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鏡の中の男

鏡の中の男
                 楡 圭

 あたしの名前は花園容子。二十五歳の、商事会社に勤めるОLである。
ある日あたしは通勤電車の人の波にもまれていた。
その時、あたしの立っている前の席にあたしとおない歳位の二人の女の子が座っていた。
 彼女達は、何やら小さなアルバムを開きながらおしゃべりをしていた。
一人は新婚の花嫁らしく、ハネムーンの記念写真を
もう一人の友達に見せつけていた。ハワイのワイキキ
ビーチで撮った写真みたいだった。この女の子のお婿
さんて、どんな男の人かしらと思って、あたし、吊革
につかまりながら、そのアルバムを覗き込んだの。
 キャビネ版の一枚の写真に、アップで男が写ってた。にやけた感じだったけど、いい男だった。
 じいーっとその男の写真を見つめていたら、彼の両
眼が光ったように思えて、あたし内心ぎくりとしたわ。
 でも、それは、折からさしてきた朝日が写真に反射
したためだろうって思って、さして気にもとめなかっ
たの。
 それっきりで、あたしはしだいに混んできた車内で
押しつ押されつの格闘をしている間に、さっきの出来
事はすっかり忘れてしまった。

 やがて仕事を終えて自分のマンションに戻ると、あ
たしはいつものように食事をし、テレビを見てお風呂
に入ってから、三面鏡のスツールに座って、鏡を開い
たの。
 その途端、あたしは『キャッ!』と叫んで顔をおお
ってしまったの。                             
 だって、鏡にあたしの顔が映ってなかったんだもの。
 でも、まさかと思って、おそるおそる、そーっと手
をどけながら鏡を見つめたの。
 あたし、二度も背筋が寒くなったわ。だってさ、鏡
の中に、見たこともない男がニタニタ笑ってたんだも
の。
 あたし、恐ろしさのあまり、スツールから転げ落ち
て、あわててベッドのシーツにもぐりこんだの。
「容子さん、びっくりしないでください」
 エコーを伴った低い声があたしの耳元に飛び込んで
きたので、
「誰かいるの?出てって、じゃないと人を呼ぶわよ」
「容子さん、僕ですよ。ほら今日電車の中でお会いした・・・」
「容子だなんて、気安く呼ばないでよ。出てって。早くってば」
 あたし、シーツの中にくるまって、ガタガタ震えて
いたの。怖いんだけど、あたし気だけは強いから、大
きな声で怒鳴ってやったわ。すると、男は黙り込んじ
ゃったの。
 ほっとして、あたしベットから起き上がると、もう
一度鏡の方を向き直ったら、さっきの男がまだ鏡の中
で笑ってるの。でも、もうあたし驚かなかったわ。

