桜のためいき

日本と帝国海軍大好きな人間のつぶやきです。

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群馬県桐生市の小6自殺事件ほど私の心を悲しめた事件もない。
 
私も小4、5,6年と転校した先の小学校で3年間「汚い」「あっち行け」等々、聞くに堪えない言葉を投げつけられ、物を投げられいじめぬかれた経験があるからだ。
 
私が小3を終えると転校した先の小学校は、4年に進級した私たちが「最上級生」の超・新設校。今まであった小学校が人数が多すぎ「分校」化したというような感じだろうか、言ってみれば?今では考えられないが、一番多い時の児童数が二千人からいたのだ・・・!
 
私はそこに4年の最初から転校という形で入ったのだが、今まで一緒の学校から来た子たちの中では完全に浮いていた。一所懸命溶け込もうと頑張った。
が、私は当時ちょっとした疾患<湿疹>を患っており、それに悪ガキが目をつけ、「汚い」「触るな」・・・毎日やられた。
 
時には階段から突き落とされそうにもなった。
が、小5・6年の担任は事なかれ主義、というより完全に「無関心」。興味のある女子児童には今ならセクハラまがいのことも言っていたように聞いている。
 
確かにあの頃、自殺を考えていた。
今なら不登校にもなっていただろう、事実学校に行くことは危険を伴うことでもあったし行きたくなかった。
 
が、私の母は「行け!」としか言わなかったし、いじめが露見してからも「行かなくていい」とは言ってくれず私は苦しかった。
 
その頃のいやな思い出は、とうに封印したつもりであったが今回の桐生市の事件で一気にフラッシュバックしてきた。ここに書けないようなことをされたし言われた。それはもう本当に思い出したくないので書かない。
 
そうして思うことは、学校や教育委員会の適当で保身に満ち溢れた対応である。
今日は「いじめと自殺の間に因果関係は認められない」と教育委員会が言ったという。
どういう検証をしたらそうなるのか聞いてみたい。
 
もう何年も日本中のあちこちで同じような事件が起きているのにちっとも「学習」していない大人の馬鹿。
そして一番腹が立つのはいじめたクラスメートの馬鹿餓鬼ども。
 
こいつら自分のせいで人一人が死んでしまったという認識があるのだろうか?
「勝手に死にやがった」くらいにしか思ってないんじゃないのか?
 
私はこう思う。
こういう卑劣ないじめで人を死に追いやったようなガキはその顔も実名もさらしてやればいい。人間として一番恥ずべきことをした代償は大きいのだ。
 
死にたくないのに死んでいかざるを得なかった子供の無念を、それ以外にどうやって晴らすのだ?
お母さんへの贈り物にするつもりだった手編みのマフラーで、自室で一人誰にも知られないで首をつって死なねばならなかったわずか12歳の女の子の無念の気持ちを誰が思いやったのだ?
 
学校の教師も、教育委員会も人間の命や尊厳を自ら踏みにじっているとしか思えないのだ、私には。
 
普段「命を大事にしよう」だの「仲良くしよう」だの「いじめは無くそう」だのと口当たりのいい言葉、糖衣錠に包んだような甘ったるい言葉で言ってるくせにいざ、とことが起きると完全に逃げ腰になるあの卑劣な態度に私は虫唾が走る。
 
これはかつて壮絶ないじめを受けた体験がある私であるから言えることかもしれない。事実そうだと思う、私の担任も逃げた。結局卒業式のその日までいじめは続いたのだから。
 
よく「いじめられる方も悪い」という論理のすり替えのようなことも聞くがそうは思わない。どういうことがあれいじめは許されない。人間として最低の行為。
 
 
残念なのは件の小6の少女が生きてくれなかったことだ。
私は苦しかったが何とか生き抜いた、その地獄のような小学校を出て新天地を求めるべく転居した先で素敵な友人にも巡り合えた。
彼女も、たとえ不登校になってもいい、生きてほしかったと切に思った。生きてさえいればきっとまたいいことに出会えるし、わかりあえる人にも出会えるのだ。
 
かつてのいじめの後に私はいまだに苦しむ時がある、それは大勢の人のいるところに行くのが怖いことだ。
でもそんな気持ちを押し込めてなんとかここまで生きているしこの先も生きるつもりだ。
 
