桜のためいき

日本と帝国海軍大好きな人間のつぶやきです。

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(以下は見張り員の別ブログからの転載です)
これは昔、まだ私が6つごろのころの話。
でも鮮明に覚えていることが一つある。この話をむかし人にしたら「それはきっと後付けの作り話でしょう」と決めつけられてからもうしなくなった話でもあります、が、最初にお断りしておくのは私はこの<地名>もそれにまつわる<歴史>も一切知らなかったということ。
 
6つの私は、母方の祖母の住む杉並の家へよく遊びに行ったり泊りに行っていたのです。その頃の私の住まいが、祖母の住む家の近くを通る私鉄の同じ沿線にあったからというのも一つでした。
ともあれ、小さい私は祖母と風呂に入ろうと薄暗い脱衣所で服を脱いでいました。洗濯機の上に置いてある籠の上に脱いだものを入れて、ふっと後ろを振り返るとそこには祖母が洗濯に使う洗濯洗剤の大きな缶がありました。
官には花や動物の様なものが描かれにぎやかな印象があったと思います。そしてそこに書かれてた商品名と思しきもの。
ソロモン
と書かれていました。「そろもん・・・」と読んだ時、なぜか私の脳裏といいますか心の中に全く知らないはずの「戦争」「戦場」のイメージが湧いて来たのでした。
「ソロモン」という普段聞き慣れない発音のせいだったのでしょうか?それにしても何も知らない5つの子供の心になんでそんなイメージが急にわいたのか今となると不思議です。そして祖母と風呂に入って上がった私が脱衣所で祖母に言ったのが、「ソロモン」の缶を指して
「おばあちゃん、ソロモンって戦争があったところでしょう」
だったのでした。その時祖母がぎょっとしたような顔で「・・・よく知ってるねえ」と言ったのを今も覚えています。私は脳裏に浮かんだイメージから確証も何もなしに唐突に口に出しただけだったのですが。
 
そしてそれから何年か経って私が戦史に興味を持つようになって戦史関連本を読んだ時「あ・・!」と思いました。
そこには「ソロモン海戦」という言葉が・・・ソロモンという語を初めて発音した6つの脳裏に湧いたのはこれだったのか・・・とその時初めて合点しました。
でも不思議なのは、私の身内には海軍出身者はいませんし、軍人になった大伯父がいましたがソロモンには全く関係ない人でした。そして何より家族親戚集まった時に「ソロモン」という語やそれにまつわる歴史をこの耳で聞いたことがありません。
 
ただ。
これもそういうとこじつけ、後付けの作り話のように言われるかもしれませんが、実は私の祖母は若い時海軍士官と見合いをしたのです。山梨県の旧家の生まれでなんでも広瀬中佐と関係のある家柄だったという祖母の家だったので海軍士官と見合いをする縁があったのだそうです。
祖母は格好の良い海軍士官に一目ぼれして「あの人がいい!絶対あの人がいい」みたいな感じですっかり乗り気だったそうですが、祖母の父親に「まあちょっと待て、これから世の中どうなるかわからんから軍人はよした方がいい」と言われ泣く泣く?断念したとか。
そして私の祖父となる男性と結婚し、戦争末期にはその実家に疎開し十年にわたる苦難の道を歩むわけですがそれはともかく、祖母と見合いをした海軍士官さんはあの戦争の中で戦死をなさったと聞きました。若き日の祖母と見合いをし、祖母の中に強い印象を残した海軍さん、今では名前もわかりませんがその方は護国の英霊となられたのでした。
 
もしかしたら。
もしかしたらその方はソロモンあたりで亡くなったのではないか?とふっと思ったのでした。人は死んでも魂が残ると聞いています。もしかしたらその英霊となられた海軍士官さんが自分の最期の場所を伝えたくて私の脳内に「ソロモン」の言葉で戦争のイメージが湧くように操作なさったかな?――なんて思います。
ひょっとして祖母は風の噂か何かでその人が戦死した場所が「ソロモン」だと聞いたのではないか?しかしもう夫も子供もある身でかつての見合い相手の死を思いやることもできずにいたのではないか。そのうちなる心を私の思いがけない言葉に驚いたのかしら?とこれは全くの推察ではありますが考えた次第。
 
