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依然として止むことのない東北福祉大学の「迷惑行為」のことを考えながら、つと想い出す言葉がある。
夏目漱石が「私の個人主義」で書いている一節だ。ちょっと長くなるが、以下に引いておこう。
「私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってあってならないものなのです。・・・・ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人身の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて回らなければならないといいたくなります。自分はこれだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えばこういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑みこうむだけの見識を養成するばかりでなく、その見識におうじて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中に済まないというのです。いな自分自身にも済むまいというのです。」
よく知られているように、大正3(1914)年、この講演は、漱石が学習院で教員と生徒を前に語ったものだ。ここでは、やがて社会のリーダになっていく生徒たちに、金をどのように用いるべきか、そこには社会に対する責任感が不可欠であることを諄々と説いている。現代人にとってもすこしも古びていない。
もちろん、このことが、東北福祉大学の「騒音問題」に直結するわけではない。
しかし、聞くところでは、東北福祉大学は、新駅(JRに頼んで作ってもらったと言うことで、請願駅というらしいが)建設に10億円を超える費用をつぎ込んだという。私たち、非力な者からすると、天文学的な金額だ。
これだけの巨費を投じる「金力家」であるにもかかわらず、学生(大学にとって最も大切なはず)の「通学路」は、貧しい住民の生活道路である私道を暫定と称して、問答無用といわんばかりに、勝手に使っている。使っているだけならまだしも、「騒音で家にいて静かに暮らせない、ノイローゼ状態の人まで出ている」しまつだ(まさか、病人を自分でつくりだして、福祉サービスをしようというのでもあるまい)。
これが、はたして道義的にほめられた金の使い方だろうか。大学の管理者は、胸に手を当ててよく思案してもらいたいものだ。小学生でも分かりそうなことではないか。
「ただ乗り」だけでもゆゆしきことだが、それにくわえて、心的な苦しみまで与えている。
こんなことが、「福祉」の大切さとやらをマスコミを通しても宣伝している学校に許されるか。「金力」のある者は、それに応じて社会的責任を果たす。これが原点だ。
「福祉」の看板を掲げている学校が、こんなことを指摘されていること自体、心から恥じてほしい。
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