彼女も一年先も十年先も生きるつもりだったろうに、その当たり前の「希望」を打ち砕いた連中にそれなりの天罰が下らんことを切に願う。
 
因果応報。
検定試験の勉強の合間に、今まで読んだ本のことを思い出したり最近見た資料を引っ張り出してみましたら、素晴らしくも悲しい英霊がたの歌とその御母堂の歌を見つけました。
 
海軍特殊潜航艇でシドニー湾で戦死なさいました松尾敬宇中佐。シドニー湾に突入しましたがオーストラリア海軍の艦艇から砲撃を受け、艦は損傷。
生還はもとより期さない出撃でしたので、「もはやこれまで」と決意を固めた松尾中佐(当時大尉)は、艇付の都竹正雄兵曹長(当時二等兵曹)とともに拳銃で自決して果てられました。
のちにその潜航艇は引き上げられその勇気と愛国心に感動した豪州海軍は国内の反対を押し切って「松尾艇」「中馬艇」の乗員、計4名の海軍葬をとり行ったのです。
 
そして戦争は終わり、中佐の御母堂、松尾まつ枝刀自はこういう歌を詠まれました。
 
 君が為 散れと育てし花なれど  
                    嵐の後の庭さびしけれ
 
かつては軍神と呼ばれもした我が子、しかし、「敗戦」となった今我が子の愛国心もその死も、無駄というのだろうか・・・。
 
しかしまつ枝刀自をこのあと数十年後大きな喜びが見舞います。豪州政府が、松尾まつ枝刀自をオーストラリアに招待してくれたのです。
その喜びを、御母堂はこう詠まれます。
 
 とつ国の あつき情けにこたえばやと
                        老いを忘れて勇み旅立つ
 
そして豪州シドニー湾で御母堂は御子息が戦死なさった湾口を見つめ、「よくこんな狭いところを。・・・母は心からほめてあげますよ」とおっしゃった。
いかなる思いでシドニー湾を見つめておられたのでしょう・・・。
 
次に、神雷部隊(桜花を装備していた部隊)一式陸攻搭乗員・緒方襄海軍少佐の遺詠
 
 いざさらば 我は栄えある山桜 
                    母のみもとにかへり咲かなむ
 
この歌を、御母堂のカバンの中にそっと入れて少佐は出撃なさいました。
その歌をあとになって発見し少佐御母堂、緒方三和代刀自の今は亡き我が子への返歌
 
 散る花の いさぎよきをばめでつつも
                        母のこころはかなしかりけり
 
我が子は国難に我と我が身をささげたんだからきっと本望だったでしょう。母も名誉に思いますがでもね、やっぱりあなたがいなくなってしまったことが悲しいんです。
そんな風な思いだったのでしょうか・・・。
 
 
第55振武隊 鷲尾克己少尉遺詠
 告げもせで 帰る戎衣(じゅうい)の我が肩に
                      もろ手をかけて笑ます母かも
 
お母さん、あなたには何にも云わなくっても私のすることはみんな分かっていらっしゃるんですね。貴方の両手のぬくもりあの世に行っても忘れません・・・。
 
 
 
誠第37隊 小林俊男少尉遺詠
 死出の旅と 知りても母は笑顔にて
                       送りてくれぬ我くに去る日
 
間もなく私は死にゆく身ではありますが、後顧の憂い無くゆけるのもお母さん、あなたのその笑顔のおかげです。どうかいついつまでもお元気で。私はずっとあの青い空からお母さんを見守っていますからね。
 
 
             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
あの時代は夫婦も婚約の身も、思う同志も必死の毎日だったと思います。
そして親子・・・母にとっては我が身を痛めてこの世に出した最愛の子供です。死んでゆくことに躊躇ないわけなどない。
でもこれが息子の選んだ道であり国に報いる道であるなら・・・。
あの時代の母は本当に強かったと思います。そしてその血を、その思いを引き継ぐ日本の母として、私も強く生きて行けたらいいなあと思いました。
 
     
明治節・文化の日の今日は大変よいお天気で我が家の日の丸も嬉しそうに風にはためいています。
 
さて、先日(10月31日)に恒例の靖国神社参拝に行ってきました。薬丸示現流の演武があってとてもいい経験をしました。
 
 
そして、いつものように「遊就館」を拝観しましたがこの日何故だかとても気になったのは「戦没した子の親の気持ち」でした。
 
人間魚雷、としてつとに有名な「回天」の創案者とされ、自身もその「回天」でウルシーにて戦死された仁科関夫海軍中尉は皆さんご存知ですね。
ですから仁科中尉に関しての詳しい記述はしませんが、中尉のお母様のことを書きます。
 