ソロモン諸島。
今日周辺で大きな地震があったそうで津波も観測されましたね。大ごとがないよう祈ります。海も島も美しいかの地にはまだたくさんの日本の兵隊さんたちが眠っています。
なんだか、遠くの海から多くの日本の将兵のみなさんが今の日本を憂え、そして自分たちの死の意味を、平成の御代に生きる私たちに問いかけているようなそんな気がしてなりません。
ラジオから流れて来た「ソロモン諸島で地震が・・・」のニュースを聞いて、もう何十年も引っかかっていた「ソロモン」のことをやっと今日書いてみました。作り話と思われても単なるこじつけだと思われてもいい。
これは私が体験した「事実」の話ですもの。
 
 

日々雑感・回天金剛隊

(この記事は見張り員の別ブログからの転載です)
 
 
今日一月十二日も間もなく終わるがこれだけは記しておきたい。

今日という日が「回天特攻隊・金剛隊」の命日であるということ。
回天・金剛隊は伊号36潜・47潜・53潜・58潜に搭載されていずれも昭和十九年十二月二十五日前後に山口県大津島基地を出港。
伊号36潜はウルシー、47潜はホーランデイア、53潜はパラオ・コッソル、58潜はグアム・アプラ湾目指して行った。
半月もの長い航海…その間に昭和は十九年から二十年、終戦を迎える年になっている。
外洋で新年を迎える搭乗員たちの心はいかばかりだったか。

伊号58潜搭載の回天搭乗員の森 稔少尉(死後階級・北海道出身・道立滝川中・甲飛予科練13期)はその遺書に書いている。


・・・昭和二十年の春を征途の途上にむかえ、故国の空を拝し、大君の万歳と、大日本帝国の必勝を祈り候えば、髣髴として湧き起こる故国の山河、人々の顔。唯唯目頭熱くなり候て、撃滅せずんば止まざるの念を、更に固め申し候

・・・花は散りてこそ花よと惜しまれ候と御座候。咲くは栄華に候いて、精華に候わず。散りてこそ真の花と存じ候。

・・・今更散るの咲くのと言い候も意気地無きことと存じ候えども、若輩の身の浅間しさとお許し下され度候。命より名こそ惜しけれと言い候内は、まだまだのことと存じ候。君国の御為には名すら惜しみ候わずとまで行きたき所にて候。


以上が、グアム・アプラ港にて回天特攻で戦死した森 稔少尉の遺書である。これを書いた時、森少尉若干十八歳であった。

十八歳がこの文章をしたためたのである。驚くべき教養の持ち主だったことが分かる。彼の遺影を見ると、いかにも聡明そうな男子であり、好感が持てる。

また彼と同じ58潜で出撃、戦死した三枝 直(まこと)少尉(死後階級・山梨県出身・県立甲府中・甲飛予科練13期)も十八歳であった。

この二人は仲良しで逢ったようで、58潜がグアムに接近し、出撃直前に橋本(以行)艦長に、「艦長、南十字星はどこでしょうか?」と尋ねている。艦長が「もう少ししたら、南の空に美しく出るよ」というと二人はその場に座ってしばらく夜空を見上げていたがやがて、
「行きます」
といいたちあがった。
橋本艦長はそれぞれと握手を交わし「しっかりやってください」と決別の言葉を述べたという。
この時の情景は戦後も長く生きた艦長の生涯にわたってその心を苦しめることになったという。


ともあれ。
金剛隊の十五人は、場所こそ違え昭和二十年一月十二日、ウルシー、ホーランデイア、パラオ・コッソル、グアム・アプラ湾で散華した。

加賀谷 武中佐 二十四歳 樺太
都所 静世中佐 二十歳 群馬県
本井 文弥大尉 十九歳 新潟県
福本 百合満少尉 二十四歳 山口県(以上ウルシー。伊号36潜。階級はいずれも死後のもの)

原 敦郎少佐 二十五歳 長崎県
川久保 輝夫少佐 二十一歳 鹿児島県
村松 実少尉 二十三歳 静岡県
佐藤 勝美少尉 二十三歳 福島県(以上ホーランデイア。伊号47潜。階級はいずれも死後のもの)

