楕円の転がり、心の転がり・・・

家族、ラグビー、仲間が命・・・私の生き甲斐。夢に病んだ楕円オヤジの内緒の備忘録。

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和解のCM

 
このCMはまったく脚本なしで作成されたらしい。
そうなのだろう。江川の硬い表情が何よりの証左だ。
 
小林さんは江川を許していたのだろうか。
人を許すこと、人に優しいことが本当の意味で強いのだと思う。
この映像での小林さんの言葉は、半ば許したようでもあり、優しく、強い人のそれであるとみえる。
 
過日、大衆寿司屋で友人が語ったひとことを思い出した。
「選んだものより、選ばなかったものから学ぶことの方がはるかに多い」
運命を選べぬ中で、重い病と闘う彼の言葉は、しばし私を思考の海に放り込んだ。
 
巨人を選ぶことしか考えなかった江川。
それでも、その固執が生んだものは自身の「夢」の実現であった。
ただし、生きている限りずっと「あの」がついてまわる、いわくつきの夢である。
これを正解とできるところこそ、彼が真の怪物である所以であろう。。
 
実際のCM
 
 
◆このCM、小林さんは当初は拒否の姿勢であり、そもそも江川だって出ないだろうと言ったところが、江川が承諾して実現したらしい。江川にしてみれば、特殊なシチュエーションとはいえ生前に和解の場ができたわけで、心底感謝に値するだろう。
それにしても、小林さんの突然の死は無念であった。
 
 
 
 
 
 
 

 

  
サッカー、台湾、熱いじゃないか。温かいじゃないか。
こんな思いが被災地の方々を勇気づけるのだと思う。
 
俺は募金、節電、節ガソリンだ・・・ほかにできることはないか、ただ自問自答である。。
 
つい先ほど、近くの新聞販売店に駆け込んだ。
昨日の東京新聞夕刊が欲しいと告げると、奥から薄いペーパーを出してくれた。
40円と引き換えに店を出ると、自転車にまたがりながら新聞を開き、記事を探した。
藤島大さんの連載コラム「スポーツが呼んでいる」。
今回は尾藤元監督追悼 名将スパルタのち笑顔
 
自転車をまたぎながら、貪るように読んだ。たぶん変人みたいだった。
勧誘の声をかけようとしたのか、店主がいったん出てきて引っ込んだ。
遠い夏、私のブラウン管の中の思い出・・・79年夏の箕島‐星稜戦にまったく触れずに、尾藤さんの指導を描けるところが藤島大さんのすごさだと思う。
 
帰宅後、一言だけ妻に言った。
「東京新聞にしよう!」
 
イメージ 1
 
 
先週、吉祥寺駅北口の毛細血管みたいな路地を潜った。
屋台と店舗の中間みたいな焼き鳥屋。
少しばかり疲れた様子のNは、私に1枚の新聞コピーを見せた。
「たまに見るんだ。オレがすごい好きな記事だ」
文章を書くことも、読むことも好きな彼の一番好きな記事らしい。
 
Nは前にいた会社の同期で、アメリカンフットボールのプレーヤーであった。
会社の同期とは言っても、彼は会社の部に所属せずに、クラブチームでプレーをすることを選んだ。
 
コピーを見るとそこにはコラムがあった。
「風と光と」 佐瀬稔 (あとで調べると中日スポーツだった)
そこには、前日に日本一となったアサヒビール・シルバースターの初の日本一を称える文字が、丹精に、そして叙情的に並んでいた。その洞察眼は選手を鼓舞するチア・ガールの未来にまで及んでいた。
文中に出てくるフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビィ」の主人公、トム・ブキャナン。
名家に生まれ、学生時代はフットボールの花形選手。あまりに早過ぎる絶頂を経験したあとは「すべて下り坂の人生」を落ちて行った。
 
なぜにシルバー・スターの戴冠にトム・ブキャナンなのか。
コラムは山本コーチのコメントに続いて、こう結ばれていた。(以下引用)
 
「信じてはいましたが。しかし・・・・・感無量です。夢を果たす前に辞めていった者も、二百人ほどいますし・・・・・」
青春の話はそこまで。
10回を数えるライスボウルは、学生5連勝のあと前年、今年と2度続けて社会人が勝った。日本のアメリカンフットボールはいよいよ"書生さん"から職業人の時代になったと断言できる。トム・ブキャナンになることを断固として拒否した男たちの、である。
引用おわり
 