昭和19年の11月3日。
山口県大津島の回天攻撃隊は出撃を目前に控えていましたがこの日突然回天搭乗員全員に休暇の許可が下り、帰省可能な隊員はそれぞれの自宅に帰省します。
 
仁科中尉の自宅はその頃、大阪にあったのでお帰りになりました。
以下はその時のことを記した、仁科初枝さん(中尉御母堂)の手記。
 
 
  ・・・あの子はよく祭日に帰ってくる。今日は明治節、なんだか関夫が帰ってくるような気がしてならない。朝から気もそぞろで落ち着かぬお昼になった。あの子の好きなものを作っても見た。座敷を整頓したり、寝具を干してみたりして、あてのない人を待っていたが、晩になっても姿を見せぬ。もうこの世にはいないかも知れぬと考えたり、また正月にでもひょっこり帰ってくるかも知れぬ、と希望をもってみたりしながら、床についたのは十時すぎてからだった。
いつかとろりとしたと思う頃、強くベルが鳴った。あっ!関夫の鳴らし方だ。はじかれるように飛び起きて玄関に出た。暗い外に立っているわが子を見た時、無事に生きていてくれたという喜びで胸がいっぱいになった。その頃神風特別攻撃隊のことが新聞やラジオに発表されたばかりだったので、いろいろ話している間に、何気なく聞いてみた。
「若い人が飛行機で敵艦に体当たりして、死んでゆくなんて、本当にもったいないことだね。必死でなくても何とか勝つ方法がありそうなものにね」関夫は何とも答えなかった。自分がいま必死の作戦を前にして、親に最後の別れにきているなどということは、おくびにも出さなかった。
次の朝、早く起きた関夫は、湯殿で頭から何杯も水をかぶりながら、何事かを祈念しているようであった。ぼさぼさに伸びた髪が、ことさらに気になるのも女親のせいだろうか
「忙しくて散髪する暇もないの」―−無言、「恐ろしい顔になったものね、疲れているの」やはり無言。
ずっと前に帰ってきた際結婚してもよいなどと言ったことを思い出したので、話してみたところ、関夫は何食はぬ顔で「前に言ったことは取り消し、取り消し、今はとても忙しいので、次に帰って来たときにゆっくり話しましょう」といった。
この日運悪く父は田舎に言っていてとうとう会えなかった。最後の食事があまり進まないので「今日はなぜ少ししか食べないの」「おかずがたくさんあるのでね、それに僕も大分大きくなったんだから、そういつまでも大食いぢゃないんだよ」と笑いながら言った。しかしお酒はうまそうに飲み「お母さんも」と杯を出し、二人で楽しく酌み交わした。これが、関夫にとってはせめてもの別れのつもりだったのだろうか。
いくら腹が決まっていても、母を目の前にしては、さすがに胸がせまり食事ものどを通らなかったのではないだろうか。
私が駅までぜひ送りたいと言ったが、門前でいいよといい、母が作った握り飯を、風呂敷に包んで手にぶら下げ、ゆったりとした足取りで去って行った。
どこから来て何処へ行くともいわないで行ってしまった。我が家のもも太郎は待てども待てども鬼が島から帰ってこない。
 
 
この当時の母親は息子を国のためにささげるというのは当然と思ってはいたでしょうが、本心ではやはり、生きていてほしいものでしょう。
仁科初枝刀自の本音が垣間見えます。
そして「今日は帰ってくる」という母親の第六感のようなもの。我が子の姿を目の前にした時の浮き立つようなお心。
でも、ちょっと様子はおかしいんじゃないかしら、思い詰めているような感じ・・・。
母親の鋭い勘に、仁科中尉は感づかれたか、それとなくそらします。
親子の間の涙の出るような心遣いです。
そして、帰隊する息子を送り出す母親の心はいかばかりだったでしょうか。心つくしの握り飯を下げて帰隊してゆく息子の後ろ姿に、きっと初枝刀自は何か、思うところがおありだったのではないかと推察します。
この手記の最後の「どこから来て・・・我が家の桃太郎は待てども待てども鬼が島から帰ってこない」の下りは、母親として大変悲しく泣ける文章です。
きっと初枝刀自は戦争が終わっても、ご自身のお命のその最後の時まで、中尉を待っていらしたのでしょう。
 