久住 宏少佐 二十二歳 埼玉県 
伊東 修大尉 二十歳 鹿児島県
有森 文吉少尉 二十六歳 佐賀県(以上パラオ・コッソル。伊号53潜。階級はいずれの死後のもの)

工藤 義彦少佐 二十一歳 大分県
石川 誠三少佐 二十一歳 茨城県
森 稔少尉 十八歳 北海道
三枝 直少尉 十八歳 山梨県(以上グアム・アプラ湾。伊号58潜.階級はいずれの死後のもの)
 
この日だけで十五人の若い命が消えた。

回天の戦果は決して大きくない。否、殆ど戦果はなかったと言われている。それは回天の運用に大きな問題があったからだとも言われている。

夜間の視認も聞かないような攻撃に出してあたら若い命を無駄にしたとの指摘もある。
それが本当ならなんということだろう、決して許されない。

だが、彼ら回天特攻隊員の純粋な、国や家族を思う心は決して無駄ではないし、未来永劫語り継がれてしかるべき物語である。

彼らの死は決して無駄死にではない。
もし…無駄死にだとしたらそれは今を生きる我々の生き方を問われることではないだろうか。


いつかグアムやパラオに行く機会があったら、ちょっとでもいいからこの海に眠る若い命を思ってあげてください。
人生の「楽しみ」など殆ど知らないで散華した若い人たちへ、永遠の命を上げることになるのですからーー。

回天搭乗員の在りし日のお姿です(画像お借りしました)。
http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/h/a/i/haitiyoshi/20130113005300671.jpg

牛島中将のことなど

私の母などと話をしている時ふっと思うことは、どうしてこの世代はこれほど激しく「戦前の日本」を非難・否定するのだろうかということ。「修身」「教育勅語」などという言葉は禁句でもある。
それらの何がいけないのか私にはわからない、先ごろ「国民の修身」(監修・渡部昇一 産経新聞出版)を買い読んでみたがそこに書かれていたものを読めば「ああ、こういうことを教えられていたからかつての日本人は徳が高かったんだな」と納得こそすれ非難の対象ではない。
母などが激高する原因らしきものをあえて探すなら「テンノウヘイカバンザイ」など皇室を敬愛し国家を愛するという部分か。
愛国心・皇室崇拝=戦争に行くというあまりに短絡な思考に笑ってしまうが。
 
きっとそれは受けた教育のせいだろうというのはわかるが、激烈な言葉で戦前の日本、特に日本軍を攻撃する様は子供のころ見ていて若干の恐怖さえ感じたものだ。
 
よく言われたのは「中国やフィリッピンで日本兵は現地の子供を投げあげて銃剣の先で突き刺した」とか「中国で村を襲って住民を軍刀で串刺しにした」・・・見て来たように言うその言葉と顔つきが子供心に「日本軍は怖いんだ」というすりこみをするに十分だったと思う。
 
でも子供もバカではないもので、大きくなるにつれさまざまな本を読むようになり、決して母親の言うことが正しいとは思わなくなる。
鬼のように聞かされていた「日本軍」の軍人の中にもいい人がたくさんいた事実。
大体が母親の叔父も、母が鬼のように言う「日本軍」の将兵として出征していたのだから、それならば母は叔父のことも「鬼」とののしらねばならない。
 
素晴らしい日本陸軍の軍人の一人に、牛島満陸軍中将と言う人がいた。
この名前を聞いてピンとくる人は多いかもしれない。かの沖縄戦で第三十二軍を率いた司令官である。明治二十年東京に生まれた牛島満は明治二十七年鹿児島の尋常小学校に入学している(本来牛島家は島津藩士の家柄、満の父親の急逝により鹿児島に戻った)。その後明治三十四年には熊本陸軍地方幼年学校に入り、三十九年には陸軍士官学校に入学を果たす(二十期)。その後陸軍士官学校から陸軍大学校に学んだあと大正七年、シベリア出兵で初陣を飾る。第四十三連隊大隊長や陸軍戸山学校教育部長、歩兵第一連隊長、歩兵第三十六旅団長等を歴任し北満や北支・中支に出動。昭和十四年に陸軍中将になり、やがて彼は昭和十九年八月に初めて沖縄に赴任し小禄飛行場に降り立つこととなる。
ここから少し、彼と彼の沖縄戦についてつたない筆ではあるが書いてみたい。
彼は薩摩隼人で堂々たる体躯の持ち主、その温厚な風貌と部下に対する接し方や責任感の強さで以前から定評のあった彼の赴任で三十二軍の士気は上がり住民も安堵感を持ったという。
 