「しつっこいわね、あんた誰なのよ」
「だから今朝電車の中で会ったって言ったじゃありませんか」
「今朝?電車の中で?全然記憶ないわ」
「ほら、写真見てた女が二人いたでしょう」
「え?」
「じれったいな。ハワイのハネムーンの」
「ああ、そう言えば思い出したわ。そうそう女の子二
人ね。でもあんたなんか見てなかったわよ」
「ですから、その時アルバム見てた女の一人が僕の女
房ですよ」
「え?じゃああのアルバムに貼ってあった写真のにや
けた男って、あんただったの?」
「にやけたはひどいなあ。そうです、そうです、僕で
す」
「ふーん、そう言えば、あんたの顔に見覚えがあった
のよね、そうなの、へえー」
「そんなに見つめられると恥ずかしいなあ」
「でも変ねえ。確かにあんたの写真は見たわよ。でも
何であたしのこと知ってんの?あんたあたしに会った
事ない筈なのに」
「フフ、ようやく思い出してくれましたねえ。僕のア
ップの写真をあなたがご覧になった時、僕の目が光っ
たでしょ」
「そうだったかしら。覚えてないわ」
「あの時、朝日を受けて写真の中の僕は、太陽のエネ
ルギーを蓄えたんですよ」
「難しいこと言わないでよ。あたし、メカに弱いんだ
から」
「すいません。エネルギーを蓄えたら、僕は僕自身、
つまり僕の本体から離れて、分身が、あの満員電車の
中で、女房が見ていたアルバムの中の僕の写真に飛び
込んだわけです。そうしたら何と、僕の目の前に容子
さんがいたものだから、僕ひと目惚れしちゃったんですよ。
それであの時、容子さんにウインクしたんですけど、気がつきませんでした?」
「うーん、そう言えば何かギクリとしたわね。何だか
目眩いがしたわ」
「そうでしょう、そうでしょう。女房の奴に気がつか
れないようにやったから苦労しましたよ。ところで、
そうやってあなたにウインクして、僕のテレパシーが容子さんの目から脳に伝わったって訳ですよ。あな
たが鏡に向かえば、僕の姿が映るっていう寸法です。
ねえ、お願いです。容子さん、毎日一回位は姿を見せ
てもいいでしょ?もっとも四六時中という訳にはいか
ないんです。せいぜい、五分位しかお会いできないん
です。申し訳ありません」
「冗談じゃないわよ。こっちは迷惑だわ。一体あた
しに何の用があるの。鏡の中にぼーっと出てきて幽
霊みたいじゃないの。気持ち悪りい。もう出てこな
いでよ」
 あたしは,三面鏡をばたんと閉めてしまった。

 しかし、それからというもの、その男は毎日一回は
必ず姿を現した。
 あたしが化粧室でお化粧をしようと思ってコンパク
トを出せば、
「容子さん、結婚して下さい」
と話しかけて来るし、会社の自動ドアの前に立つと、ドアのガラスにあの男が映るし、夕方電車の窓にあいつの顔が映ったりするし、美容院へ行ってパーマをかけようとすると、大きな鏡の中にあの男がニタニタ笑っているのだ
 時刻も場所も決まっておらず、突如として現われて
は五分位して姿を消してしまう。そして相も変わらず
『結婚して下さい』と訴えるのだった。
 ある時は、オフィスでお茶を飲んでいる時、湯呑茶
碗のお茶にあの男が映ったこともあった。
 こんな事が続いて、あたしはしだいにノイローゼ気
味になって、夜は完全に眠れなくなってしまった。そ
れで、鏡は一切見ないことにし、三面鏡は友達に呉れ
てしまった。
 食欲もなくなり、頬もこけてきた。寝不足でもある
ので、会社の仕事の能率も落ちてきた。
 ところが、一か月ほどして、あの男とは縁切りにな
って、せいせいしたと思う反面、何か寂しいような、
切ないような想いがないでもなかった。
 やがて、それから一週間経った頃、あたしの処へ小
包が届いた。送り主は日本減量研究所とあった。何だ
ろうと思って、包みを早速開けてみると、一本のカセ
ットテープと写真数葉が入っていた。テープを聞いて
みると、
「こちらは日本減量研究所です。約一か月に渡る当研
究所の肥満解消作戦は十分効を奏したようです。
 ここに貴女の減量の推移を写真でお見せしましょう。
しだいにスリムになってきていますね。おめでとうございます。写真で拝見しますと、体重が約十キロ減ったようです。
 どうぞ、当研究所に減量治療代として五万円をお支
払いください。なお、証拠写真及び録音テープは当研
究所に原本を保管しております」
 あたしは、同封の写真を見た。どれもこれもあたし
の写真だった。だが、確かにテープの指摘通り、あた
しはだんだん、スタイルがよくなってきていた。
 さらにテープの声は続いた。あの男だった。
「私はハワイハネムーン隊のメンバーの一人です。私達はお互いに夫婦ではありますが、共に肥満解消、健康維持のための研究を続けております。ご協力ありがとうございました」(了)



 

俺様は誰だ(2)

俺様は誰だ(2)
            