人の心配する前に、自分の心配しろよ。そんな、楕円違い同士の互いのお節介。
決して軸足のブレることのないNとの交流は、こんな風に20年以上続いてきた。
会社生活の中でも幾度か助けられた。
シャイで口ベタだけれど、軸足は絶対にブレないから信頼できる。
 
彼も、トム・ブキャナンになることを断固として拒否した男に違いなかった。
当時も、そして今も。。
イメージ 1
 
週末に行った妻の実家で目を通した読売の夕刊。
そこに、ある元プロ野球選手の訃報が掲載されていた。(7/10・大阪本社運動部 北谷圭さん)
タイトルに 「ドラフト1位 魂こめて」とあった。
 
島野修さん。脳内出血で死去されたのは5月8日のこと。(享年59歳)
記事の脇には、阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」の着ぐるみを脱ぎながら、笑顔を浮かべる写真があった。その名前と、優しい笑顔は私の記憶に鮮やかだ。
 
私が野球を始めた小3の時、島野さんはジャイアンツに在籍していた。
右肩のケガなどもあり、なかなか結果の出ないドラフト1位は、歯がゆい思いの真っ只中であったにちがいない。そんな島野さんの顔は、当時私が穴があくほど見た週刊ベースボールの写真名鑑で、しっかりと焼きついている。
サイドスローの小川邦和という投手のファンであった私は、島野さんの顔を見て、この心優しそうなピッチャーもいつか活躍できればいいのにと願っていた。
 
武相高校で甲子園2回。同期は田淵、星野、山本(浩)と、そうそうたるメンバー。
ケガの不運もあってか、巨人ではなかなか花咲かず。巨人から阪急に移籍したのは、私が応援していた翌年であった。
しかし、阪急に移籍後の3年間は1軍当番もなく、28歳のときに現役を引退した。通算成績1勝4敗。
価値ある1勝は巨人時代のものである。
その後、球団からの要請で、マスコットであるブレービーの着ぐるみの中に入ることに。
当初は断るつもりだった気持ちを変えたのは、ビデオで見た大リーグの試合だったという。
大きな鶏みたいなキャラクターが観客の心をつかんでいる・・・。
その後、彼が「ブレービー」として日本のプロ野球ファンの心をつかんだのは言うまでもない。
 
記事の活字を追いながら、野球少年時代の憧れを思い起こし、感傷的になっていた心を激しく揺さぶった一部分を引用させて頂きたい。
 
 
ブレービーの着ぐるみは、頭と顔を合わせて10㌔以上。夏には1試合で2〜3㌔もやせた。何よりつらかったのは、スタンドからのヤジ。「ドラフト1位が何やっているんや」
折れそうな心を救ってくれた出来事があった。ある夏の夜、球場近くの居酒屋で一人で食事をしていると、一組の親子の会話が聞えてきた。
「あしたも、ブレービーを見に行こうね」。そう言って、男の子が目を輝かせていた。
盛り上げ役としてのこだわりは強く、劇団に通って振り付けを学んだ。転倒して肋骨を折っても、40度の熱があっても休まなかった。91年、球団の愛称が「ブルーウェーブ」に変わり、名前は「ネッピー」へ。98年に48歳で退くまで、1175試合に ゛出場゛した。
(引用終わり)
 
 
夏の夜に、居酒屋で目を輝かせていた子供は、まさにそのとき、すぐそばで食事をしているのが「あの」ブレービーだということなど知る由もなかった。それはブレービーだけが知っていた。
人は自分の生き方を創ることができる。
「魂こめるもの」も決められる。
自分自身の生き方だから。
 
少年とブレービーのおとぎ話みたいな実話に、土曜日の縁側に続いて、こうしてまた熱いものがこみ上げてしまった。
 
島野さんがのどを潤し、自らのサインを記したヤカンは、現在のネッピーもいまだベンチ裏で使っているという。
関西のプロ野球団にも偉大なヤカンは存在するのである。
 
島野修さんに、そしてブレービーに合掌。
 

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