余談ですが、中尉のご遺族は、ほかの回天の搭乗員のご遺族から戦後、「あんたの息子の考えたものでうちの息子は死んだんだ」となじられたそうです。
結果的にはそうでしょう、確かにご遺族のやるせないお気持ちもわかりますがあの時代、あの情勢では誰かがしなればならなかった。皆若い人たちはすべてをわかったうえで決然として出撃してゆかれたのですから。
戦争に負けた悔しさと息子を亡くしたくやしさを、そのご遺族は仁科中尉のご遺族にぶつけたのでしょう。
その憂さを受け止めた中尉のご遺族の心中やいかに・・・・。
 
くしくも今日は、仁科中尉が最後の帰省をなさったのと同じ日付です。
ちょっとだけ、仁科中尉とそのお母さんに思いをはせてみてください・・・・

「駆逐艦」涼月の奮闘

このところ「軍艦大和」に関する記事をたくさん書いた気がします。
「大和」と言うとそれだけで何か特別な感じが否めませんね。でも、あの最後の「水上特攻」では、「大和」に負けない奮戦をし、そして奇跡的に生還した艦もあったのを忘れてはならないと思います。
 
あの水上特攻で生還した駆逐艦は
雪風
冬月
初霜
涼月
の四艦でした。
 
今日はそのうちに涼月について。
 
「涼月」、防空駆逐艦として「秋月」型11隻のうちの3番目の艦として昭和17年12月29日に三菱重工長崎造船所で竣工しました。
この「涼月」さん、すさまじい戦歴の持ち主で南方戦線で活躍して呉に帰り、整備等を済ませた昭和19年1月15日、宇品を出て16日、豊後水道を出て日向灘に差し掛かった時敵潜水艦の雷跡を発見します。直ちに回避しようとしましたが折悪しく荒天のためその雷跡発見は遅く艦橋下部に一本命中それが爆発。
ために二番砲の弾火薬庫に引火。
さらにもう一本が後部に命中。
そんなことでなんと、艦首・艦尾を失い艦の中央第二缶室、前後部機関室を残すだけのまさに鉄の箱状態に。
しかも司令・艦長以下153名戦死。この時陸軍の兵隊さんが便乗していたそうですが彼ら99名も戦死。
しかし生き残った掌機長以下の全員で力を合わせて僚艦「初月」の協力もあって呼び寄せた防備隊に曳航されて、半年に及ぶ大修理の後艦隊復帰。
出撃したもののなんという運命のいたずらか、10月16日にまたも同じ日向灘で雷撃され艦首切断の憂き目に。
しかし不屈の「涼月」は直ちに修理を行って戦線復帰!
 
となんだか因果な感じさえする「涼月」ですが、昭和20年4月の「海上特攻」にも出撃します。
 
この時はものすごい戦闘になり、「涼月」もたくさん被弾し傾斜してきます。
艦長と砲術長は防火・防水の指揮をとり弾薬とか重量物の海中投棄や、艦のバランスを保つために後部に重量物を移す、などてきぱきと指示します。
 
その後火薬庫の火災から砲弾の暴発が起き火災発生、しかしこれも必死の消火活動で鎮火します。
 
「涼月」は佐世保と連絡を取ろうと試みますが艦橋の通信機器は壊れていてだめ。
ある中尉が他の通信室を使って連絡をとった結果、夜明け前には甑島の南で、基地との連絡を取ることができました。
 
潮の流れはうまい具合に九州に向かっています・・・「涼月」は沈まないように後進で進みます。缶室・機関室の皆さんの努力は大変なものがあったでしょう。
もちろんその間機銃員たちは海面に注意を払っています。
 
後進を続けながら、九州の山々を望見し、やっとの思いで佐世保が見えてきたときの「涼月」のみんなの喜びはどんなだったでしょうか。
佐世保湾外で駆潜艇が迎えに来ます。
水偵も上空を飛んで偵察して、通りかかった漁船さえ激励してくれます。
 
・・・やがて。
 
佐世保港にいた艦艇は、艦首が水につかりそうになってしかも艦尾のもちあがった
異形の艦に最初呆然としますがそれが「沈んだ」と言われていた「涼月」と知った時、大変な感動が突き抜けます。
 