 また俺は眩暈がしてきた。が、気を持ち直して自分の社
に電話した。今日は同僚の大塚がいるはずだ。大塚の口か
らはっきりと俺を認めさせようと必死だった。
「あ、今日子ちゃん、俺だ。佐伯だよ」
「え、どなたですか。佐伯さん。あのどちらの佐伯さんで
すか」
「いやだなあ、佐伯輝彦だよ。営業の」
「佐伯輝彦さんでしたっけ。あのちょっとお待ちを。    (ちょっとお、佐伯さんって知ってる。うちの会社にいる
って言うんだけど、そんな人いないよね。変ねえ)あ、お
待たせしました。失礼ですが、うちには佐伯輝彦さんとい
う方おりませんが」
「おいおい、俺、わからないの。あのさ、東長崎に住んで
いて、女房と二人の娘がいる佐伯だよ」
「さあ」
「いやだなあ。宴会で何時も花笠音頭を踊る男。いつも君
の横の横の席に座ってる」
「あたしの横の横の席には誰もいませんよ。今空いている
んです」
「え、だって昨日まで隣の隣にいたのになあ。あの、じゃ、
吉野課長呼んでくれない」
「吉野課長ですか。しばらく前におやめになりましたけど」
「うそだろ、うそだよ。だって昨日の晩一緒に飲んだんだよ」
「さあ、おやめになった吉野さんが昨晩何をされていたか
まではこちらではわからないんですけど」
「弱ったな。じゃいいです。あの営業の大塚君お願いしま
す」
「はい、ちょっとお待ちください」
「はい、お電話代わりました。大塚ですが、あのどなた様
ですか。佐伯様ですか。どちらの佐伯様ですか」
「おい、俺だよ。佐伯輝彦だよ。お前も今日子ちゃんもど
うかしてるぞ。お前人なめてんのか」
「そうおっしゃられても。こちらでは心あたりがありませ
んで、申し訳ないんですが」
「おい、頼むよ、大塚。何でお前、俺をいじめるんだ。俺さ、今日出勤途中で妙なことになっちゃって。今小田急の豪徳寺にいるんだ。どういうわけか、今日に限って金持ってな
くて、今駅で捕われの身よ。助けてくれよ
「お人違いじゃありませんか。佐伯様::でしたか。お
気持ちはわかりますが、何せこちらではあなた様を存じ上
げないので、他をあたってみていただけませんか」
「頼むよ。一生恩にきる。じゃこの間のマージャンの勝ち
な、帳消しにする、な、な、これこの通り」
 俺はしゃにむに地べたにすわりこんで、電話しながら片手
で拝んだ。

「どうしました。大分お困りのようですな」
 駅長はにやにやしながら、俺の方に向って言った。
 俺は狐につままれたようにポカンとしたまま、椅子に座り
込んだ。だって、そうだろう。こんなことってあるだろうか。
 俺ははっきりと自分を認識できる。夢をみているんでも
ないし、記憶喪失になったのでもない。なのに、俺を認め
る者は一人もいないではないか.。しかし、それをもこの駅
長や駅員は認めようともせず、俺が幻覚でもいだいている
かのように、にやにやしているだけであった。時間はもう
直ぐ正午になんなんとしている。俺はしだいに焦りを覚え
てきた。冷や汗もでてきた。でも俺は負けなかった。俺は
力なく最後の望みを託して俺の本籍地のある豊島区の区役
所に電話してみた。戸籍で確認できれば、こんなに確実な
ことはないのだ。
 だが、何と!
「ちょっと身分証明してもらいたいんですけど」
「こちらにお出でになって、申請してください」
「いやちょっとそちらに行けないんです」
「規則ではお教えできないことになっています」
「そこを何とかできませんか。今緊急事態なんです。証明
してもらわないと困るんです」
「待てよ。あ、そうか。今日は四月一日でしたね。特例が
あります。お調べになる方のお名前はなんとおっしゃいま
すか」
「佐伯輝彦です」
「えーとちょっと待ってください。お住まいは?」
「豊島区千::」
「あ、町名はいいです」
 区役所の戸籍係の言葉は、俺に徹底的なダメージをあたえた。
「えーとですね、佐伯輝彦さんは昭和四十五年の八月三十
日に死亡されています。あなたは佐伯さんの息子さんです
か」だと。
「いえ、わたしが本人の佐伯輝彦です」
「なにおっしゃってるんですか。その方は亡くなっている
って申し上げましたでしょう」

