桜のためいき

日本と帝国海軍大好きな人間のつぶやきです。

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昭和20年4月7日、東シナ海。
今まさに覆没せんとする「軍艦大和」艦上第三砲塔の上に、その人は軍刀を持って座り込んだーーー
 
あの、「大和」の沈没の際にはたくさんの「ドラマ」が生まれました。
伝えられきれないものもたくさんあるでしょうし、それを目撃した人も直後に帰らぬ人となってその人の永遠の記憶の中だけにしか残らなかった「ドラマ」もあることだと思います。
 
これからの話は、今に伝わるお話。
 
和田健三少尉(階級は戦死後のもの)は「剣道の達人で勤勉、実直。厳格な人」だったとのちに「大和」で部下になった人が語っている。
 
和田さんは昭和11年、友人の妹で11歳下の当時16歳の澄枝さんと結婚した。
亭主関白なところのある夫ではあったようだが、その当時勤務していた『空母・龍驤』に、岳母と3人で乗ったという。
 
その時の写真では、妻の澄枝さんは抜けるような色白の美人。
きっとその美人妻を自慢したかったのでしょう。
 
武骨い海軍さんとはちょっと裏腹な感じがほほえましいエピソードですね。
 
そのあと、昭和18年和田さんは念願の「大和」勤務になります。嬉しそうに「希望がかなったよ、「大和」に乗ることになった」と澄枝さんに話した和田さん。
 
もうこの頃にはお二人の間には、二人のお嬢さんがいました。
やがて戦争が激しくなり呉も空襲されるにおよび、澄枝さんとお子さん方は山間に疎開。
和田さんはお嬢さんたちを連れて疎開先で「どうかよろしくお願いします」とあいさつして回ったといいます。
 
そしてあの年の3月、いよいよ最後の上陸の時が来ましたが澄枝さんが苦労して切符を手に入れ呉の家にようよう着いたものの時すでに遅し、和田さんはもう艦に戻った後でした。
 
待っていたのは一通の置手紙。
「何度も呉の駅に行った。もう会えないかもしれない。達者で暮らしてくれ」
 
澄枝さんは港の見える丘に駆け昇ります。
すると・・・・大きな艦が出てゆくのが見えました。
それこそ「軍艦大和」の呉での最後の姿だったのでしょう。澄枝さんの目に焼き付いて離れない光景だそうです。
 
そして4月7日。
最後の時を迎えつつある「大和」では和田兵曹長の指揮する機銃群の真下に魚雷が命中。
 
シールドが吹き飛び、中の兵員も吹き飛んで散華してしまいます。シールドは甲板上に落ち、引き飛ばされた兵は海に落ちて行きました。
 
和田兵曹長は部下の兵たちが落ちて行った海を黙って見つめていました。
丸で見送るかのように・・・・・
 
和田兵曹長は、常々部下の兵に「お前達だけを死なせたりはしない。一緒に死んでくれ」と言っていたそうですから、その部下の兵たちの散華にどれほど心痛めていたかわかる気がします。
 
そして「総員退去!」の声の中、第三砲塔の上に座った和田兵曹長は、その手にした軍刀で自らの命を絶ったのでした。
 
 
当初、「戦死」と伝えられた和田兵曹長(戦死後少尉)の死。澄枝さんも「戦死」と疑う余地もなかったでしょう。
澄枝さんは戦後お二人のお子さんを抱えて大変な苦労をなさいながら、とうとう再婚されました。
 
夫を亡くした多くの妻たちは、戦後再婚した人も多くそうした人たちは新しい夫への遠慮もあって「大和」の慰霊祭には出席を控えていたようですが、澄枝さんの新しい御主人は御自分も海軍にいらしたという関係もあってか、「是非に」と慰霊祭への出席を勧められたそうです。
 
初めて出席した「大和」の慰霊祭で澄枝さんは驚愕の事実を知らされます。
 
「和田さんは、自決なさったんですよ・・・」
 
当初は夫を恨んだ澄枝さん。無理もないでしょう、戦後の苦労を思えば、夫がいてさえくれたらそれほど苦労しなくて済んだかもしれないんです。
「どうして私たちのために生きようとしてくれなかったの?」
心の奥底で、夫の和田兵曹長を責めたかもしれないですね。
 
