意志と表象としてのblog

日常生活を始め、音楽レビュー・評論、哲学、ペット、について徒然なるままに書き綴ります

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長ったらしい駄文ですがお読み頂けたら光栄です




 アルベール・カミュは主著『異邦人』に於いて「善と悪」「他者と自己」「生と死」 といった哲学的な諸命題を暗示させながら、様々な次元から生の不条理を描いた。カミュは不条理について「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態」(『シーシュポスの神話』P9)と言う。


まずはこの不条理の概念の分析から始めよう


<『異邦人』から読みとれる不条理>

 我々は日常、自分にとって他者を他者にとって自分を相互に了解可能なものとする為に演技をしたり、言葉を虚偽の道具とすることで一般的・社会的な自分になりすます。そして他者にもそれを要求する。 本来、他者とは了解不可能な存在であり、人は他者の内面を言語や表情といった外的な媒体を通して類推することしかできない為に、そうせざるを得ないのだ。
 
我々の社会に於いて、この嘘はしばしば「常識」と呼ばれ、ムルソーの様な誠実な人間は異常者とみなされる。捕捉不可能な他者性をさらけ出すムルソーは、検事や陪審員達のような常識的な人間達にとってモンスターなのである。 しかし実のところ(というより、自明な事だが)、この誠実なる異常者と常識的嘘吐きの間には大した相違は無い。嘘をつくかつかないか、それだけの違いなのだ 。
 
にもかかわらず、一方は社会的に自由を保証されて安穏とした日々を送り、一方は刑務所に送られ自由のみならず生までも奪われる。『異邦人』ではこのように、一般社会に於いて為されているような「他者」理解が如何に現実離れしているかが顕著に描かれている。裁判長の殺人の動機についての問い掛けに対してムルソーが放った「それは太陽のせいだ」と言う言葉、それは彼にとっては紛れも無い真実であったのだろう 。自己とは、決して社会や他者の尺度で計ることのできない存在であり、その行為や意識は、常識的・社会的に理解可能なように言語化できるものではないのである(無理矢理言語化したとたん、それは先述したように「嘘」となる)。

 しかし人々はなかなかこの事実に目を向けようとせず、常識という概念によって一元化された世界に疑問を抱くこともない。このように、真に理解し合うことのできない自己と他者・社会の関係に不条理が生ずる一因がある。
 
 こうして見ると、人が人を評価し、判断し、即自化し、裁くということの筆舌に尽くし難い恐ろしさもまた解るだろう。だが他者との関係の中で生き長らえる為にはそうせざるを得ない。如何なる尺度でも計ることのできない自己の本質的な多様性を社会や他者の中に埋没させながら、他者にもそれを要求することで自分を守っているのだから。この皮肉な事態がまた不条理の感覚を呼び起こす(善悪、裁きについての不条理は『転落』でも語られている)。

そして、不条理の最たるものは生あるものが死ぬ(存在が無になる)という矛盾である。現代人である我々は常識から「生物は死ぬ」ということを必然的な事象として理解しているが、無から存在が生まれようが無いのに、存在である我々は死んで無に帰す、というのは実は何とも不可解なことだ(古代人が霊魂の存在を強く信じ、汎生命論的世界観を持っていたのはこのことを受け入れられず、身体は朽ちても生命は在り続けると考えたからだろう)。

 我々の存在や人生を一挙に奪い去ってしまうこの不可解な死の恐怖及び不条理観は、宗教的な来世的幸福観(カミュやニーチェの場合だとプラトニズム的キリスト教価値観)が「神の死」によって崩壊した時、凄まじい勢力をもって我々を襲うのである。(このことについて、カミュは『シーシュポスの神話』の中で「不条理とは神のいない罪だ」とはっきり述べている)
 
