
私立積徳高等女学校・二十五名 積徳学徒隊 配属部隊・第二十四師団第二野戦病院
私立昭和高等女学校・四十名 梯梧学徒隊 配属部隊・第六十二師団野戦病院
の総勢二百二十三名を忘れてはなりません。
しかし現実は彼女たちは沖縄でもほとんど忘れられた存在のようになっているようです。なぜかというと、「ひめゆり学徒隊」の生徒たちは沖縄でも女子のエリートだったことも関係しているのではないかという話を聞いたことがあります。
エリートであろうがそうでなかろうが、国にささげた彼女たちの思いは変わるものではありません。そのようなことが本当に一因で忘れられた存在になったとしたら、後世の我々は大きな過ちをしていることになります。
 
県立第二高等女学校の戦没生徒を祀る「白梅の塔」は今では立派なものが立っていますがその昔は手作りの質素なものだったそうです。石積みのそれは納骨堂になっていて、鍵のない小さな鉄の扉をあけると女学生たちの遺骨がそのまま入っていたといいます。その場所は、多くの女学生たちが自決した場所でもあります。
生還した「白梅学徒」たちが、戦後戦没した友人たちの遺骨を拾って石を積み、そこに納骨したのだそうです。亡くなった少女たちの親・親族は娘の死を信じることなく「あの子はやんばるにいる、元気でいる」とか「泳ぎが上手だったから泳いで逃げて今は波照間か石垣あたりで生きて元気でいるはず」と言って遺骨を引き取ろうとしなかったようです。そんなことがあり、生還した同級生たちは石積みの納骨堂を作った。
鍵のない蓋だけにしたのはいつか親や祖父母たちが「これはきっとあの子の骨」と触ってあげられるようにしたのだそうです。
 
そのような質素な納骨堂から始まった「白梅の塔」に参拝をする人は、はたしてどのくらいいるのでしょうか?
もしも、もしもみなさんが沖縄にいらっしゃることがあったら「白梅の塔」にぜひ詣でていただきたいのです。
沖縄でもあまり知られることない彼女たちがあまりにも哀れです。今の高校生と同じ年頃の女の子たち、昨日まで学校でお裁縫を習っていた少女たちが、今日は野戦病院で戦傷を受けた兵士の腸を必死で腹に押し込んでいる・・・裁縫をしていた同じ指で。
女の子らしい幸せもおしゃれも何も知らないまま、砲弾の炸裂音におびえながら来る日も来る日も凄惨な状況に身を置いてそして死んでいった彼女たちをどうか、思ってあげてください。
 
「白梅学徒隊」で戦没された女学生の遺書をご紹介して今日は終わります。
陸軍軍属 大嶺美枝
白梅部隊 沖縄県立第二高等女学校四年 昭和二〇年六月九日沖縄県高嶺村にて戦死
沖縄県島尻郡小禄村出身 一七歳
 
お母様!
いよいよ私達女性も、学徒看護隊として出動出来ますことを、心から喜んで居ります。
お母様も喜んでください。――お母様は女の子を手離して、御心配なさる事でございませうけど、決して御心配はなさいますな。――
散る時には、立派な桜花となって散って行きます。その時は、家の子は、「偉かった」とほめて下さいね。――
お母様!空襲時はよく御用心下さいね。そして善ちゃんと弘ちゃんを良く守って下さいませ。決して私の御心配はなさいません様にしてください。
(中略)
お母様!今まで口ごたへばかりして来てすみませんでした。
これからは、きつと立派な一人前の看護婦になって、お国の為に働きます。
お母様!御身体を無理なさらぬ様に、又善ちゃん弘ちゃんを怒らずに、朗らかに暮らして下さい。
大島兵曹、信一兄さんによろしくおつしゃつて下さいませ。
かしこ
                                             美枝
最後に一家の御健康をお祈りいたします。
 
いろいろ調べていましたらこんなことがあったようなので補記として。
今年四月七日この慰霊塔にある地蔵二体とそのほかのものが盗まれていることに元同窓生(84)の女性が気付き通報。犯人が捕まったかは定かではありませんがどうしてそういうことを平気でするのか?神経を疑う話です。
・・・
此度は光栄ある任務を与へられ 勇躍出撃 必成を期し殊死奮戦 皇恩の万分の一に報いん覚悟に御座候
此期に臨み 顧みると吾等二人の過去は幸福に満てるものにして亦私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時 親愛なる御前様に後事を託して何等の憂なきは 此上もなき仕合せと衷心より感謝致居候
お前様は私の今の心境をよく御了解になるべく 私は最後迄喜んでいたと思はれなばお前様の余生の淋しさを幾分にてもやはらげることと存じ候
心からお前様の幸福を祈りつつ 
  四月七日
                     整一
いとしき
最愛のちとせどの
 
