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「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の望月のころ」
これはあまりにも有名な歌です。作者は平安時代の歌人、西行。
如月の望月の頃といえば、陰暦の2月15日で、釈迦入滅の日と重なります。春、桜の花の下で静かに生涯を閉じたいという西行の切なる願いがこめられた歌でしょう。釈迦の涅槃、極楽のイメージとも見える花、そしてそこへおのれ自身の死を二重写しにしたものです。浄土への憧憬の念が切々と伝わってきます。
古来釈迦の死を描いた「涅槃図」は仏画として数多く描かれてきました。80歳になった釈迦が、旅の途中に倒れ、死の床についたとき、四方から弟子たちがはせ参じ、その枕べに集うありさまは感動的です。仏教から遠い生活をしているものでも心揺さぶられる光景です。現代のように病院で管を刺され、スパゲッティ状態で亡くなる姿と比べれば、その気持ちはひとしおです。
皆に看取られて死ぬ釈迦とは対照的な最期を迎えたのがキリストです。
十字架にかけられたキリストは死の間際、「マタイの福音書」によれば、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という呪いにもにた絶望の言葉を吐きます。人の罪をわが身一身に背負って磔刑に処せられたとはいえ、その最期は悲惨です。
ここで仏教とキリスト教を比較してどうこういうつもりはまったくありません。ただ釈迦とキリストの死の瞬間に立ち会ったなら素朴な気持ちとしては、釈迦のような死を迎えることを願わざるを得ません。
キリスト教は、だから、出発点からしてキリストは罪人として処刑されたのではない、という自分たちが目にした現実を否定することから出発しなければならないわけです。ヨーロッパの思想に理想主義が生まれるゆえんです。
それにたいして仏教は、釈迦の死から受ける慈悲の心から出発するわけです。
そうだとしますと、現在、私たちに騒音等でたいへんな苦しみを与え、被害者の声にいっこうに耳を傾けようとしない東北福祉大学とは、いったい何だろうか、という疑念がやはりわき上がってきます。この学校は、HPにも掲げているように仏教の精神を基本にすえているというからです。仏教とは慈悲の心であり、その精神を伝える菩薩の心がその中心にあるのです。
ですから、いやしくも仏教を奉じる学校が周辺住民に苦しみを与えるなどは、だれが見ても、正気の沙汰とは思えません。ましてや、このありさまをお釈迦様がご覧になったら、なんといわれるでしょうか?
この学校の高僧といわれる方から、そのあたりの講釈をとくとうかがってみたいものです。
涅槃会に寄せて、東北福祉大学に対し、自校の被害者救済に真剣に取り組むよう強く要求します!!
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