それがすごい歓声となってわきあがります。
応援です、「涼月」の乗員は手すきが艦尾に立ち並んでバランスを取りながらその応援に「軍歌」を歌ってこたえます。
 
・・・四面海なる帝国を まもる海軍軍人は・・・
 
・・・海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍・・・
 
「涼月」は皆の前でブイをとり錨を入れましたが、艦はたちまち浸水し、沈み始めました。
そこで「武蔵」を建造したドックに曳航しましたがそこで着底。
 
そのあと、排水作業。浸水箇所の隔壁を溶接機で次々切断して開放して行ったところ。
 
極めて痛ましい風景が展開したのです。
缶室では熱気のため乗組員は服も帽子も、いや皮膚さえ溶けて生白い肉塊と化していました。
探信儀についていた兵はそのまんまの姿でこと切れていたーーー。
 
全員一丸の精神が満身創痍の「涼月」を生還させたのでしょう。
自分の命を顧みず、配置に殉じて行った乗組員たち。
 
戦闘中にも配置を守りながら死んでいった士官や兵はたくさんいました。
軍医長は、腹部が裂け腸が露出した状態で戦死。
 
16歳の水測兵は絶対音感の持ち主で聴音させると抜群の音感の良さを持っていましたが艦が被弾の際、水測室から外に吹き飛ばされ艦腹にあったワイヤーにしがみついて「分隊士、分隊士」と上官を読んでいたそうです、分隊士はそれを見、聞きつけて彼にブイを投げて「掴まれ」と叫びましたがおそらく負傷していた少年兵はつかまることあたわず、穴のあいた艦腹に吸い込まれて行きました。スクリューに巻き込まれたかついに浮いてくることはなかった・・・と。
 
こうしたたくさんの英霊の支えもあったのでしょうね。
 
この16歳の少年兵の話を思い出すたび、今の16歳の幸せを思わずにはいられません。
 
こうした年少の英霊がいることにも思いを致したいものです。
 
          ・・・・・・・・・・・後日譚ですが、この奇跡の駆逐艦に興味を持ったアメリカ軍は「涼月」を接収に来たそうです。
彼らに日本人の崇高な精神が理解できたかはわかりませんが、アメリカ軍人も軍人のはしくれならわかってほしいものです。
 
「涼月」。
あの海上特攻で奇跡の生還を果たした駆逐艦です。「大和」の陰に隠れてその名すら忘れされそうな艦ですが、どうぞ何かの折に思い出してあげてください。
 
それが「涼月」のご英霊に対する何よりの贈り物だと信じています。

心打つ「弔辞」。

先だって念願の「慟哭の海」(能村次郎著 昭和42年読売新聞社刊)を手に入れた。
 
能村次郎氏、と言えば御存じの方は多いと思うがかの「軍艦大和」の副長を務め、最後の出撃で生還されたかたである。
 
この本を古書店から手に入れて一気に読んだ。本の構成としては三部になっており、第壱部は最期の特攻に関しての「慟哭の海」、第二部として「レイテ海戦」の思い出、そして第参部として「大和建艦とその威容」。
最期に戦死者と生還者の名簿がある。
 
その中で私はどうにも目がしらの熱くなる部分にたまらなくなった。
それは、昭和29年に行われた第壱回軍艦大和慰霊祭での能村次郎氏の「弔辞」である。
少し長いが、全文を引かせていただく。
 
