Nobby のサーフ&グルメ

ナダクとその周辺のグルメの探求に、時々サーフィン時々スノボ

ネパール&インド 1980

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マドラス(現チャンナイ)は小奇麗な小都市に見えました。
乗り換えで、数泊しただけですが、街並みも明るい感じで整然としており、道路沿いにパームツリーとか植わっているのでカリフォルニアみたいと思わせる部分もありました。
このあたりまで来ると、日本人はさすがに見かけません。
ただ一人だけ日本人女子と出会い、そこそこきれいなホテルのレストランで話しましたが、「こわくて歩けない」というのです。
「この辺りはそんな怖くないよ」と言ったんですが、その方はこわい、こわいと言います。
実はその女子は北海道の方で、北海道弁で「疲れる」=「こわい」と言うのだそうですが、その時は知りませんでした。
それからたまたま映画館で、日本でもヒットした「ラブバック」というのがかかっていて(心があるフォルクスワーゲンみたいな話)見たのを覚えています。
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マドラス(現チャンナイ)からエレナクラム経由コーチン(コチン)を目指しました。
細野晴臣さんのコチンムーンというアルバムを、日本で聞いていたので、興味がわき行ってみたくなりました。
ベンガル湾沿いに南下していく主要路線が無いという事もあったのですが、地図を眺めながら好きなように進むという旅もそうできることではないので、わくわくしながら旅ができました。

夜、マドラスの駅に向かうと駅前はホームレスでいっぱい。
綺麗な街という印象を持っただけにちょっとショックでした。

列車は噂どおり大幅に遅れて、到着しません。
現地の人達はコンクリの床に薄い布を敷いて横になり平然とした感じ。
深夜近くになってやって来た列車の長い車列から、なんとか自分たちの寝台車両を見つけて、乗ることができました。
しかし、なんと自分たちの寝台はダブルブッキングになっていると乗務員にいわれ唖然・・・
ひっしのパッチで、強力に自己の権利を主張してなんとか寝台をゲット、ほんと疲れる。

早朝、エレナクラムの途中の駅に停車すると、チャイ!チャイ!チャイ!  コヒ!コヒ!コヒ!と、チャイ売りとコーヒー売りが競うように売り歩きます。
その売り声は今でも耳に残っています。
南インドは、コーヒーでも有名なんです。
駅で買ったピーナッツにはチリパウダーがかかっていました。
自分は特に大きな都市には興味がなかったこともあり、カルカッタ(現コルカタ)では下車せず、丸一日列車に揺られ、ベンガル湾沿いを南下しブバネシュワールというヒンドゥー教の聖地(仏教遺跡でも有名)へ向かいました。
ブバネシュワールの海岸部にあるプーリーという処が目的地です。
プーリーの情報は持っていませんでしたが、出会う旅行者達は一応にいい処だから行ってみればと言うので興味を持ちました。
ブバネシュワールでローカル線に乗り換えて、プーリーへ到着。
右も左も分からず、列車で知り合った事情が分かっていそうな白人旅行者にくっ付いて、海岸の方へ。
あとは力車をつかまえて、何とかその日の宿へ辿り着きました。
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当時は旅行者相手のレストラン(例によって掘立小屋だけど)は一・二軒あるだけの村でした。
現在ではバックパッカーの「沈没地」として、名をはせているのだそうです。
プーリーはカルカッタより南に位置しますから、かなり暑いところのはですが、一日だけ日本の冬のような日があってびっくりしました。
ネパール経由の自分達はダウンジャケットを持っていたのでそれを着て表を歩くと、現地の人には珍しかったようで、かなりオオ〜!という目で見られました。
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通りの角にあった旅行者相手のレストランのオーナーは英語も出来ないし、それどころか計算ができない。
勘定は、小さな黒板に食べたものの単価を連ねて書いて、旅行者自身が合計して支払うという、いやはやなシステムです。
ビーチに立つと南北共に地平線まで海岸が続いています。
水平線は弧を描いて見えるというスケールです。
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ところが残念なことに、浜辺は現地の人にとってのトイレだったのです。
なので、あまり浜辺に近づくことは出来ませんでした。
他の方のブログによると、現在でも「プーリーの浜辺の様子」は変わっていないようです。
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さて、旅を進める為にマドラス(現チャンナイ)に、移動することにしました。
チケットを買う為に、一旦ブバネシュワールまで出てきました。
さすがに聖地だけあって行者も多く、中には自分で自分を鞭打って練り歩く行者もいてびっくり。
チケットを買うため駅に戻ると、窓口の前は現地の人が列を作っていました。
列についてもどんどん割り込んで来るんで、これでは宿のあるプーリーへ戻る列車が無くなってしまいます。
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けっこう、やばい局面だったんですが、「君達、レディーファーストっていうの知ってるよね」と連れ合いを強引に列の前に押し込んで、なんとかマドラス行きのチケットをゲット。
本当にぎりぎりで、プーリーへ帰る列車に乗ることが出来ました。
ちょっと強引でしたが、向こうもどんどん割り込んで来るので、宿に戻る為には止む得ませんでした。