 以上から、不条理は社会の常識的価値観・我々が自ら創出した目隠し、もしくはパスカル的気晴らしを取り払った時に現れてくる、本質的に意味や価値などを持ち合わせない悲惨な現実世界から齎される精神の病、ニーチェ的ニヒリズムと同じような意味を担った概念であると考えられる。


<カート・コバーンと不条理>

 飽くまで一個人の私見であるが、90年代オルタナ、グランジの代表格であるNIRVANAのフロントマン、Kurt Kobainの死の背景には「不条理」の感覚が在ったのではないかと私は考えている。





 私達リスナーは彼の曲を聴いて様々なことを自由に考え、感じることができる。だがしかし、それは決して彼の意図や感覚と完全に一致することはない。なぜならば我々は他者同士であり、その間には解釈が在るのみだからだ。

彼の言葉や唄は彼だけのものであり、他の誰のものでもない。
「代弁者」だなんて彼に対する最大の侮辱であろう


彼は彼の内的世界を、痛みを、怒りを、叫んでいただけだ





ここでNIRVANAの代表曲の一つである「In Bloom」に注目したい。


He's one who likes all the pretty songs.
あいつはきれいな歌ならなんでも好きな奴だ
And he likes to sing along
そして一緒に歌うのが好きだ
-中略-
But he knows not what it mean.
でもあいつはそれが何を意味するかなんて知らない
Knows not what it mean.
何を意味するかなんて知らないんだ
And I say yeah.
俺は「ああ。」と言う



このようにIn Bloomは、歌詞に於いて、何も分からずにただ旋律の美しい流行の歌を好む者を蔑んでいる(I say yeahには恐らく嘲笑的な意味が込められているのだろう)。
だがその反面、曲自体は「He」が好きなpopでウケの良い、合唱するにはおあつらえの曲調である。




このシニカルなギャップからカートが如何に自身が偶像化され、崇拝され、若者の代弁者とされることを嫌悪していたかが窺い知れるだろう。




にもかかわらず、周囲の者達は彼を時代の寵児として崇め、「カリスマロックスターのカートコバーン」として偶像化・即自化してしまった。彼の無限の他者性を無視してカートコバーンって〜な人という観念を作りあげてしまったのだ。
あたかも常にそれ自体で100%の物であるかのように。


彼は抽象的な歌詞についてインタビューを受けた際にこう言っている。(うろ覚
えだが…)

「物事は曖昧な方が面白い。はっきりさせるのは好きじゃないんだ」と



彼のこの発言からは
知ったような顔で「〜だ!」と一元的なイメージをぶら下げて褒め称えてくる者と、それに気をよくして格好つけた歌を歌いまくる馬鹿なロックスター達にたいする反感の意が感じ取れる。
(もしかしたら彼自身の内にもその反感の対象となるような、明晰を求めたり、資本主義的に自己実現したいという願望の種があったのかもしれない)



だがしかし、気付いてみると彼は商業的成功を収めたヒーローになっていた。彼が嫌悪していたような輩によって、彼が嫌悪していたものに仕立てられたのだ。


彼には自分をとりまく一様な社会的価値観・世界観がさぞ滑稽に思えただろう。
彼が見ていたのは無価値で空虚な世界だ。



何かが違う。いや全てが違う。周りの奴らも俺自身も。

「情熱が消え失せたんだ」



この時、不条理のニヒリズムが彼を襲い、彼にとって生は耐え難い地獄となった。

不条理な他者の眼差しと、不条理な自己矛盾・・・・・

(サルトルは自己を瞬く間に即自化してしまう他者の眼差しについて、「地獄と
は他者である」という有名な言葉を残している。)








以上は私の勝手な解釈に過ぎないし、彼にとっては私も無数の地獄の内の一つで
あろう





悲痛な怒りと嫌悪、愛、絶望、希望
多くの矛盾





私には
カートと『異邦人』のムルソーが重なって見える



ちなみに「NIRVANA」とは仏教用語で、欲望の火の消えた安らぎの境地、涅槃寂静である

色即是空・・・形あるものは空(実体がない)である
諸行無常・・・万物は無常であり、本質や真理など流転するパラダイムにすぎない
諸法無我・・・全ての存在には我(主体)など無い