しかし、時がたち生還者の話をきき、「お前達だけを死なせはしない・・・」という和田兵曹長の言葉を聞かされた時から澄枝さんの心は少しづつ変わってゆきます。
 
あの人は真面目だった、かわいい部下を死なせて自分だけ生き残るわけにいかない、とその道を選んだんだろう。
あの人らしい最期・・・。
 
そう思ったそうです。
 
和田健三兵曹長。戦死後一階級特進で「少尉」。
並々ならぬ精神力を剣道で鍛え、亭主関白ではありながら妻と子供思いのこの日本男児は「責任感」というものに殉じてゆきました。
 
本当なら傷一つ負っていない身体、しかも最上甲板にいたのだから生還できた確率は高かったはずですが、和田少尉は生きることを望まなかった。
 
「お前達だけを死なせない、一緒に死のう」
 
言葉に忠実に、自分の職務に忠実に、すべての責務を我が身に負って自決された和田少尉。
 
この精神の崇高さには頭が下がります。
 
以前御遺書を紹介させていただいた「大和」の小笠原嘉明兵曹長も御自分は傷一つ負わないのに、やはり御自分の職務の「責任」を追って沈みゆく「大和」に残られたのでした。
 
あの時代の男達の責任感の強さ。
命とさえ引き換えにするその責任感の強さを、今の日本の男性たちは見習うべきではないでしょうか。
 
特に日本の政治をつかさどる男性たちにはぜひ、この崇高な精神を学んでいただきたいものです。
 
今の日本の「無責任さ」を、和田少尉は泉下で嘆いておられることでしょう。
合掌。
かの国、シナでの反日デモにはまったくもって腹が立つ。
尖閣諸島の問題でネットで呼びかけた反日シナ人の集団だそうだがそれがどんな連中であれ、あの日本に対する「暴動」は許し難い。
 
反日シナ人に言っておこう。
「尖閣諸島は日本の領土であるし、言うまでもなく日本列島は日本の領土である」と。
 
さて。
それにしても私が嫌いなのはいわゆる「サヨク」の言動である。
前にも書いたと思うがあえて書きたいと思いますが我が両親は「左翼」であります。
私は物心ついたころから、「日本の悪さ」「日本軍の残虐さ」等々を聞かされ続けていました。
「日本の兵隊が中国を侵略して、村をいくつも焼いて村人を惨殺した」「東南アジアでは日本軍は赤ん坊を投げあげて銃剣で突き殺した」・・・
よくこれらを聞かされて、まだ子供だった私は正直怖かった。
 
しかし、私もいつまで親のいいなりではありません。
小学生も高学年になったころ私の中に突然、「日本軍大好き、日本大好きという心が芽生えたのです。親が私に話したあのおどろおどろしい「日本軍の蛮行」とされるものは実はシナの軍隊やアメリカ軍がしたことではないか、といろんな本を読んでは思うようにもなりました。
シナもアメリカも残酷ですからね。
 
でも強烈なサヨクな親にそれを言ったら何を言われるか、されるかわかりませんので言うことはできません。
 
だからこっそりと部屋で一人、兵隊さんの絵を書いたり戦記物を近所の図書館で借りてきて読んでいました。
 
好きだったのは「坂井三郎空戦記」、これわくわくしながら読みましたね!真面目に「零戦の搭乗員」になりたいなあと思い、あこがれました。
変な零戦のそばに立つ搭乗員の絵も描いたっけ・・・
 
ともかく小学校を出るまでに随分とのめりこみ、中学入学したのは転居のため別の場所でしたがそこでもいかんなく「日本軍好き」を発揮し初めて会った女の子のクラスメートに「…なんか、兵隊さんみたい(私のことをじっと見つめた挙句のこの子の発言です)」と言われました(笑)。
 
でもしかし、時はところは「反日・自虐・親中・親韓」の真っただ中の日教組教育の現場です。
ここでも表立っては言えないもどかしさ・・・。中3の時、うっかりファイルに挟んでいた連合艦隊の写真を社会科の教師に見つかり、以来『あいつはおかしい』という目で見られましたから。
 
結局私は高校を出るまで自分の本心にふたをして「反戦、反日」の皮をかぶるしかなかったです。
 
でも自分だけの日記帳には本心を書きつけていましたね。誰にも見せなかったから書けたのでしょうが。あの日記は私が結婚する時処分しちゃいました、万が一親に見られたらちょっと、と思って。
 