プーリーの駅に着くと、見たようなインド人が改札で駅員ともめています。
近づくと、例の旅行者相手のレストランのオーナーでした。
偶然、一緒の列車に乗っていたようです。
なんだか無賃乗車をしたようで金払う払わんでもめていました。
なかなか強力なおっさんでありました。
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ちなみに、インドでは巡礼をする人が多く、その人達にとって無賃乗車は許される行為の範疇であるというのは、目の当たりにしています。
たぶん、こちらでいうバクシーシ(ゆわばお布施)の延長的な発想なのだろうと思います。
もちろん、お金がある人はちゃんと払い、お金が無い人でもちゃんと巡礼ができるということなのでしょう。
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通りの奥にあった、もう一軒の旅行者相手のレストランは宿泊もできたので、何人かの日本人が泊まっていました。
サンタナロッジと言います。
現在では現地にロッジの他に大きなホテル、サンタナ・ホテルを建て、大阪は難波でインド料理 サンタナも経営しています(その他に奈良に2店舗、丹波に1店舗)。
あれから30年経った今、我がナダクに近い芦屋にも支店インド料理 サンタナを出したのだそうです。
インドからネパール(カトマンドゥ)へ陸路で入った人の話は一応に「ほっとした」ということで一致します。
カトマウドゥには当時から日本食のお店やカレー以外のものを食べさせるお店が多かったせいもあるでしょうが、なにより「人あたり」というものがインドのそれとは大きく違うというのは、、ネパールからインドに下った自分の強い印象でもあるのです。
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カトマンドゥからインドへは空路で一番近いパトナという都市にやって着きました。
まず空港から一歩出ると、気のせいなのか人の目つきが違うように感じます。
ジロリと刺すような感じ、ちょっと怖い・・・
リキシャ(人力車です)に乗って宿を探しますが、約束した金額を渡したあとバクシーシー(お布施)をねだってます。
少し位あげてもいいという気持ちはありましたが、法外な金額を勝手に決めてしつこく強要してきます。
全く信じられない。バクシーシーは渡す側の善意なのに!!インドの旅は喧嘩で始まりました。
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パトナから列車でガヤ。ガヤから乗り合いの小さなバスのような車でブッタガヤへ。
ブッタガヤで泊った宿は公営のツーリストバンガローですが、ここで悪霊に取り付かれた従業員を見てしまいました。
男性なのに女性の声になって何かわめいています。
お坊さんを呼んでお祓いをしたらすぐ悪霊は出て行ったそうです。
ここは場所柄、各仏教国のお寺が集まっていますから、お坊さんには事欠きません。
宿のマネジャー氏いわく、「あんたらは外人だから、悪い霊は入らないよ」と普通に言われました。
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数日後、しつこく部屋をノックされましたが、どうせガヤで知り合った物売り(ここは日本人相手の数珠屋が多いのです)だろうと無視を決め込んでいました。
ところが次の朝、ノックをしてたのは宿のスタッフで今朝すぐに部屋を開けて欲しい理由があったというのです。
その理由は、ブータンの皇太子一行が宿を貸し切るとのことでした。
その後、ブータンの人達の民族衣装を初めて見ることになりますが、日本の着物にかなり近いものを感じました。
ただ、着てるものは着物に帯なんだけど、下がハイソックスと靴なんですね。
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その日、近くのやはり公営の宿(ドミトリー・オンリー)に移りますが、、マネージャー氏は嫁が産気づいたと帰ってしまったそうでチェックインできません。
掃除のおじさんに、机の引き出しに宿帳が入っているはずだから出してみてと宿帳を出させ、自分で勝手に記帳してチェクインしてしまいました。

