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 外は雪が降り、私道はところどころ凍結している。
 滑りやすい道になっている。そこを30人くらいの学生たちが「うわー滑る、ワハハ。。。」ときゃきゃ騒ぎながら、どひゃどひゃ過ぎていった。
 
 車が来なかったからよかったようなものの、車が来れば車は進めなくなり、二輪駆動だと滑って動けなくなる。これは例年しばしば起こる光景だ。だから、心配した町内会会長は冬期間の通行止めを福祉大と合意し、回覧板で町内にも回覧し、「冬期間通行止め」の大きな看板を福祉大自身が立てている(誤解のないように断っておくが、そもそも私道の共有者は、この私道を福祉大の通学路にすることには一貫して反対している)。

 それなのになんだ。自分の学生が事故に遭うかもしれない危険があるにもかかわらず、何の学生指導もしていないではないか。

 「ボランティアの学生がいないから、できません」とは言わせないぞ。「ボランティア」とは、学生をただで使うことではない。根本的な理解を誤っている。

 あるいは「学生の一人でも事故にあったら考えましょう」ですか?

 こんな人命軽視の学校が大学の看板を掛けているのかと思うと、それだけでなさけない。

 すこしは、せめて自分の学生のことくらい心配してあげなさい!!
 

 新しい年が始まって早いもので、2週間あまりがあっという間に過ぎてしまった。
このブログを休んで一ヶ月あまりが経ち、最近は、人から、「「迷惑行為」もなくなったのですか」とか「静かになりましたか」とよく聞かれる。

 このところブログを上げなかったものだから、心配してくれている人たちは、問題が解決したのだ、と勘違いしたようだ。

 遺憾ながらそうではないのです。
「いや実はこうですよ」と委細に説明していると舌はだんだん滑らかになってくるものの、こちらも身体が持たない。東北福祉大学による「騒音被害」はおさまる気配はなく、ますます陰湿になってきている。

 最近は2カ所に「冬期間通行禁止」なる看板をでっかく掲げておきながら、通行禁止などまったく実行しておらず、依然として平然と「迷惑行為」を続けている
(なお「迷惑行為」の実態の一部は、このブログを参照されたい。http://blog.goo.ne.jp/silence_2007_august)。これでは交通事故が起きるのを懐手で待っているようなものだ!!

 学生の安全一つとっても、これほど無神経でいられる「教育機関」があることにいまさらながらあきれると同時に、その蛮勇には逆に感心させられる。

 悪質としかいいようがない。これでは、学生教育に際して、「学校の規則など守らなくてもいいよ。守るふりだけしていればいいんだ」と教えているわけだ。いやそれだけではない。「社会に出ても約束など守らなくてもいい。守るふりさえすればいいのだ」という、生きた手本を示しているわけだ。

 こんな破廉恥なものを私たちは学校とはいわない。が、それにしても、このような「大人」の背中を見て育つ学生は気の毒でもあり、日本の将来が恐ろしい。

 福祉大というところは、「俺たちは常識も何もない無頼の輩だ。虫けらのような住民よ、あきらめな。日本語は通じません」とでも叫んで回っているつもりなのだろうか。私たち凡人の理解をはるかに越えた人たちだ。

 敬愛する道元禅師がこの惨状をご覧になったらなんといわれるのか。想像もできない。しかし禅師を開祖とする曹洞宗の流れをくむ「といわれる」東北福祉大学が、どうしてこんな不可解かつ不誠実な行動をとっているのか、つくづく考えてみる。

 ある人が私にこんな話をしてくれたことがある。
      
私「例の福祉大だが、住民に騒音被害を与え続け、自分の権利だけを不当に主張して、てんとして恥じない。こんな体質に、どうしてなってしまったのだろうか」
A氏「あの学校か。あれはね、曹洞宗の学校の体質なんじゃないの。」
私「どういうことだい」
A氏「多々良学園の財政破綻について知っているかい?」
私「あのサッカーで有名な、たしか山口県周防市にある学校?」
A氏「ああ、もういまはないけどね。無軌道な新校舎移転計画が破綻したという事件さ。詳しいことは知らないけれど、なんでも学校経営には宗務庁が深く関与していたそうだ。いわゆる無責任体質という奴だ。その無責任体質が、同じ流れをくむ東北福祉大学にもある、ということさ」

無責任。無責任。。。。。。
いやそれだけではすむまい。「福祉」に泥を塗り、学生教育を愚弄する道義的、社会的責任は厳しく問われなければならない。

 東北福祉大学駅と東北福祉大学を結ぶ「連絡通路」敷設の陳情説明会が開催されるという。この説明会開催の案内といっしょに、陳情書(案)(これ以降「案」と書く)も添付されてきた。

 この「連絡通路」が完成すれば、西山地区(福祉大本校側)から駅へのアクセスは、現在よりも多少はよくなるだろう。しかし、その利便性という耳ざわりのよい言葉に惑わされて、見過ごしてはならない大切なことを置き去りにしてしまってはいけない。

 現在の騒音問題が完全に解消され、新たに発生する可能性のある問題に、大学や関係機関が真摯に取り組む決意をもっているなら、「連絡通路」設置を歓迎する。
 
 危惧されることを思いつくままにいくつか記しておく。

 まず「案」に記された「連絡通路」設置の陳情理由の第二番目がよく理解できない。
それは、騒音の苦情が絶えないことを心配し、東北福祉大学の学生が、駅の利用、教室間移動(ステーションキャンパスと本校)に際して、「私道の通行を余儀なくされていること」をあげていることだ。

 これは理由の重大なすり替えである。どこが?