 やがて正十二時になった。途端にサイレンが鳴った。入
り口のドアーがひとりでにあいて、猫が入ってきた。
「あ、さっきの猫だ」
「にゃーお」
 猫は俺の方を見て、一声鳴いた。そしてさっきと同じよう
に右足でおいでおいでをするのだった。
 
 駅長が
「佐伯さん、ご面会です」
 と、病院の看護師みたいなことを言う。しかも相変わらず
にやにやしながら。
 誰だ、一体。俺は力なくドアの方を見た。
 と、どうだ。
 娘の久子がこっちに入ってきた。
「おい、久子じゃないか」
「パパ、ご苦労さま。疲れた?」
 とこれもにやにや笑っている。
 あまりのことに俺は二の句が告げなかった。
「何だ、お前。何でここがわかったんだ」
「パパ、いつも豪徳寺の招き猫の話してたでしょう?俺は
あの猫に幸運をもらっていずれ出世するんだって」
「そうだ、通っていた世田谷小学校が懐かしくってな」
「そうそう。でも何時になったら出世するの?」
「あと2、3年だ。それはそうと、何でここで目が覚めた
んだ?」
「あのね、ここでちょうど薬が切れるように調合してあっ
たんでしょう」
「かあさんの名は直子じゃないよな」
「直子って誰。あたし知らない。パパのいい人?」
「いや、さっきな、家へ電話したら、私、直子といいますし、
主人は今宅におりますなんていいやがるんだよ」
「ハハハ、いやーね。夢見てんじゃないの」
「かあさんは律子だよな。で、どこにいるんだ?」
「もう直ぐ来るわ」
 やがて妻の律子が現れた。
「あなた、ごめんなさい。さっきは」
「え、さっきって」
「さっきよ。電話くれたでしょう」
「そうだったな。::::そう言えばお前、うちの主人は
家にいるとか何か言ってたな。何だあれは」
「ごめんなさい。あたしがうそついたの。兎に角拘束時間
は終わったのよ」
「なんじゃそれ」
「知らなかった?役所から赤紙がきて、今日四月一日、半
日あなたを無視するることになったのよ」
「それにしても、俺、今日定期も持たずに家を出てきたんだ。よく東長崎の駅で何にも言われなかったな」
「ああ、駅に連絡したのよ。家の人、赤紙が来たからよろ
しくねって」

 駅舎の戸口から役人らしき男が二人、プラカードを持っ
て入ってきた。
「ご苦労様でした。こちら総理府です。今日はエイプリル
フール、半日あなたを完全に無視することになってたんで
す。ご協力感謝します」

 無気力国家日本に、一服の清涼剤として、四月一日のエ
イプリルフールの日、全国民の一部を選んで、その半日の
間この選民を全国民が無視して過ごし、後で全国民が大笑
いしようという、政府の積極策であった。