最近では親たちは「田母神さん」に攻撃の手、ならぬ口を向けています。
この夏、避暑に行った先でTVに田母神さんが出ていらしたのですが、父親は見るなり「この人は不愉快な人だ!」と言いだし母も同調。
父は私にも「ね、不愉快でしょう!」というのですが私は田母神さんが好きですし彼の論理は正しいと思うので「不愉快ねえ・・・」としかいいませんでした。
 
あの親とこういうことで論議しても始まらないし、せっかくの避暑に「サヨク」と不毛な言い争いをしたくなかったからです。
 
なんせ一事が万事、日本とか日本軍が嫌いな人たちと話なんかまともに出来っこないですよね。
私の大事な「大和」「武蔵」の模型を見て
「ふん、『大和狂い』・・・」
と鼻で嗤いました。
 
私は特に「メカ」や【兵器】が好きだというわけではなく、そこにいた「人間」が好きなのです。ですから模型を見ても、そこにいた人々に心がまず行きます。そして何より日本の兵器ーー零戦にしても戦車にしてもーーあまりに美しく繊細だと思いませんか?単なる【人殺しの道具】ではないです。
それも分からないであれこれ言わないでほしいものですよまったく。
 
あの二人はきっと今回のシナの「反日デモ」に関しても「日本が悪い、尖閣は中国のもの」とか言ってんじゃないかと思いますよ。
でも尖閣は歴史が証明済み、日本のもの。竹島もそう、対馬もそう。
 
かつて母親は「対馬だってその昔は朝鮮のものだったんでしょうに、こんなに朝鮮と近い」と言ってましたが、まあもう何をかいわんや。
だったらどうしますか、朝鮮にお返ししますか?
まあ今現在、対馬はかなりあやふい状況になりつつありますから、「サヨク」はこれでいとか思ってるかもしれませんが。冗談じゃない!
 
正しい歴史観とか国家観のない人間には本当に困ります、というか国を売ってしまうんではないかという大変な危惧が付きまとうわけで、まっとうな日本人としては恐ろしい限りですよ本当に。
 
 
今もTVではシナの反日デモの状況を放映していますが、もうこんなわけのわからん恥知らずでそして恩知らずなシナとこれ以上国として付き合う必要はないと私は思いますね。
 
即刻、在留日本人と企業はシナを出て日本政府はシナとは断交すべきです。そのうえでシナに正しい歴史の読み方を知らないと世界の孤児になる、ということを教えてやればいいんですよ。
 
もちろん日本の中でも正しい歴史を知らない日本人はほとんどでしょうからそれにも「日本史」教育を施さねばいけませんが。
 
祝日に、バルコニーに日の丸を立てる私を通りすがりに「変なやつ」とでもいうような目で見る日本人は、日本人ではない!
 
私の家の窓に掛かる「旭日旗」を見て「危ない奴が住んでる」と子供に教えるような親は日本人ではない。
 
何が本当に危ないものか、よく考えてからものを言ってほしいものですよ。
 
日本がシナや中国の属国になってからではもう遅いんですぞ、「サヨク」の皆様?

戦艦長門の思い・・・

今日は本当に久しぶりに吉祥寺に買い物。
仕事が終わってからだから、夜7時を回っていたがかの町は7時8時ではまだ眠らない。
 
いつもゆく書店の地下一階に、私の好きな軍事関係の本のコーナーがある。ここのコーナーはわりに充実していて気に入っている。
今日は、『双葉社 超精密 3DCGシリーズ』から『戦艦長門』を買いました。
 
「長門と陸奥は国の誇り」
そういう言葉があったのです。
 
かつて日本には「長門」「陸奥」という戦艦があり、この二艦は日本を代表する軍艦であり、日本国民の大きな自慢でもありました。
 
かの「大和」「武蔵」はその存在を秘匿され、一部の国民しか知らなかったことを思えば雲泥の差ではありますが、それは、それぞれの艦が作られた軍事的・政治的背景が控えていましたので。
 
大正5年につくられた初期型の「長門」は長いマストが特徴のちょっと見、旧式な感のある戦艦ではありますが、なんと41センチ砲が8門も付いている当時の「超弩級」戦艦です。
 
その後、何度かの改装の後昭和に入って近代化改装されて、おなじみの姿になった「長門」。
正面からも、後ろ面からも堂々たる姿ですね。
そして昭和18年には電探が付いてなお一層、凄みのある姿になりました。
 