しかしアメリカの攻撃はいよいよ沖縄にその魔手を伸ばしてくる。疎開も奨励されたが、沖縄から本土まで約六百キロ。その間に敵航空機や潜水艦による攻撃もとうぜんながら予想されていた。(実際壱拾九年六月には<富山丸>が遭難し多くの犠牲が出ている)
その中で、なかなか疎開に応じようとしない県民への率先垂範の意味もあり県庁職員の家族らを乗せた第一船が鹿児島にむけ出航。疎開児童も本土や台湾への疎開を開始。
そんな中、「対馬丸」が撃沈され牛島中将は心を大変痛めることとなった。
「対馬丸」とは?
「対馬丸」は十九年八月二十一日十八時三十五分、「和浦 ( かずうら )丸」「 ( ぎょう ) ( くう )丸」とともに駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」の護衛で長崎に向け那覇を出港。この時「対馬丸」には疎開児童約七百名、一般疎開者約千名が乗船していた。
船内では、児童や一般疎開者たちが不安な気持ちで過ごしていた。何事もなく長崎に到着することだけを祈っていたに違いない。
しかし、翌晩の二十二日二十二時十五分鹿児島県トカラ列島悪石島付近で米潜水艦の攻撃を受け沈没、乗員乗客一四七六名が犠牲になった。生存児童はわずか五九人。一般疎開者の生存者は百六十八人。
この事件が、自身も人の親である牛島中将の心中は想像に難くない。いかなる思いでこの悲報を受け取ったのだろうか。
 
しかし、ごく近い将来予想されるアメリカ軍の攻撃から県民を守るため県民を疎開させねばならない。疎開事業は二十年三月まで行われ、九州・台湾などへ約八万人の県民が疎開を果たした。
その功績に、島田叡知事が大きく関与していたことを特に記す。
 
昭和二十年四月にアメリカ軍が沖縄上陸し日がたつにつれて、もう日本軍にはほとんど抵抗のすべさえなくなる。三十二軍に勤務していた女性たちは撤退を命じられ口々に軍と運命を共にするつもりだったのに、とか、私たちは自分を女とは思っていないからと抵抗するものの司令部を出てゆくこととなった。
三十二軍は南部に撤退、そしてそこで運命の日を迎えることとなる。
 
六月二十二日。いよいよ牛島司令官と長勇(ちょう いさむ)参謀長他の自決の日が迫る
第三十二軍はアメリカ側の予想をはるかに超える持久戦でアメリカ軍に抵抗し、当初一カ月もあれば沖縄を攻略しその後はそこを足掛かりに本土上陸作戦に移るはずだったアメリカの予定を大きく狂わせた。
アメリカ軍の沖縄上陸からここまで三カ月かかっていた。
なお、海軍部隊太田實中将は牛島中将らに先立つ六月十三日小禄にて自決している。
 
その日の朝牛島司令官が身に付けた白い肌着は、司令部付軍属の女性の一人が縫ってくれたもので、自決の数日前にはその女性たちに牛島司令官は、ぜひにも生き延びること、親元に帰るように頑張ること。私はあなたたちの無事を陰ながら祈りますと言って記念品を贈った。
 
若い人は決して死んではいけない。
 
しかし、牛島中将のもとに「あの女性軍属たちが自決しました」の悲報が入る。おそらく自身の娘を重ね合わせて「死んではいけないよ」と諭したのだろうが、軍属の彼女たちは死を選んでしまった。
 
