桜のためいき

日本と帝国海軍大好きな人間のつぶやきです。

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牛島中将のことなど

私の母などと話をしている時ふっと思うことは、どうしてこの世代はこれほど激しく「戦前の日本」を非難・否定するのだろうかということ。「修身」「教育勅語」などという言葉は禁句でもある。
それらの何がいけないのか私にはわからない、先ごろ「国民の修身」(監修・渡部昇一 産経新聞出版)を買い読んでみたがそこに書かれていたものを読めば「ああ、こういうことを教えられていたからかつての日本人は徳が高かったんだな」と納得こそすれ非難の対象ではない。
母などが激高する原因らしきものをあえて探すなら「テンノウヘイカバンザイ」など皇室を敬愛し国家を愛するという部分か。
愛国心・皇室崇拝=戦争に行くというあまりに短絡な思考に笑ってしまうが。
 
きっとそれは受けた教育のせいだろうというのはわかるが、激烈な言葉で戦前の日本、特に日本軍を攻撃する様は子供のころ見ていて若干の恐怖さえ感じたものだ。
 
よく言われたのは「中国やフィリッピンで日本兵は現地の子供を投げあげて銃剣の先で突き刺した」とか「中国で村を襲って住民を軍刀で串刺しにした」・・・見て来たように言うその言葉と顔つきが子供心に「日本軍は怖いんだ」というすりこみをするに十分だったと思う。
 
でも子供もバカではないもので、大きくなるにつれさまざまな本を読むようになり、決して母親の言うことが正しいとは思わなくなる。
鬼のように聞かされていた「日本軍」の軍人の中にもいい人がたくさんいた事実。
大体が母親の叔父も、母が鬼のように言う「日本軍」の将兵として出征していたのだから、それならば母は叔父のことも「鬼」とののしらねばならない。
 
素晴らしい日本陸軍の軍人の一人に、牛島満陸軍中将と言う人がいた。
この名前を聞いてピンとくる人は多いかもしれない。かの沖縄戦で第三十二軍を率いた司令官である。明治二十年東京に生まれた牛島満は明治二十七年鹿児島の尋常小学校に入学している(本来牛島家は島津藩士の家柄、満の父親の急逝により鹿児島に戻った)。その後明治三十四年には熊本陸軍地方幼年学校に入り、三十九年には陸軍士官学校に入学を果たす(二十期)。その後陸軍士官学校から陸軍大学校に学んだあと大正七年、シベリア出兵で初陣を飾る。第四十三連隊大隊長や陸軍戸山学校教育部長、歩兵第一連隊長、歩兵第三十六旅団長等を歴任し北満や北支・中支に出動。昭和十四年に陸軍中将になり、やがて彼は昭和十九年八月に初めて沖縄に赴任し小禄飛行場に降り立つこととなる。
ここから少し、彼と彼の沖縄戦についてつたない筆ではあるが書いてみたい。
彼は薩摩隼人で堂々たる体躯の持ち主、その温厚な風貌と部下に対する接し方や責任感の強さで以前から定評のあった彼の赴任で三十二軍の士気は上がり住民も安堵感を持ったという。
 
しかしアメリカの攻撃はいよいよ沖縄にその魔手を伸ばしてくる。疎開も奨励されたが、沖縄から本土まで約六百キロ。その間に敵航空機や潜水艦による攻撃もとうぜんながら予想されていた。(実際壱拾九年六月には<富山丸>が遭難し多くの犠牲が出ている)
その中で、なかなか疎開に応じようとしない県民への率先垂範の意味もあり県庁職員の家族らを乗せた第一船が鹿児島にむけ出航。疎開児童も本土や台湾への疎開を開始。
そんな中、「対馬丸」が撃沈され牛島中将は心を大変痛めることとなった。
「対馬丸」とは?
「対馬丸」は十九年八月二十一日十八時三十五分、「和浦 ( かずうら )丸」「 ( ぎょう ) ( くう )丸」とともに駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」の護衛で長崎に向け那覇を出港。この時「対馬丸」には疎開児童約七百名、一般疎開者約千名が乗船していた。
船内では、児童や一般疎開者たちが不安な気持ちで過ごしていた。何事もなく長崎に到着することだけを祈っていたに違いない。
しかし、翌晩の二十二日二十二時十五分鹿児島県トカラ列島悪石島付近で米潜水艦の攻撃を受け沈没、乗員乗客一四七六名が犠牲になった。生存児童はわずか五九人。一般疎開者の生存者は百六十八人。
この事件が、自身も人の親である牛島中将の心中は想像に難くない。いかなる思いでこの悲報を受け取ったのだろうか。
 
しかし、ごく近い将来予想されるアメリカ軍の攻撃から県民を守るため県民を疎開させねばならない。疎開事業は二十年三月まで行われ、九州・台湾などへ約八万人の県民が疎開を果たした。
その功績に、島田叡知事が大きく関与していたことを特に記す。
 