この手紙は、伊藤整一海軍中将が軍艦「大和」艦内で沖縄特攻出撃時に妻・ちとせに宛てて書いた遺書である。
この遺書は作戦後、生還した森下第二艦隊参謀長と石田副官がじかに伊藤家を訪れて、家族に手渡したものである。
この時森下参謀長は「長官はあの忙しい中でよく手紙を書けた」と驚いたらしい。彼も、大和艦長の有賀幸作も出撃にあたって遺書を書く余裕――心も時間も――なかったのだ。今に伝わる有賀艦長の遺書も日米開戦初頭に書かれたものである。
これを読むと、伊藤と妻の間の細やかな愛情が感じられる。そして伊藤自身、家族――とりわけ妻を――遺して逝かねばならない心の奥の苦悩を垣間見ることができる。私は喜んで出撃してそして死んでいったのだとあなたが思われるなら、あなたのこの先の長い人生の淋しさを少しでも和らげることになるでしょう・・・そう言って懸命に妻を思いやり慰める伊藤の心の優しさに心打たれる。
また家に遺される二人の娘(長女はこの時点ですでに嫁いでいた)には、
淑子さん 貞子さん
私は今、可愛い貴女たちのことを思っております。そうして貴女たちのお父さんは、お国の為に立派な働きをしたといわれるようになりたいと、考えております。もう手紙も書けないかもしれませんが、大きくなったら、お母さんのような婦人になりなさいというのが、私の最後の教訓です。御身大切に
         父より
四月五日
 
と遺している。海軍士官の妻となった長女へも細やかな手紙を残している。
これを書いている時、伊藤の脳裏にはいったいどのような思いや、映像が去来していたのだろうか。察するに余りあるせつない場面である。
そして長男の叡は父の死より後にはなるが沖縄周辺で特攻戦死している。父の後を追うように逝った子は、その最後に何を見つめ、何を叫んだのだろうか・・・。
そして妻のちとせもそれから間もなく人生の最期を迎えることになってしまう。終戦の翌年彼女はとある手術の「事故」がもとで死に至ってしまう。
戦死した息子、叡の告別式まで澄ませながらも、「沖縄の収容所に叡がいる」という噂を信じて手紙まで書き送った母は医療事故であえなく散った。
今ではきっと親子三人なかよく泉下で暮らしていることだろう。そう信じたい。
 
これらの話は、先日購入した本「四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最後」(中田整一 講談社刊)から引かせていただいた。
何気に目をやった書架にあった本で、新刊である。手に取りすぐ、買った。伊藤整一という人の名前は知っていても、その人が実際どんな人であったのか――軍人としても家庭人としても――知りたかったというのがある。
そしてこの本で、彼が東京杉並区に住まいがあったことも知ったし、彼が住まった後には今も彼の植えた桜が四月七日に満開を迎えるのだ、ということも。
 
一般将兵にとっても残酷だった「坊ノ岬沖海戦」であるが、その作戦を請けた方も大変な懊悩があったということを確信させた。
大和以下十隻に乗り組んだ将兵数千の命を東シナ海に死なせたその責任を、彼は「大和」長官室にこもって「大和」とともに海底深く沈むことで取ったのだろう。
あの作戦を立案し、伊藤に提示した海軍上層部の中の幾人が本当に責任を取ったのだろうか。取れたのだろうか。
伊藤を始め、あの海戦で戦死した将兵たちはどう思っているのだろうか。
 
なぜこのようなことを書いたかと言えばこの本のことをお知らせしたいという気持ちもですが、今日閣僚の靖国参拝が問題になりました。<そのせいで>韓国、中国との会談や訪日も中止になったと責められています。
「靖国」を政治問題化させる中・韓には腹が立つしもっと安部総理にははっきりした言葉で「何処が悪い」ということを言ってほしいのです。国の為に戦没した人々を国家国民が慰霊顕彰するのは至極当然で何処の国でもしていること。
それを「右傾化」とまで言う中国の言い分は聞き捨てなりませんし、単純に「右」というならそっちの方が正規軍ももつ右傾国家じゃないか!と言ってやりたいですね。まあ、同じ土俵に降りてまで論議するのもバカらしいですが。
話を戻しますと、そういった形で国内外で色眼鏡で見られる「靖国神社」とそこに祀られる人々が私は本当にかわいそうで気の毒でならない。本来なら国民こぞって慰霊をし、その働きを未来永劫の日本人に語り継ぐのが国家国民の役目なはずです。
政治家は「私人で参拝」などと言わないで堂々と「公人」として参拝してほしい。政治家の看板を掲げている間は、あなたたちに「私」はないと思ってほしい。「公の人」として堂々と参拝して初めて靖国や護国神社の英霊は心安らかになれるはず。それでも「私人として」というなら日曜日にでも私と一緒にラフなスタイルで行きましょう。「総理じゃない?」と言われても「私のいとこです、よく似てるって言われるんですよ」とかわしてやりますから。
ともあれ「公人として参拝」することが、何よりこの日本において「私」を持たない天皇陛下がご参拝を再開できる最短の道なのだと思うのです。
それこそが、国に殉じた英霊の最も望んでいらっしゃることだと思うからーー。
 
「四月七日の桜」の表表紙。
イメージ 1
 

全20ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

抽選で150,000名様に当たるチャンス!
マツモトキヨシで期間中何度でも使える
100円引きクーポン<Yahoo! JAPAN>
ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!
衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事