牛島中将の悲しみや無念の思いはいかばかりだったであろう・・・「死なせてしまった」人一倍責任感の強い彼は自分を責めたかもしれない。
 
二十二日の晩には最後の晩餐会が開かれ、とっておきのウイスキーが開けられ残っていたパイン缶もすべて開けられる。
通りかかる将兵や中学生に牛島中将は、パインをフォークにさして差し出す。それを押し戴こうとすると、「口を開けなさい」と言って一人ずつ口に入れてくれたという。
牛島中将の温厚さは中将の馬の係をしていた沖縄男性も証言している、中将はいつも彼に穏やかに丁寧に接し「○○さん、戦争がおわったらこの馬で一緒に遠乗りしようね」と言って嬉しそうだったという。
また兵に対しても牛島中将は何かと声をかけてはその身や家族をいたわっている。
 
生存者の女性の回想によればその時牛島中将は丸で慈父のような顔で「あーん、としなさい」と言って口を開けさせるとパインを口に入れてくれた、その温顔が忘れられないという。
 
昭和二十年六月二三日、夜明け前の摩文仁の丘。
断崖の上に白い布が敷かれている、そここそが牛島中将・長参謀長・佐藤大佐の終焉の地となる場所である。
 
軍服姿の牛島中将、長参謀長、佐藤大佐が洞窟からいで来るとそこに軍刀を手に座る。
長勇参謀長の肌着には 忠則命 盡忠報国 長勇 と墨書されていた。
佐藤大佐が手にした拳銃をこめかみに当て引き金を引いた。そのあと、牛島中将が抜刀。介錯の刀が振り下ろされ――多くの人にに慕われ人望の厚かった牛島中将の人生がここに終わりを告げた。
 
そして、長かった沖縄戦も終わりを告げるのである。
 
沖縄を守るため出撃した「戦艦大和」以下十隻。そのうち四隻の駆逐艦を残し、海の藻屑と消えていった。第三十二軍は第二艦隊出撃準備の報に対し、牛島名で海軍に対し「・・・ゴ厚志ハ 感謝スルガ時期尚早ト考察スルノデ 海上特攻ノ出撃ハ取止メラレタシ」と打電していた。
 
ようするに、とても沖縄まで来ることはかなわないだろう、無理だからやめろということを示唆したのだが、海軍は<海上特攻>を強行した。ここだけでも数千の命が儚く消えた。残ったのは将兵たちの『国や家族を守るため往く』という純粋な思いだけである。
 
摩文仁の第三十二軍司令部跡は当時の激戦の跡を今に伝えている。
牛島中将が・太田海軍中将がその命を張って守ろうとした沖縄。彼ら――牛島中将や太田中将、そして多くの陸海軍将兵――の終焉の地には今も、英霊となった彼らが<外敵>からこの地を守らんとしているような気配を受けるのである。
 
矢弾尽き天地(あめつち)染めて散るとても 魂還り魂還り皇国(みくに)護らん (牛島満陸軍中将 辞世)
 
  (参考図書・「魂還り魂還り皇国護らん 沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯」将口泰浩・海竜社 ほか)
 
牛島中将
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無礼にもほどがある

お久しぶりです。
 
しかし腹が立つのは韓国と中国のあの態度ですが、今は韓国に腹立っています。
言うに事欠いて、恐れ多くも天皇陛下に「謝罪」を要求する。そのうえ一国の首相が送った親書を返送する。
 
なんという態度。
誰のおかげでここまでになれたと思っているのか?
 
人の場所に土足で入り込み勝手に建物を建て、旅行者を入れる。何かというと屁理屈をこねまわす。
 
もうこういう国が隣にあるというだけでムカつく。
 
断交したらいい。
前の尖閣の事件の時も中国に対して思ったが今回、まず韓国に対して真剣に思う。
 
大使館は閉鎖し大使は帰国させ、日系企業も引き上げる。在韓邦人も引き上げる。
今までさんざっぱら日本からふんだくった金を一銭残らず返してもらう。在日韓国人は帰国させる。
 
日本国に恥をかかせたその償いを、させるべきである。
 
黙っているべき時ではない、今この時こそが大事な時であると思う。もうこれ以上なめられないよう日本政府は対応を間違わずにしてほしい。
 
そして・・・日本は憲法を改正し特にあの「9条」を正すべきである。
独立国であるのに国軍を持たないのがなめられる一因である。日本を守るために国軍を持つのが悪いという考えを捨てる時だ。
 