昭和二十年四月にアメリカ軍が沖縄上陸し日がたつにつれて、もう日本軍にはほとんど抵抗のすべさえなくなる。三十二軍に勤務していた女性たちは撤退を命じられ口々に軍と運命を共にするつもりだったのに、とか、私たちは自分を女とは思っていないからと抵抗するものの司令部を出てゆくこととなった。
三十二軍は南部に撤退、そしてそこで運命の日を迎えることとなる。
 
六月二十二日。いよいよ牛島司令官と長勇(ちょう いさむ)参謀長他の自決の日が迫る
第三十二軍はアメリカ側の予想をはるかに超える持久戦でアメリカ軍に抵抗し、当初一カ月もあれば沖縄を攻略しその後はそこを足掛かりに本土上陸作戦に移るはずだったアメリカの予定を大きく狂わせた。
アメリカ軍の沖縄上陸からここまで三カ月かかっていた。
なお、海軍部隊太田實中将は牛島中将らに先立つ六月十三日小禄にて自決している。
 
その日の朝牛島司令官が身に付けた白い肌着は、司令部付軍属の女性の一人が縫ってくれたもので、自決の数日前にはその女性たちに牛島司令官は、ぜひにも生き延びること、親元に帰るように頑張ること。私はあなたたちの無事を陰ながら祈りますと言って記念品を贈った。
 
若い人は決して死んではいけない。
 
しかし、牛島中将のもとに「あの女性軍属たちが自決しました」の悲報が入る。おそらく自身の娘を重ね合わせて「死んではいけないよ」と諭したのだろうが、軍属の彼女たちは死を選んでしまった。
 
牛島中将の悲しみや無念の思いはいかばかりだったであろう・・・「死なせてしまった」人一倍責任感の強い彼は自分を責めたかもしれない。
 
二十二日の晩には最後の晩餐会が開かれ、とっておきのウイスキーが開けられ残っていたパイン缶もすべて開けられる。
通りかかる将兵や中学生に牛島中将は、パインをフォークにさして差し出す。それを押し戴こうとすると、「口を開けなさい」と言って一人ずつ口に入れてくれたという。
牛島中将の温厚さは中将の馬の係をしていた沖縄男性も証言している、中将はいつも彼に穏やかに丁寧に接し「○○さん、戦争がおわったらこの馬で一緒に遠乗りしようね」と言って嬉しそうだったという。
また兵に対しても牛島中将は何かと声をかけてはその身や家族をいたわっている。
 
生存者の女性の回想によればその時牛島中将は丸で慈父のような顔で「あーん、としなさい」と言って口を開けさせるとパインを口に入れてくれた、その温顔が忘れられないという。
 
昭和二十年六月二三日、夜明け前の摩文仁の丘。
断崖の上に白い布が敷かれている、そここそが牛島中将・長参謀長・佐藤大佐の終焉の地となる場所である。
 
軍服姿の牛島中将、長参謀長、佐藤大佐が洞窟からいで来るとそこに軍刀を手に座る。
長勇参謀長の肌着には 忠則命 盡忠報国 長勇 と墨書されていた。
佐藤大佐が手にした拳銃をこめかみに当て引き金を引いた。そのあと、牛島中将が抜刀。介錯の刀が振り下ろされ――多くの人にに慕われ人望の厚かった牛島中将の人生がここに終わりを告げた。
 
そして、長かった沖縄戦も終わりを告げるのである。
 
沖縄を守るため出撃した「戦艦大和」以下十隻。そのうち四隻の駆逐艦を残し、海の藻屑と消えていった。第三十二軍は第二艦隊出撃準備の報に対し、牛島名で海軍に対し「・・・ゴ厚志ハ 感謝スルガ時期尚早ト考察スルノデ 海上特攻ノ出撃ハ取止メラレタシ」と打電していた。
 
ようするに、とても沖縄まで来ることはかなわないだろう、無理だからやめろということを示唆したのだが、海軍は<海上特攻>を強行した。ここだけでも数千の命が儚く消えた。残ったのは将兵たちの『国や家族を守るため往く』という純粋な思いだけである。
 
摩文仁の第三十二軍司令部跡は当時の激戦の跡を今に伝えている。
牛島中将が・太田海軍中将がその命を張って守ろうとした沖縄。彼ら――牛島中将や太田中将、そして多くの陸海軍将兵――の終焉の地には今も、英霊となった彼らが<外敵>からこの地を守らんとしているような気配を受けるのである。
 
矢弾尽き天地(あめつち)染めて散るとても 魂還り魂還り皇国(みくに)護らん (牛島満陸軍中将 辞世)
 
  (参考図書・「魂還り魂還り皇国護らん 沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯」将口泰浩・海竜社 ほか)
 
牛島中将
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