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群馬県桐生市の小6自殺事件ほど私の心を悲しめた事件もない。
私も小4、5,6年と転校した先の小学校で3年間「汚い」「あっち行け」等々、聞くに堪えない言葉を投げつけられ、物を投げられいじめぬかれた経験があるからだ。
私が小3を終えると転校した先の小学校は、4年に進級した私たちが「最上級生」の超・新設校。今まであった小学校が人数が多すぎ「分校」化したというような感じだろうか、言ってみれば?今では考えられないが、一番多い時の児童数が二千人からいたのだ・・・!
私はそこに4年の最初から転校という形で入ったのだが、今まで一緒の学校から来た子たちの中では完全に浮いていた。一所懸命溶け込もうと頑張った。
が、私は当時ちょっとした疾患<湿疹>を患っており、それに悪ガキが目をつけ、「汚い」「触るな」・・・毎日やられた。
時には階段から突き落とされそうにもなった。
が、小5・6年の担任は事なかれ主義、というより完全に「無関心」。興味のある女子児童には今ならセクハラまがいのことも言っていたように聞いている。
確かにあの頃、自殺を考えていた。
今なら不登校にもなっていただろう、事実学校に行くことは危険を伴うことでもあったし行きたくなかった。
が、私の母は「行け!」としか言わなかったし、いじめが露見してからも「行かなくていい」とは言ってくれず私は苦しかった。
その頃のいやな思い出は、とうに封印したつもりであったが今回の桐生市の事件で一気にフラッシュバックしてきた。ここに書けないようなことをされたし言われた。それはもう本当に思い出したくないので書かない。
そうして思うことは、学校や教育委員会の適当で保身に満ち溢れた対応である。
今日は「いじめと自殺の間に因果関係は認められない」と教育委員会が言ったという。
どういう検証をしたらそうなるのか聞いてみたい。
もう何年も日本中のあちこちで同じような事件が起きているのにちっとも「学習」していない大人の馬鹿。
そして一番腹が立つのはいじめたクラスメートの馬鹿餓鬼ども。
こいつら自分のせいで人一人が死んでしまったという認識があるのだろうか?
「勝手に死にやがった」くらいにしか思ってないんじゃないのか?
私はこう思う。
こういう卑劣ないじめで人を死に追いやったようなガキはその顔も実名もさらしてやればいい。人間として一番恥ずべきことをした代償は大きいのだ。
死にたくないのに死んでいかざるを得なかった子供の無念を、それ以外にどうやって晴らすのだ?
お母さんへの贈り物にするつもりだった手編みのマフラーで、自室で一人誰にも知られないで首をつって死なねばならなかったわずか12歳の女の子の無念の気持ちを誰が思いやったのだ?
学校の教師も、教育委員会も人間の命や尊厳を自ら踏みにじっているとしか思えないのだ、私には。
普段「命を大事にしよう」だの「仲良くしよう」だの「いじめは無くそう」だのと口当たりのいい言葉、糖衣錠に包んだような甘ったるい言葉で言ってるくせにいざ、とことが起きると完全に逃げ腰になるあの卑劣な態度に私は虫唾が走る。
これはかつて壮絶ないじめを受けた体験がある私であるから言えることかもしれない。事実そうだと思う、私の担任も逃げた。結局卒業式のその日までいじめは続いたのだから。
よく「いじめられる方も悪い」という論理のすり替えのようなことも聞くがそうは思わない。どういうことがあれいじめは許されない。人間として最低の行為。
残念なのは件の小6の少女が生きてくれなかったことだ。
私は苦しかったが何とか生き抜いた、その地獄のような小学校を出て新天地を求めるべく転居した先で素敵な友人にも巡り合えた。
彼女も、たとえ不登校になってもいい、生きてほしかったと切に思った。生きてさえいればきっとまたいいことに出会えるし、わかりあえる人にも出会えるのだ。
かつてのいじめの後に私はいまだに苦しむ時がある、それは大勢の人のいるところに行くのが怖いことだ。
でもそんな気持ちを押し込めてなんとかここまで生きているしこの先も生きるつもりだ。
彼女も一年先も十年先も生きるつもりだったろうに、その当たり前の「希望」を打ち砕いた連中にそれなりの天罰が下らんことを切に願う。
因果応報。
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