ところがその宿で熱を出してしまい、寝込んでいると、斜め向かいのベッドの方がお坊さんで、これを塗れば楽になるよと、メンソールのクリームをくれました。
そのお坊さんは、ビルマ(現ミャンマー)から一人で歩いてここまで来たと言っていました。
それから、チベット人の宿にも泊ったけれどそこはテントに雑魚寝という宿でした。
ブッタガヤはチベットの難民が暮らす村でもあったのです。
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大晦日には日本人寺で、お勤めをして雑煮をふるまって貰うつもりが、慣れない姿勢に足がしびれ、お堂を回れなくなり敢無くリタイヤ。
すごすご宿まで戻る途中、「お勤めをすれば雑煮をふるまって貰える」と教えてくれた先輩方とすれ違い、「お勤めが終わった時間に行けばお勤めせずとも雑煮はふるまって貰える」と言われガックリ。
お寺に戻る元気はもうありませんでした。
1980年12月の31日は、月灯りで人影も濃い夜でありました。

ネパール語のタトパニは熱い水=温泉という意味です。

タトパニ(1189m)の村の中心の少し手前に「スルジェ・ロッジ」という宿があるというのは、出国する前から知っていました。
「ヒマラヤの花嫁」という本を読んでいたからです。
著者は平尾和雄という人で、タトパニ村の外れでチャイハナ(茶屋)を営んでいた現地の娘スルジェと結ばれ、周囲の協力を経て宿をオープンさせたと知っていたのです。

◆窓ガラスなんてありません。
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私達が宿泊した時には平尾さんは一時帰国しており、スルジェ・ロッジには私達と同じ旅行者が、助っ人で平尾さんの代りをしていました。
その方と話をしていると、とても偶然なのですが、その方と私は同郷だったのです。
しかも私鉄で駅4つ程の距離にお住まいの方でした。
そのことに甘えて、借金のお願いをすることにしました。

◆ロッジ前。下はカリ・ガンダンキ(黒い川)奥にはアンナプルナ・サウス。
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日本円で1000円もあれば銀行のあるジョムソンまでは楽勝に辿り着けます。
とはいえ、ヒマラヤ山中の1000円はかなりの大金ともいえます。
とにかく幾ばくかの現金(ルピー)を貸していただける事になり、温泉のあるこの村で3日ほど休養を取ることができました。
おかげで、チャイのお代わりを我慢することもなく、自家製のロキシー(ネパール焼酎)も遠慮なく楽しむ事が出来ます。

数日後、お世話になったスルジェ・ロッジを朝早くに発ちました。
そして、靴を脱いで凍るような川を渡ったり、賽の河原かと思わせるような大きな河原を延々と歩きました。
風景は荒涼としたものになり、寺院などはチベット仏教のもに変わっていきます。
村の入り口には必ずゲートがあり、そのゲートの天井には曼荼羅が描かれていました。
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目的のジョムソンが近づいてきてきます。
それにつけ、幾つかのポカラへ戻るグループと出会い会話をしましたが、一様にジョムソンからポカラへの飛行機の順番待ちをしていたが幾ら待ってだめなので、諦めて歩いて戻るんだと言います。
膝を痛めた為、飛行機で戻らないと仕方ないと思っていただけに、ちょっとショックでしたが、ジョムソンを目指します。

到着したジョムソンでは早速両替をし、航空会社(といっても当時はロイヤル・ネパールのみです)に行って予約を取ろうとしますが、聞いていたとおりいつ乗れるか分からないとのこと。
当日でないと分からないので毎朝来いと言われてしまいました。
とにかく、ここがジョムソンで一番大きなロッジ(とはいえ当時はロッジなど数えるほどもなく、立派なものなどなりません)かなというようなとことへ泊ることにしました。
宿の天窓からニルギリ(7061m)の姿が近くに見れました。
大きな岩をどんと置いた感じ。それが夕方にはオレンジに染まります。
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同じ宿の白人は、やはりここで一週間は待っていると言っていました。
次の日の朝、空港のオフィスに出向いて見ると、「今日乗れる」と耳を疑う言葉。
訳がわかりませんが、急いで支度をして飛行場へ向かいました。
飛行機はかなり小さいし、滑走路は未舗装の上に短く、ちょっとびびりましたが無事に離陸。
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何かキツネにつままれたような話です。
ジョムソン空港のオフィサーが私達のことを特別扱いする要素は日本人であるということ以外に考えられません?
(大チョンボ×2)-(大ラッキー×2)っていうような感じで無事ポカラまで戻って来ることができました。
牧歌的この上ないポカラが都会のように思えたという記憶があります。
ネパールの人達は何かしら私たち日本人に近いものを持っている人達であるというふうにも思いました。
年末が近づき観光客がどんどん増えだしたネパールを後にして空路、インドはパトナに下っていきます。
山へ入る前に両替をし忘れたので、現金の所持額が乏しく、道中はかなり節約しないといけなくなりました。
小雨に降られ、冷えた身体を温めに入った山中のチャイハナ(茶店)でも、僅かな額のチャイのお代わりも我慢するような有様です。
先を急ごうにも、初日の無理がたたりヒザを痛めてしまったので、登りはともかく下りはヒザに負担がかかり痛くて思うように歩けません。

