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鏡の中の男
楡 圭
あたしの名前は花園容子。二十五歳の、商事会社に勤めるОLである。
ある日あたしは通勤電車の人の波にもまれていた。
その時、あたしの立っている前の席にあたしとおない歳位の二人の女の子が座っていた。
彼女達は、何やら小さなアルバムを開きながらおしゃべりをしていた。
一人は新婚の花嫁らしく、ハネムーンの記念写真を
もう一人の友達に見せつけていた。ハワイのワイキキ
ビーチで撮った写真みたいだった。この女の子のお婿
さんて、どんな男の人かしらと思って、あたし、吊革
につかまりながら、そのアルバムを覗き込んだの。
キャビネ版の一枚の写真に、アップで男が写ってた。にやけた感じだったけど、いい男だった。
じいーっとその男の写真を見つめていたら、彼の両
眼が光ったように思えて、あたし内心ぎくりとしたわ。
でも、それは、折からさしてきた朝日が写真に反射
したためだろうって思って、さして気にもとめなかっ
たの。
それっきりで、あたしはしだいに混んできた車内で
押しつ押されつの格闘をしている間に、さっきの出来
事はすっかり忘れてしまった。
やがて仕事を終えて自分のマンションに戻ると、あ
たしはいつものように食事をし、テレビを見てお風呂
に入ってから、三面鏡のスツールに座って、鏡を開い
たの。
その途端、あたしは『キャッ!』と叫んで顔をおお
ってしまったの。
だって、鏡にあたしの顔が映ってなかったんだもの。
でも、まさかと思って、おそるおそる、そーっと手
をどけながら鏡を見つめたの。
あたし、二度も背筋が寒くなったわ。だってさ、鏡
の中に、見たこともない男がニタニタ笑ってたんだも
の。
あたし、恐ろしさのあまり、スツールから転げ落ち
て、あわててベッドのシーツにもぐりこんだの。
「容子さん、びっくりしないでください」
エコーを伴った低い声があたしの耳元に飛び込んで
きたので、
「誰かいるの?出てって、じゃないと人を呼ぶわよ」
「容子さん、僕ですよ。ほら今日電車の中でお会いした・・・」
「容子だなんて、気安く呼ばないでよ。出てって。早くってば」
あたし、シーツの中にくるまって、ガタガタ震えて
いたの。怖いんだけど、あたし気だけは強いから、大
きな声で怒鳴ってやったわ。すると、男は黙り込んじ
ゃったの。
ほっとして、あたしベットから起き上がると、もう
一度鏡の方を向き直ったら、さっきの男がまだ鏡の中
で笑ってるの。でも、もうあたし驚かなかったわ。
「しつっこいわね、あんた誰なのよ」
「だから今朝電車の中で会ったって言ったじゃありませんか」
「今朝?電車の中で?全然記憶ないわ」
「ほら、写真見てた女が二人いたでしょう」
「え?」
「じれったいな。ハワイのハネムーンの」
「ああ、そう言えば思い出したわ。そうそう女の子二
人ね。でもあんたなんか見てなかったわよ」
「ですから、その時アルバム見てた女の一人が僕の女
房ですよ」
「え?じゃああのアルバムに貼ってあった写真のにや
けた男って、あんただったの?」
「にやけたはひどいなあ。そうです、そうです、僕で
す」
「ふーん、そう言えば、あんたの顔に見覚えがあった
のよね、そうなの、へえー」
「そんなに見つめられると恥ずかしいなあ」
「でも変ねえ。確かにあんたの写真は見たわよ。でも
何であたしのこと知ってんの?あんたあたしに会った
事ない筈なのに」
「フフ、ようやく思い出してくれましたねえ。僕のア
ップの写真をあなたがご覧になった時、僕の目が光っ
たでしょ」
「そうだったかしら。覚えてないわ」
「あの時、朝日を受けて写真の中の僕は、太陽のエネ
ルギーを蓄えたんですよ」
「難しいこと言わないでよ。あたし、メカに弱いんだ
から」
「すいません。エネルギーを蓄えたら、僕は僕自身、
つまり僕の本体から離れて、分身が、あの満員電車の
中で、女房が見ていたアルバムの中の僕の写真に飛び
込んだわけです。そうしたら何と、僕の目の前に容子
さんがいたものだから、僕ひと目惚れしちゃったんですよ。
それであの時、容子さんにウインクしたんですけど、気がつきませんでした?」
「うーん、そう言えば何かギクリとしたわね。何だか
目眩いがしたわ」
「そうでしょう、そうでしょう。女房の奴に気がつか
れないようにやったから苦労しましたよ。ところで、
そうやってあなたにウインクして、僕のテレパシーが容子さんの目から脳に伝わったって訳ですよ。あな
たが鏡に向かえば、僕の姿が映るっていう寸法です。
ねえ、お願いです。容子さん、毎日一回位は姿を見せ
てもいいでしょ?もっとも四六時中という訳にはいか
ないんです。せいぜい、五分位しかお会いできないん
です。申し訳ありません」
「冗談じゃないわよ。こっちは迷惑だわ。一体あた
しに何の用があるの。鏡の中にぼーっと出てきて幽
霊みたいじゃないの。気持ち悪りい。もう出てこな
いでよ」
あたしは,三面鏡をばたんと閉めてしまった。
しかし、それからというもの、その男は毎日一回は
必ず姿を現した。
あたしが化粧室でお化粧をしようと思ってコンパク
トを出せば、
「容子さん、結婚して下さい」
と話しかけて来るし、会社の自動ドアの前に立つと、ドアのガラスにあの男が映るし、夕方電車の窓にあいつの顔が映ったりするし、美容院へ行ってパーマをかけようとすると、大きな鏡の中にあの男がニタニタ笑っているのだ
時刻も場所も決まっておらず、突如として現われて
は五分位して姿を消してしまう。そして相も変わらず
『結婚して下さい』と訴えるのだった。
ある時は、オフィスでお茶を飲んでいる時、湯呑茶
碗のお茶にあの男が映ったこともあった。
こんな事が続いて、あたしはしだいにノイローゼ気
味になって、夜は完全に眠れなくなってしまった。そ
れで、鏡は一切見ないことにし、三面鏡は友達に呉れ
てしまった。
食欲もなくなり、頬もこけてきた。寝不足でもある
ので、会社の仕事の能率も落ちてきた。
ところが、一か月ほどして、あの男とは縁切りにな
って、せいせいしたと思う反面、何か寂しいような、
切ないような想いがないでもなかった。
やがて、それから一週間経った頃、あたしの処へ小
包が届いた。送り主は日本減量研究所とあった。何だ
ろうと思って、包みを早速開けてみると、一本のカセ
ットテープと写真数葉が入っていた。テープを聞いて
みると、
「こちらは日本減量研究所です。約一か月に渡る当研
究所の肥満解消作戦は十分効を奏したようです。
ここに貴女の減量の推移を写真でお見せしましょう。
しだいにスリムになってきていますね。おめでとうございます。写真で拝見しますと、体重が約十キロ減ったようです。
どうぞ、当研究所に減量治療代として五万円をお支
払いください。なお、証拠写真及び録音テープは当研
究所に原本を保管しております」
あたしは、同封の写真を見た。どれもこれもあたし
の写真だった。だが、確かにテープの指摘通り、あた
しはだんだん、スタイルがよくなってきていた。
さらにテープの声は続いた。あの男だった。
「私はハワイハネムーン隊のメンバーの一人です。私達はお互いに夫婦ではありますが、共に肥満解消、健康維持のための研究を続けております。ご協力ありがとうございました」(了)
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