この「長門型戦艦」の二番艦が「陸奥」で、この二つが並んで海を押し渡ってゆく映像を見た記憶がありますが、興奮ものでしたね。
 
今の海上自衛艦にはないものがあります。むろん海上自衛艦も素晴らしいのですが、やはり「機銃」とか主砲・副砲など兵器の数・種類が全然違いますから・・・。
 
その「陸奥」は昭和18年6月、広島県瀬戸内の柱島近海で謎の爆沈を遂げてしまいます。
原因は諸説ありますが、なぞのままです。
その中の一つはうっかり口にすれば、誰かを傷つけることになってしまう気がして私は言いたくないですね。
 
靖国神社の「遊就館」にその「陸奥」の副砲が展示されていますが、大きいものです。あと舷窓のわくもありましたね。
 
そんな『姉妹艦』の悲しい沈没を乗り越え、多くの戦闘をくぐりぬけてきた「長門」ではありましたが戦争も末期には横須賀で「予備艦」となって多くの装備品を外されてしまいました。
 
さらには機銃なども撤去されて主砲のみというあまりに「戦艦」としては哀れな、「長門」本人としては大変不本意な姿にされてしまったのです。
 
その後、8月15日を境に「長門」の運命は大きく転換することになります。
 
昭和21年、アメリカ軍に接収された「長門」はあろうことか、ビキニ環礁で原爆に実験に使われることに。
 
第一回の実験では無傷だった「長門」にアメリカは驚きを隠せなかったようです。これが7月1日。
次に同月25日の第二回目の実験では至近距離での被爆にもかかわらず、沈むことなく傾斜を持ちながらもその姿は海上にあった。
 
しかし、同月29日の朝「長門」の姿はもうそこにはなかったと聞いております。
まるで日本人の矜持を見せつけるかのように、その最後を敵に見せることなく消えて行った「長門」・・・。
 
きっと、「長門」の乗組員ーー戦死された方も生還された方もーーの、「思念」がそうさせたのではないかと私は思います。
 
アメリカにしてみれば、敗戦国の軍艦なんぞどうなろうと構わない、実験台にちょうどいいから使ってみてすぐに沈めば面白い・・・程度の考えだったかもしれません。
 
ですが戦争に負けたとはいえ日本には日本の「誇り」があります。
その誇りは、きっと「長門」に染みついていたのでしょう。戦死された方の思いとして、生きて戦後を迎えた方の思いとして。
 
その思いが、「長門」をあれほどの過酷な原爆実験でもすぐには沈めさせなかったのだろうと私は勝手に解釈しています。
 
「長門」のこの話を思うたびに感じることは、
 
「その国の国民としての誇り・矜持を保て。誇りを持ち、矜持を保っている限り、たとえその姿は消えてもその魂は決して消えることはない。毅然と居ることの美しさ、気高さを知れ。
長門はそれを、身を持って教えてくれたのだ」
 
ということです。
 
さて。
翻って平成22年の日本・・・。
 
「国の誇り」「矜持を保つ」ことがなされているでしょうか?
現政権は国家・国歌・国旗を嫌い、ご英霊をないがしろにし、国をシナ朝鮮に売り渡すようなことを平気でしています。
 
はるかビキニ環礁の海の底に眠る「長門」、これをどう見ているでしょうか?
そして国の誇りを持って戦った幾多のご英霊は?
 
 
時には南の・北の海の底に眠る艦艇のことを考えてみてあげてください。
そこからきっと今の日本のおかしな点や、かつての日本・日本人の素晴らしさが見えると思います。
 
つたない知識と思いで書き上げましたが、最後までお読みいただきましたこと感謝いたします。
先だって靖国神社・遊就館の売店で買ってきた「太平洋戦跡紀行 ペリリュー・アンガウル・トラック  西村誠 光人社刊」を今日ゆっくり読んでみました。
 
トラック諸島はいまさら言うまでもないが連合艦隊の本拠地であり、あの『大和』『武蔵』がその身を置いていたところとしても有名ですね、ここでの生活が長かったため、両艦はそれぞれ『大和ホテル』、『武蔵や旅館』と半分羨望半分揶揄されていたというのも有名な話です。
 