世界は現象・表象である


カートは仏教思想に共感していたのかもしれない
だが彼は自身の生の内に安らぎを見出すことができなかった。


彼の死は我々にこの世界の矛盾、苦しみを訴えかけている





NIRVANAはどこにあるのか、と。

大学が夏休みに突入してから早1ヶ月・・・・


就職活動を控えている身ですが特に何もしてません


そもそも就職なんて気にしてたら哲学科なんて入ってません



とりあえずこの持て余した時間を使って何か新しい事をしようと心に決めました!



このブログもその一環です。




音楽やら哲学やら日常やら
思いつくままに書いていこうと思います★





【音楽について】

自分がギターを担当しているバンドではRAPCOREをやっています


楽器隊はROCK,HR/HM,PUNKを演奏し、それにMCがラップやメロをかぶせるという
所謂ミクスチャーですが、

俺は敢えてミクスチャーではなくRAPCOREと言います



「ミクスチャー」っていろいろごちゃ混ぜにした新しい音楽みたいな意味合いだけど
今日では既に「ミクスチャーっぽさ」っていうのが概念としてできあがっちゃってると思うんですよ。

「ミクスチャーをやる」と志向してしまったらもうそれは既存のものへ向かっているということだ


しかしだからといって古いものが駄目だと言っているのでは決してなくて、
できあがった観念に縛られたくないってことです




とするとジャンルなんてものに拘ってる時点で明らかに自己矛盾ですが、


RAPCOREって言うと「????」って感じでしょ?笑


ラップでコア・・・・・っていうよくわかんないけど何かいかつい!!
そんな感じが気に入ってるんです。

それだけの話です。笑



厳密に言うとオルタナのほうが理念的には適切かもしれません

オルタナティヴは80〜90年代にアンダーグラウンドミュージックが台頭してきた時に、その流れに乗って出てきたバンドを指して用いられるようになった言葉で、今では特定のジャンルを示しているように思われがちだけど

俗にオルタナと呼ばれるradiohead、nirvana、レッチリ、等を見ればわかるように
そこには共通の音楽的特性があるわけではありません


オルタナティヴの本来の意味は「型にはまらない」「既存のものではないもの」です
今あるものに対するアンチテーゼなんですね



しかしどんなに新しいものも存在している時点で既存であり、またそれに対する新しいもの・アンチテーゼが生まれる。



今まではなかったもの、今はあるもの、0.0.....1秒後には既にあるもの。


新しさは瞬く間に流れ去ります


逆に言えば、新しさが流れ去ってくれないと何も生まれる余地がなく、新しさはどこにも存在できなくなります。
過去になるから、過去があるから、新しいんです


そうやって新しさは我々に瞬間的に何か確信のようなものを与えながら、決してその場所に留まることなく姿を隠してしまう







だから我々は留まることなく創造し続けなければならない



創造した「モノ」がオルタナなのではなくて「絶えることの無い創造」こそが本当のオルタナなんだと俺は思います。





また、既存のものが対象でも自分がそこから何か新しい感覚を喚起することができたら、それは紛れも無い創造です

自由な精神を伴う芸術鑑賞は単なる受動的な行為ではなく極めて能動的な創造的行為です



オルタナティヴに製作し、オルタナティヴに鑑賞し、オルタナティヴに生きよう
そしてなんとなくRAPCOREとか言ってみたりして格好つけよう。笑





そうやって新しさが蓄積されて過去となり、豊かな生を成すのではないでしょうか

クリエイティヴな精神・生き様を目指したいです






大分ざっくり適当に思ったことを書き殴りましたが
そのうちちゃんと掘り下げて論じてみたいです




おやすみなさい

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