 東北福祉大学は、学生に対して、ちゃんと現にある「公道」を全面的に通るように指導をすることが、まず求められている。しかし、その努力を怠っているがゆえに、現在の「騒音問題」が起きているのだ。そこのところをちゃんと認識して欲しい。
 さも私たち住民の迷惑を解消することをうたっているようだが、これこそ、おためごかしにすぎない。すこしでも住民の「福祉」を願っているなら、まずできることがあるではないか。

 「余儀なくされている」としたら、それは、大学側が学生に対してこの私道を通るしか本校へ行けないのだ、といった先入見を植え付けているからに他ならない。
 まずは、公道を通ることを徹底させ、その上で、問題が生じてきたときはじてめ学生の通学路としての「連絡通路」の役割がクローズアップされてくるのではないか。

 そのときは私たち住民も協力することを惜しまない。順序が逆だ。

 さらなる問題もある。

 この「連絡通路」が完成すると、新たな人の流れができ、これまで以上の利用が考えられる。くわえて、聞くところでは、道幅2メートル程度という。現在の「公道」の歩道とほど同じ幅だ。だとすれば、現在の私道の騒音は、この「連絡通路」によって解消されるのだろうか??

 

 依然として止むことのない東北福祉大学の「迷惑行為」のことを考えながら、つと想い出す言葉がある。

 夏目漱石が「私の個人主義」で書いている一節だ。ちょっと長くなるが、以下に引いておこう。

 「私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってあってならないものなのです。・・・・ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人身の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて回らなければならないといいたくなります。自分はこれだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えばこういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑みこうむだけの見識を養成するばかりでなく、その見識におうじて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中に済まないというのです。いな自分自身にも済むまいというのです。」

 よく知られているように、大正3(1914)年、この講演は、漱石が学習院で教員と生徒を前に語ったものだ。ここでは、やがて社会のリーダになっていく生徒たちに、金をどのように用いるべきか、そこには社会に対する責任感が不可欠であることを諄々と説いている。現代人にとってもすこしも古びていない。

 もちろん、このことが、東北福祉大学の「騒音問題」に直結するわけではない。

 しかし、聞くところでは、東北福祉大学は、新駅(JRに頼んで作ってもらったと言うことで、請願駅というらしいが)建設に10億円を超える費用をつぎ込んだという。私たち、非力な者からすると、天文学的な金額だ。

 これだけの巨費を投じる「金力家」であるにもかかわらず、学生(大学にとって最も大切なはず)の「通学路」は、貧しい住民の生活道路である私道を暫定と称して、問答無用といわんばかりに、勝手に使っている。使っているだけならまだしも、「騒音で家にいて静かに暮らせない、ノイローゼ状態の人まで出ている」しまつだ(まさか、病人を自分でつくりだして、福祉サービスをしようというのでもあるまい)。

 これが、はたして道義的にほめられた金の使い方だろうか。大学の管理者は、胸に手を当ててよく思案してもらいたいものだ。小学生でも分かりそうなことではないか。

「ただ乗り」だけでもゆゆしきことだが、それにくわえて、心的な苦しみまで与えている。

 こんなことが、「福祉」の大切さとやらをマスコミを通しても宣伝している学校に許されるか。「金力」のある者は、それに応じて社会的責任を果たす。これが原点だ。

 「福祉」の看板を掲げている学校が、こんなことを指摘されていること自体、心から恥じてほしい。

 

静けさを返せ!

 夜10時半を過ぎてもカツカツという靴音が響いてくる。
ある言葉が頭を過ぎる。 

「弱者の言うことなど気にするな。病人の世迷い言など忘れろ。やがて黙るだろう」

これは、この半年、東北福祉大学を間近で見てきたものの実感だ。

 これを聞いて東北福祉大学の関係者で、「中傷だ」というものがいれば、それは、批判が的を射ているからだ。見当違いの怒りを表すよりは、そういわれないように、ちゃんとすればいいだけだ。

 私たちは、何かを恵んでくれ、などと乞食みたいなことをいっているのではない。
あなた方が私たちから奪っていったものを返してくれ、といっているだけだ。

 奪っていったもの、それは、静かな生活だ。駅ができるまで道のなかったところへ道をつけ、「土足」で踏み込んできて、人の生活をかき乱している、その暴挙を止めなさい、といっているに過ぎない。
 こういっていることのどこが無理なのか。
 甚だしきに至っては、「あなた方の言いたいことは何ですか?」などととぼけた物言いをされると、唖然としてことばを失う。

 「通学路」に空を飛べとか地下に潜れ、などと荒唐無稽なことを言っているのではない。駅を作るときに大学が計画したとおり、5分で行ける公道を通ればいいのだ。
 こんな簡単なことがどうして理解できないのか??

 こう率直に申し上げると、「中傷だ」という福祉大関係者がいるという。これが「中傷」なら、被害者の悲鳴や教育的な指導は、すべて「中傷」ということになり、世の中から被害者はいなくなり、一切の教育活動は成り立たなくなる。

 しかし、ひよっとすると、東北福祉大学の現場では必死になって努力されているのかもしれない。しかし、その他の教職員のほとんどが非協力的でどうにもならないのかもしれない。

 これはうがった見方だが、もしそうだとすると、内部でモラルハザードが起きているのだろうか??


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東北福祉大学騒音問題


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