さて、まずはペリリュー。
ここも激戦地としてつとに知られていますね。ここに日本の陸海軍がアメリカ軍とすさまじい戦いを繰り広げそして玉砕したという島です。
 
ここでの話に、「芸者 久松」さんのお話があります。
このお話を私が最初に知ったのは、俳優の武田鉄矢氏のエッセイを読んだまだ10代の終わりごろの話です。
 
彼の文章によれば、アメリカ軍が大挙、ペリリューに上陸し日本軍を粉砕してゆく中、どうしても陥落しない山の上の機関砲台があってどうも人影は「一人」であるがこれに随分とてこずった。
そこに集中して米軍機は機銃掃射してやっとの思いでそこを沈黙させた。
そこに駆けあがった米軍兵士はたった一人で戦った日本兵に息をのみ、いたずらにその遺骸を棄損することなく、ただ顔だけでも見てやろうと鉄カブトをとったらそれがなんと女性だった。
 
武田氏の文によれば彼女は「従軍の芸者 久松」ということだったが厳密に言って「従軍の芸者」はいない。
「正論 2010年3月号」の牧野弘道氏の「ふたたび戦跡を歩く」によれば彼女は、「鶴之家」という高級料亭の芸者・久松さんである。
彼女は陸軍の某高級将校とわりなき仲だったようである。
 
彼女がなぜ、その恋人について回ったかは本人以外わかりようもないが、離れがたい何かがきっとあったのだろう。
彼女は髪を切り階級章のない軍服を着て将校の身の回りの世話をしていたという。
牧野氏の文章によれば彼女はいとしき将校の自決を見届けた後、水戸山南端の電探台にこもり交戦し、それによる米軍の死傷者は86名、うち、戦死者は7,8人に達した。
 
その後は武田氏の話とは若干違うが、米軍兵士が久松を射殺後、その体を確かめると乳房があるのに驚き、そこに十字架を建てて弔った、というお話です。
 
武田鉄矢氏はその場に行って、古びた機関銃に、
「戦いは男のものだとあれほど酒の席でも言っておきながら女の身に銃をとらせた、そんな祖国日本を今でも愛しているのですか」とこう問うたという。
 
私はそんな質問は久松さんに対して不遜であり失礼ではないかと思う、その行為それこそが真の「愛国心」であり、自決して果てた将校に対しての久松さんの深い愛情、日本女性が本来持っていたであろう愛情を感じ取ることができるのです。
きっと久松さんがその場に現れたなら胸を張って「日本を愛していますよ!」とおっしゃるに違いない、そう思うのです。
 
きっと、久松さんはあの世で愛する将校さんと仲良く暮らしている、そう思いたいですね。
 
 
そしてこの本にも出ている「パラオ」環礁。ここには海軍零式戦闘機が原形はとどめ得ないものの胴体部分はほとんどそのままに浅い海に沈んでいるそうで、確かにその写真が出ています。
 
武田鉄矢氏はこれを見てそれなりに衝撃を受けたようで、「パラオ・ゼロファイター」という楽曲を作っています。
武田氏の実父はかつて、陸軍から南方に出征した経験があって九死に一生を得て生還されたと聞いております。
そういう経緯からもかの地への思いは武田氏もひとしおあるのでしょう。
 
パラオでは戦時中を知る現地人の男性と話をします。
このとき彼は日本軍の兵士にまつわる話を聞いて、現地人が日本兵の優しさを言うのがちょっと不満だったようで「本当は痛烈な日本軍批判も聞きたかった」と白状しています。
 
しかし彼は、ということは自分の父親も俎上に上げて構わないのでしょうか?
彼の父も帝国陸軍の1兵士としてこのあたりで国のため、家族のために必死で戦ったはずです。
その父親も含めて(含めて、とはご本人はおっしゃらないでしょうが)「痛烈な日本軍批判」をしてほしかったというのはちょっと私は解せないです。
 
やはり武田氏(昭和24年生まれ)の年代はしっかり「日本否定」の教育が浸透しているなと感じました。
 
 
そして、「太平洋戦跡紀行」のページをさらにめくればそこにはトラック諸島の写真、あまりに美しい景色ではありますが、ここは激戦の地。
多くに日本人将兵の血が流され亡きがらが今も埋もれる土地とあってはわれわれは浮かれているわけにもゆきません。
 
本文の中の「トラック環礁&竹島」のページをめくると、トラック空襲で撃沈された艦船(輸送船)の中の写真。
無造作に転がされたような無残な御遺骨の写真が二枚。
輸送船「富士川丸」「愛国丸」の様子だそうです。
 