 俺はまだ狐につままれていた。
「そんな事俺は知らなかったぞ。第一こんな馬鹿なことし
て何になるんだ。何でこの豪徳寺なんかにいるんだ」
「簡単よ。政府から貰った薬、強力な睡眠薬ね。これ今朝
牛乳の中に入れたのよ」
「だから何でここにいるんだ」
「それそれ。あなたの行きたいままにして後から護衛がつい
たの」
「誰だ、そいつは」
「ワタクシデス」
 外人の若い女が入ってきた。
「あ、あのときの。この駅で降りた時後ろにいた外人の女だ。しかし随分手の込んだことするなあ。赤紙が来たのは俺だ
けじゃないんだろ?」
「全国で十万人くらいでしょう」
総理府の役人が答えた。
「それに一人一人護衛がついたの?」
「ええ、何たいしたことはありません。護衛はアルバイト
ですから」
「それにしても、随分馬鹿なこと考えるもんだ。金だって
そうとう掛かるだろう」
「でもみんなで最後に大笑いしてしゃんしゃん手拍子なん
て粋じゃないですか。それで日本国中気力が出てくれば」
 会社の大塚も今日子も、それに区役所の木田戸籍係も顔
をみせた。
「すまんかったな。まあご愛嬌だ」
「お前、俺に赤紙が来てたの知ってたのか」
「いや、奥さんから連絡があったんだ」
「そうですわ。あたし佐伯さんだますの辛かったわ。ごめ
んなさい」
と、今日子。
「よ、よ、お安くないね」
駅員たちがからかった。駅長も駅員もぐるだったんだ。
「いやあ、役所としても上からの命令ですからやむをえま
せん。奥さんからは勿論、国からの通達がありましたので」
と、区役所の木田はにこりともしないでそう言った。

「さあ、みなさんお集まりですか。佐伯輝彦さんの人間回
復を祝って、一本締めをお願いします」
総理府の役人が声をかけた。
「よおお、ポン。おめでとうございました」
あの猫が俺のところにやってきた。
「よしよし」
俺が猫をだいてやると、奴はうれしそうに
「にゃーお」と鳴いた。
「おい、お前のおかげで迷子にならなくてよかった。あり
がとよ」
 元にもどってほんとによかった。俺は大塚からもらった
煙草を吸い,紫煙をくゆらせた。だが、はっとしてあわて
て火を消した。今浦島になるのはもうごめんだと。{了}

俺様は誰だ。

俺 様 は 誰 だ

                       圭        


 かあさんと一緒に電車に乗っていた。僕は小学校の二年
生、学童疎開から帰ってきたものの、戦争で家が焼けて住      
む場所がなく、親類の家に家族みんなで住んだのが小田急
線の豪徳寺駅で降りてすぐのところにある家だったんだ。                     
かあさんと新宿まで行っての帰りである。
「豪徳寺は次だよ」
かあさんは僕に話しかけた。
 やがて電車が停車したので、ホームに降りようとすると、
そこにいた眠そうな顔の三毛猫が右の前足でこっちに向っ
ておいでおいでをした。かあさんも気がついて、
「おかしな猫だね」
と言った。

猫はホームから改札口の方へ走っていった。
「ねえ、一緒に行ってみようよ」
僕はかあさんに言った。
三毛はというと、今度はのそのそと山下商店街を歩き出
した。かあさんと、一緒に付いて行った。やがて、僕の通
う世田谷小学校が右に見えてきた。三毛は世田谷線の宮坂
駅手前の道を左に曲がって、やがて豪徳寺の山門に来た。

「あれ、お寺に来たよ」
「そうだね、ちょっと行ってみようか」 
(注―豪徳寺は昔貧乏な寺だったんだが、あるとき、井伊
直孝が、近くを通ると、猫が鳴いて雷雨を告げ、直孝一行
は寺に寄って、雨を凌いだという話がある。やがて、直孝は、寄進してこの寺を菩提寺にしたという。それ以来この寺で
は、招き猫が評判を呼んでいるのだそうだ)

「お前も偉い人になるようにお参りしておくといいよ」
「あの猫は僕のこと呼んだのかなあ」
「そうかもしれないよ。お前何になりたいんだい?」
「お嫁さん」
「馬鹿だねえ、お嫁さんじゃなくて、お婿さんだろ?」
「あ、いけない。僕はお父さんの後を継いでちんちん電車
の運転手になるんだ」
「そうだったね。さ、帰ろう」
「あの猫どうしたんだろ?」
「あそこにいるよ。あ、またおいでおいでしてるよ。きっと、いいことあるよ」