この日本をおぞましきものから救うのは国民一人一人の信念と行動しかない。
 
万世一系の天皇陛下のおわす日本を穢されて黙っているようなら日本の政治家ではない。
国民でもない。
 
かの国どもにしっかり思い知らせるべき時である。
 
 
 
 

7月7日という日。

今日は七月七日。
七夕ですね、と言ってもこのところの梅雨前線の活発化ですさまじい雨の所もあるようです。
私のところも、一日降ったりやんだりで夕方からは激しく降っています。午後からは空気さえ少しひんやりしてきました。
 
さて。
今日は七夕の日だけではありません。
 
昭和十二年のきょう、かの有名な<盧溝橋事件>が起きた日です。   
(以下の文章は「日本人として知っておきたいQ&A近現代史の必須知識 渡部昇一監修 水野靖夫著 PHP研究所刊」から引用させていただきましたことをお断りいたしておきます
       
この日の午後22:40、演習を終えた日本の「支那駐屯軍」の中隊に発砲があったことから始まります。この後に中隊から大隊・連隊へ報告があり、軍使が派遣されることになります。
そうするうちの日付が変わった八日の0325再び日本軍にむけて銃撃がありました。その後0400軍使が連隊本部を出発、0420には二回目の銃撃の報告を受けて連隊長は戦闘を許可してはいますがこれは砲撃に至らなかった。0530ついに日本軍にむけて三回目の銃撃があり、とうとう日本軍は反撃に出ました。最初の不法射撃から実に7時間後であります。
そして90200になって停戦協定が成立しました。
この事件については日本軍の仕業とかいろいろ言われていますが日本側の言い分は、この時日本軍は演習であるため事故防止のため実弾は厳重に梱包し簡単には開封できないようにしてあり、さらにシナ側には、3日前には演習を行う旨を通告してあった。
鉄兜も暗号所も携行していなかった。
 
シナの言い分(盧溝橋守備隊長・金振中回想による)<>内は真実。
「日本軍の演習での戦車の音がごうごうと聞こえた」<事件発生当時、盧溝橋に戦車は出動していない>
「漆黒のこの夜の雨」<この晩は晴れであった>
「七月七日夜十一時ころ・・・日本軍の砲弾・・」<日本軍の砲兵隊の現地到着は八日0320である>
・・・
私たちが学校の歴史で習ったことと違いますね。学校で習った歴史は「日本悪し」ですからこういう話はある意味衝撃かもしれません。
でもこれが「日本の歴史」です。私は日本人として「日本の歴史」を支持します。
 
 
さらに今日は昭和十九年、サイパンがアメリカ軍の手に落ちた日でもあります。サイパンは日本人入植者が多く、製糖産業などが盛んでした。
そのサイパンも昭和十九年六月十五日強襲上陸を受けます。その後、七月七日の総攻撃で陸・海のサイパン守備隊・現地の日本人は玉砕戦法を取り、多くはタナバクの浜で戦死しました。
そして非戦闘員の女性・子供たちは北方のマッピ岬に追い詰められそこで凄惨な死を遂げました。今ではここは、<バンザイクリフ><スーサイドクリフ>と呼ばれ観光地になっています。
なお、平成十七年六月には天皇皇后両陛下がこのサイパンの地をご訪問され戦没者の慰霊を行いました。両陛下が戦没者の慰霊を目的に外国をご訪問されたのはこれが初めてです。
陛下はこの後の十二月、七十二歳のお誕生日にあたり記者会見で、
61年前の厳しい戦争のことを思い心の重い旅でした」と振り返られました。そして戦闘で亡くなった日米双方、そして現地住民への思いとして、
「島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみはいかばかりであったかと計り知れないものがあります」
と述べられました。そして、歴史を継承することの重要性にも言及され、
「過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていくうえにもきわめて大切なこと」とご指摘なさいました。
 
きっと今日も両陛下はサイパンの戦没者の御霊に祈りをささげられていらっしゃることでしょう。
 
七夕の七月七日、こういう「歴史」があったということをちょっとだけでも心の片隅に置いて頂けたら、と思います。
 
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「日本人として知っておきたいQA 近現代史の必須知識 ・ 渡部昇一監修 水野靖夫著 PHP研究所刊」
大変勉強になる図書です。推薦します!

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