2つの頭骨が寄り添うようにしている「愛国丸」のショット。
どんな方だったのでしょうか、どんな亡くなり方をしたのかわかるよしもありません。今このお二人は頭を寄せ合ってどんなお話をなさってるのでしょうか。
 
もう何年前になるか、私は新聞だったとおもいますが
実に腹の立つ、そしていたたまれない思いをさせられた記事を読んだことがあります。
このあたり、パラオやトラック環礁は今ではダイビングのメッカだそうです。
 
日本からも当然、ダイビングの資格をとった人が大勢行くようです。
そこで彼らは何をしたか・・・
戦跡に入りこみ、静かな永遠の眠りについておられるご英霊の御遺骨を手にとって、ピースサインで記念写真を撮ったというのです。
その写真が出ていたのを思い出します。
 
得意げに御遺骨(しかも頭骨でした)を手にしてピースサインを出す日本人。
貴方が今、手にしているのは同じ日本人で戦争で亡くなった方の御遺骨ではないか!
・・・悔しかった。
私は戦没者の遺族ではないですが日本人としてその行為は絶対に許せない。その頭骨が例え、米軍兵のものであっても許せないでしょう。
 
日本人として、恥ずべき行為。それでも日本人か?
もしその手にしている頭骨が自分の親族だったらどうするのだろうか。そういうことも考えないのだろうか。
 
この地で亡くなったご英霊の遺骨はトラックの法律で持ち出すことは禁じられていそうです。
ということはご英霊はどれほど日本人が来て一緒に連れ帰ってほしい、と思われてもかなわないのです。
これほど切ない話がありますか?
 
だからこの本によれば、現地の人は今も日本兵の「幽霊」を見るのだそうです。
こちらに手を振っていると・・・。
「私はここだよ!」と示されているのでしょう。
 
そういう思いを踏みにじるような行為は断じてしたくないものであります。
やはり戦後の間違った教育がこうさせているような気がしてなりません、戦争で亡くなった方たちは「護国の神」ではないですか。
もっとそういう大事なことを私たちは声高に主張すべき時かもしれません。
 
 
「太平洋戦跡紀行 ペリリュー アンガウル トラック」
この写真満載の本はぜひ読んでいただきたいです。
これはシリーズになっていまして、既刊はほかに「ガダルカナル」「ニューギニア」「サイパン」があります。
写真も素晴らしいですが、西村氏の細かい取材による文章がいいです。
 
是非ご一読を。
 
 
 
野菜の高騰が社会問題化してるような昨今です・・・
 
うちも野菜を商っているので最近の野菜の高騰・品薄にはほとほと困っています。
 
しかしです。
野菜が余るほど豊作で、キャベツでも大根でもなんでもたとえば一個100円とかそれ以下で売っていた時期もありました。
 
そういう時消費者はなんというか。
「これ、中国産?」
「痛んでるから安いの?」
 
それに対して、
「まさか中国産のものなんかうちはほとんどないよ(一部のタケノコ水煮や、赤唐辛子位です)」
「痛んでるものは売りませんが」
 
まったく日本は裕福になったものだ。
たかだか60数年前には「配給」で食いつないでいたじゃあないか。
それがどうだ。
TVでは(私は見ないが)大食いタレントがあちこちに出しゃばって食い散らかしてそれを見て喜んでいる馬鹿タレント。
 
だいたいが、新聞のTV欄を見てもいわゆるグルメ番組が無い日は無い。
今の日本が食うや食わずの状態ならそれも理解できる。
 
しかし、今の日本は基本、飽食状態である。
たらふく食って残して捨てているのにまだこれ以上何が欲しいんだ?食いたいんだ?
 
確かに食欲は人間の命をつなぐうえで大事なものではあるから、おいしいものを食べたい見たい、という感情はある程度わかりはする。
 
ですが最近の日本の状態は少し、いやかなりおかしいとしか言いようがないですね。
変です。
 
そして可笑しいことにそれだけ「野菜が高い!」と言っておきながら立派なカブの葉っぱをむしり取ってその場に捨ててゆくおばさん。
あのねえ、カブの葉っぱはさっとゆでてみそ汁に入れたり浅漬けにしたら美味いんよ?
 
やってることと言ってることが間逆の「今時の日本人」を私は評価できないししたくない。
 
倹約の精神と、「足るを知る」精神を持っていた日本人はどこにいるのでしょうか?
 
高くてもあるだけありがたい。
そういう風には思えないものでしょうかねえ・・・・。

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