◆ガーサ(2012m)のあたりの河原。賽の河原のよう・・・
遠くに点で人が見えて向かって来るのが見えますが、実際は出会うまでにかなり時間がかかります。
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その日の宿泊地であるビレタンティ(1100m)への道程は延々下りが続く為、明るい内に着けない可能性がありました。
連れ合いに荷物を託して、一人で先に村に入って宿を確保しておくようにお願いしました。
自身は片足を引きずりとぼとぼ一人で下りましたが、なんとか陽のある内に村に入り、連れと合流する事ができました。
登りはなんとかヒザも使えて、ヒレ(1524m)という村で、宿泊しました。
明くる日は、ゴレパニ(2853m)を目指しますが、なぜか正午頃に到着したウレリ(2120m)で荷を解いたトレッカーが多くて不思議でしたが(理由は後に判明します)、私達は昼食だけ取って先に進むことにました。

◆出会うと、小さな商隊でした。ネパール語で話かけられましたが、残念ながら通じません。
北方ネパール人と日本人の顔つきは同じであるといっても良い位近いものがあります。
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途中、本格的な雨に合い、運良く有ったオ−バーハングした岩陰にしばし避難していました。
ここで大きく時間をロスしてしまいます。
ある程度の標高のところは午後からは天候の悪化も想定して、動かないというのが山の定石であるという事は帰国の後に、理解することになります。
その後も雨は止まず、幾度か停滞しながら、進みました。

木陰で雨を避けているとネパール人2名が下から登ってきて、こちらを見てナイフを出したのでビビりました。
ゴラパニ峠は盗賊が出ると聞いていたのです。
彼らはナイフでビニールを裂いて広げ、これで雨を防げと渡してくれました。
良い人達でほっとしましたが、ぎょっとした瞬間でした。
陽は暮れて暗くなった道は、雨でぬかるみ、勾配がきつい為、木の枝を掴みながらでないと登れませんでした。

遠くにゴレパニ村の灯りと思しきものが目に入り、なんとかなりそうだと分かり最後の力を振り絞って、ぎりぎりセーフな感じで村に辿り着くことができました。
宿になだれ込んだ私達の「ふらふらさ加減」を見て、宿のスタッフは「ジャパ二ーズダンスね」と言って笑います。
宿は正味の雑魚寝状態ですが、囲炉裏があったので本当にほっとしたし助かりました。

カロパニ(2520m)のあたり。後方の山はニルギリ・サウス。
まだ木々もあり、眺めの良いところです。
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帰国後、長野県は白馬岳(2983m)の2100mに位置する鑓温泉に登りましたが、登山口で軽装であることを咎められました。
4・5時間で鑓温泉小屋に到着しましたが、明くる日は小屋の人に朝一で下るよう促されました。
数ヵ月後、偶然テレビで某タレントが白馬岳・鑓温泉に行くという番組を見ましたが、天候悪化の為、テントビバーグ(野営)となりその日に着けなかったというのを見て、なるほどと思いました。

◆看板には、ようこそムスタンへとありますが、ムスタンはジョムソンのずっと北方、チベットに近いネパールの自冶区なのです。
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ジョムソン街道は2853mのゴレパニ峠を越えますが、登山靴にニッカボッカという日本人もいれば、ゴム草履にジーパンの白人もいて、現地の人は裸足で歩いていたりしています。
自分はアディダスのスニーカーでしたが、ゴム草履の白人に大そうな靴だなと皮肉を言われました。
世界は広いし、山は奥が深く人の価値観は様々であると実感せざる得ません。・・・
温泉のあるタトパニに向かって峠を下ります。

そこに意外な出会いがありました。

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