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
       弔辞
 
慎みて、
故第二艦隊司令長官伊藤整一氏、故軍艦「大和」艦長有賀幸作氏以下、三千有余柱の英霊に告ぐ。
上空に躍る数百の敵機、海中に綾なす数十の雷跡、火風弾雨、耳為に聾し、眼為に眩む。
思えば昭和二十年四月七日、九年前の今日唯今の時刻、生死の関頭に立ち、自若として己の配置を守り、平素修練の効をいかんなく発揮す。
これ軍艦「大和」覆没寸前、艦上に奮戦する卿等の雄姿なりき。
これより先、四月五日午後三時、艦長、総員を前甲板に集めて、出撃命令を伝達せらる。運命を決せしこの一瞬、満場寂として声なし。解散して直ちに、出撃準備を開始す。かねて期する所、何の混雑もなく、何等、動揺の色もなし。諸装置を改め、兵器を点検し、淡々として作業を終わり、余暇を得て、総員家郷に筆を執る。或いは爪を切り、あるいは髪を摘みて同封す。
翌四月六日は、さらに艦内の整理を行い、準備の完璧を期す。世界注視のこの行動、万が一にも、不用意の失策なからんことを期したるなり。
午後四時、錨を揚げ、護衛部隊を先頭に、粛々として空前絶後の行動を起こす。
世の人、ややもすれば、武人に対して情味なしと云う。乞う、余に少しく当時を語らしめよ。
軍艦「大和」に乗り組みし者、皆これ、万人中より選ばれたる俊秀の士にして、平素は温厚玉のごとく、世の敬愛を一身に集め、職を奉じては忠、家にありては考、克く人の道を弁えたる模範の人々なり。
三田尻沖を進発して間もなく、手すきの総員前甲板に集まりて「君が代」を奉唱す。
夕闇に薄れゆく内地の山々。雲か霞か、遥かに見ゆる爛漫の桜花。山答えず、花語らず。万感胸に迫り、歌い終わるも暫し、動くものさえなし。女々しと云う勿れ、頬を伝うはこれ、懐かしの故国に送る惜別の涙。
同夜は、各々配置に在りて仮眠す。結びし最後の夢、夢に通いしは誰。
明くれば、四月七日の当日なり。
早朝、九州の南端、大隅海峡を西進す。暗雲低く垂れ、ウネリありしも風穏やかなり。午前八時、敵機我を発見す。かれの発する警報、手に取るがごとし。大雨将に到らんとす。嵐の前の静けさ。
悠々、昼食を喫し終わりし午後零時二十分、前方遥か、雲間に現れし艦上機の大編隊。見れば右にも左にも、一団また一団。待つ間もなく数分の後、急降下「大和」に突っ込む敵機を合図に、攻撃の火蓋は切られたり。
爾後、奮戦力闘二時間余、十数本の魚雷と、無慮数十発の爆弾を受け、大爆発を起こし、徳之島の北方二百浬の海上にて、軍艦「大和」轟沈す。
卿等の大部が生を終わりしは、この時なりと認む。
天命なりとは言え、卿等は護国の神となり、われ等のみ現世に留まりて今日の日を迎う。苦衷、何をかもってか慰めん。
然れども昨年六月、映画戦艦「大和」が公開され、この悲壮にして崇高なる事蹟が世に明らかとなるや、江湖の同情翕然として集まり、卿等の遺徳を慕うもの、日夜応接に暇なし。
この行動、時已に大勢われに利なく、固より、生還を期せざる特攻作戦なり、しかも、命令一下、莞爾として勇躍壮途に就く。精錬にして豪胆ならざれば、成し能わざるところなり。
思うに今次大戦中、報告の美談は多々あれど、この右に出ずるもの鮮(すくな)し。宜なる哉、世人仰ぎて、わが海軍の華なりとす。科学の粋、機械力の極、世界に冠たる七万トンの巨艦に乗りて、壮烈無比の特攻作戦に従い、名を後世に残す。卿等、もって瞑すべきなり。
われ等生存者一同、益々操志を固くし、和衷協力、卿等の志を継いで、平和社会の建設に努力せんとす。
霊よ、永遠に故国を守り給え。
変転九星霜、同じ春、桜花の下、本日ここに姿なき卿等を迎う。感慨転転禁ずる能わず。恨むらくは、卿等、呼べど答えず。この盛儀を語るに由なし。哀悼何ぞ勝(た)えん。
若しそれ、この席に列せらるる遺族の胸中を察せんか、胸逼りて誓う所を知らず。眼を閉ずれば、卿等の温容、今なお髣髴として脳裏に浮かぶ。嗚呼、悲しい哉。
聊か、蕪辞を連ねて幽魂を弔う。
在天の英霊、願わくば来たり饗(う)けよ。
 
 
 
              ・・・・・・・・・・・・・・・・
私はこの「弔辞」の中の最後の部分、とくに
>霊よ、永遠に故国を守りたまえ
から先がどうにも胸に響いて泣きたくなる。能村次郎氏の、戦死者に対する哀切な心がまっすぐに届いてくる気がしてならない。
きっとこれを聞かれたご英霊も、そのお心を慰められたに違いないだろう。
 
しかし時代はそのような感傷を許すべくのないのか、この後戦後の高度成長を境にこうした話は忘れられ、どころか国のために戦ったご英霊は「戦争犯罪者」としてないがしろにされ糾弾されるという非道な扱いを受けることになるのは皆さん御承知のとおりである。
今一度この当時の心に戻って、素直な心でご英霊をお祀りすることが、この先の日本をまともにする第一歩ではないかと思う昨今である。

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