途端にがくんと身体がゆれた。その振動で俺ははっと我に
返った。やや眩暈を感じた。なんだ夢をみていたのか。む 
ろんお袋の姿はなかった。 
 電車に乗っていた。外を見ると「豪徳寺」という標識が
目に入った。ホームに猫がいた。右足で頭をこすり、舌で
ぺろぺろ足を舐めていた。猫と目があったとき、俺の方に
向って右足で右耳をこすっていた。それが俺の方に手招き
したように見えたのであわてて駅に降りてしまった。
通勤客が何人か降りた。後ろから化粧のほんのりとした匂
いがした。振り返ると外人の若い女が歩いていた。別に気
にもせず、俺は何気なしにポケットに手をつっこんだ。 
何時もあるはずの定期券がなかった。一体俺は何で小田
急線なんかに乗ったんだろう。待てよ、俺の勤め先はここ
豪徳寺ではないはずだ。そうだ、あの猫が悪いんだ。誘わ
れるようにして駅のホームに降りてしまったんだ。 
あいつを蹴っ飛ばしてやろうとあの猫を探したが、その姿
はなかった。


 兎に角上りの電車に乗ろうと、改札口を出ようと思い、
財布を探してみたが、ポケットにあるのは前夜からのうす
汚れたハンカチ一枚だけであった。
毎日通勤で最寄りの駅から電車に乗るんだから、自宅か
ら近い西武線の東長崎駅から乗ったに違いないのだ。が、
まったく今まの事を覚えていない。
どうやって駅の改札口を通過したのだろう。しかし、お
ぼろげながら、そういえば駅員がこっちに会釈したような
気がする。いつも通り今朝、パン二切れと牛乳を飲んで妻
の律子に送られて家の玄関を出たのは覚えがある。その時、
今のように眩暈がした。

そして今、豪徳寺。

一瞬、俺は記憶喪失になったのかと疑ったが、俺は、自
分が佐伯輝彦という名前で、家には妻の律子と、年子、久
子という二人の娘がいること、そして俺の職業が墓石材の
セールスマンであり、いっぱしの成績をおさめ、年収一千
万の稼ぎ手であることも忘れてはいなかった。

駅員が不審な顔をして俺の方を見ていた。
「あのお、切符がないんですが」
「どちらから」
「えーと、東長崎だと思います」
「西武線の」
「はい」
「通しで買ったんですか」
「いえ、切符を買った覚えがないんです」
「定期券はあるでしょう」
「それが今日にかぎって持ってないんです」
「免許証は?」
「それもないみたい」
「どうやって駅に入ったんですか?」
「だから覚えてないんですよ」
「それじゃあ無賃乗車だな」
「ああそうかもしれない」
「しょうがないなあ。定期は豪徳寺と東長崎間ですね」
「いえ、豪徳寺は全然関係ないんです。私の勤めていると
ろは中野ですから」
「じゃあ、なんでここで降りたんです」
「わかりません」
「わかりませんて、あんた、何か用事があったから、降り
たんでしょ」
「まったく見当がつかないんですよ。いや勿論家から出た
のは覚えてますし、これから中野の会社に行くつもりだっ
たことも、いつものことですからわかってますよ。でも豪
徳寺に降りたってから、ふっと自分に戻ったんですから」
「じゃあ、何ですか、狐に化かされたとでもいうんですか」
「そうかもしれない、いえね、猫がおいでおいでしたんです。このホームにいた猫が」
「いい加減にして下さい。こっちは忙しいんだ。早く金を
払ってください。さもないと警察呼びますよ」
「こっちだって忙しいんですよ。早く会社に行かなきゃ。
でも金がないんだからしょうがない。じゃこうしましよう。時計を置いていきましょう。ね、とけ、:::、ありゃ、
時計もしてないや。どうしたんだろう。弱ったな。仕方が
ない。じゃ、駅の便所掃除でもなんでもします。たかが東
長崎―豪徳寺間の切符代だ。掃除したらお釣りがくるんじ
ゃないの」
「たかがと何ですか。あんた払えないじゃないか」
「まあまあ、怒りなさんな」
「ちょっと、駅長に聞いてくるから、あんた逃げなさんな
よ」
「逃げやしませんよ。早く駅長さんに言ってください」

初老の駅長が顔をだした。
「切符がないそうですな。規則上運賃を払って貰わないと
困るんですよ。で、お金の持ち合わせがないとなれば、駅
の掃除でもして貰わんと:::でもあなたのおっしゃるよ
うに、たかが東長崎―豪徳寺間の運賃だ。わざわざ便所掃
除も無いでしょう。身元保証さえあれば、今日お支払い下
さらなくても結構ですよ。あっと、お宅のお名前は?」
「佐伯輝彦といいます」
「どこにお勤めです」
「中野の岩田石材です」
「わかりました。お宅に電話してください。後で電話を代
わりますから」

俺は家に電話した。
「はい。佐伯でございます。どちら様ですか」
「おい、俺だ」
「は、オレさんでございますか」
「馬鹿、俺だ。俺だ、俺、わからんのか」
「オレ、オレとおっしゃられても。どちらのオレさんでご
ざいますか」
「何言ってんだ。佐伯輝彦だ」
「は、じゃ、オレ様じゃなくて佐伯輝彦様ですか」
「そうだ」
「あ、ちょっとお待ちくださいませ
(あなた、ちょっと変な電話なの、おじいちゃまの名前を
語ってるの。気味悪いから出て。え、今トイレに入ってる
から出られないって。うんまあ、意地悪)
お待たせしました。あの、佐伯様でいらっしゃいますか。
私ども存じ上げないんでございますが、何かご用でござい
ますか」
「律子、俺はお前の夫だぞ。いい加減にしろ。俺は忙しい
んだ」
「わたくし、直子と申しまして、主人も宅におりますので」
「この野郎、俺のいない留守に男を連れ込みやがって。
許さ::」 
俺が言い終わらないうちにガチャリと向こうから電話が切
れた。

「どうなすったんですか。佐伯さん」
駅長が尋ねた。
「いえね、うちの奴ったら、空ッとぼけて佐伯輝彦なんて
いう人は知らないなんてぬかしやがるんですよ。おまけに
男まで連れ込んでましてね」
「そりゃあ、穏やかじゃないな。電話をお間違えじゃない
でしょうな。ほうほう、じゃもう一度わたしが電話してみ
ましょう」
俺は駅長が電話するのを聞いていた。
「こちら豪徳寺駅の駅長ですが、お宅様は佐伯さんですか。ああ、そうですか。こちらにお宅のご主人がおられまして
ね。お金をお持ちで無いので、東長崎―豪徳寺間の運賃を
お支払いいただいてないんですよ。フン、フン。なるほど
そうですか」
駅長は横目で俺の顔を見た。
「え、佐伯輝彦とういう人はお宅のご主人ではない。ほほう、
それはおかしいな。お勤めはどちらです。いえ、ご主人の。中野の、岩田石材、うん、これは一致してますな。はい、
わかりました。どうもご迷惑をおかけしました。失礼しま
す」

 駅長はニコニコしながら俺の方を向いた。
「あなたうそをついちゃあいけませんな。今電話したお宅
はあなたの所じゃありませんな。もっとも、電話番号は合
っているし、佐伯さんは佐伯さんだが」
「おかしいな。あれは確かにうちの女房の声だったけど。
こんな馬鹿な話ってないですよ。女房はうそついてるんだ。だって、そうでしょう。わたしがうそをついてるんじゃな
くて、うちの奴がわざと故意にうそをついてるってことも
ありうるでしょう」
「何のためにですか。奥さんならそんなことせんでしょう」
「だから、女房が男を連れ込んだからですよ。ご主人、ご
主人ってあなたはおっしゃるが、ご主人というのはわたし
なんですよ」
「気持ちはわかるが、今朝のことを覚えてないというあな
たと、電話主の佐伯さんと、どっちが正しいか、それはも
うわかるでしょう」
「電話の女も佐伯じゃないすか」
「それは単なる偶然でしょう。ま、そんなことを言ってい
ても埒があかない。岩田石材に電話してみて下さい」
「わかりました」(続く)
            

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