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茅秋という号で書家としても活躍なさっていた中原先生の揮毫によるもので,個性に合わせて選ばれた文字にどのような思いが込められているのかを語りながら,一人ひとりに手渡して下さいました。 私のために選んで下さった字は,両親が考えてくれた名前の一字で,「笑顔があふれるような潤いのある人生を」というようなメッセージを頂いたことを記憶しています。 中原先生は,前衛書道の書家ならではのユニークな字体をふんだんに使ったガリ版刷りの学級通信を毎日のように発行し,書き取り相撲というバトル形式の漢字の授業で私たちのやる気を引き出し,私がふざけて書いたまるもじ風の書道作品をほめてくれました。 選挙の開票速報を見続ける授業とか,札幌オリンピックを観戦する授業とか,観音開きのテレビを生かした(?)授業もしばしばしてくれました。 どこから借りてきたのか,イエスかノーかでボタンを押すと即座に結果が集計される装置を使って授業をしてくれたこともありました。 なんでもみんなに聞いてかまわないと言うので,男子が次々に集計結果が映し出される機械の前に立ち,「ぼくのことを好きな人?」という質問を女の子たちにぶつけたことを覚えています。 6年男子,おそるべし!です。 書家らしく自由奔放なところはあったかもしれませんが,子どもたちの気持ちをつかむ力を持った,とても魅力的な先生でした。 その中原先生がよく言っていたのは,小学校高学年というのは記憶力がいちばんある年頃だから,たくさん勉強していろんなことをどんどん覚えなさいということでした。 素直な少年だった(笑)私は,日本国憲法前文を暗記し,返す刀で歴代天皇の名を暗記しようと試みました。 ただ,日本国憲法前文は暗記できたものの,歴代天皇の名は「一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条…」あたりのリズムの悪さ,語呂の悪さに堪えかねて挫折しました。 今思えば中原先生は,歴代天皇の名を暗記させられる教育と,日本国憲法前文を暗記させられる教育を相前後して受けた世代だったわけで,そういうねじれを私たちはそのまま受け止めていたことになります。 中原先生は1934年生まれ。私たちは1961〜62年生まれ。 ちょうど親子ほどの年齢差がありました。 丸暗記した日本国憲法前文を諳誦するときの高揚感は,憲法九条の条文を読むときの私の気持ちの高ぶりにそのままつながっていきました。 そういう小学生の私にとって,自衛隊は明らかに違憲でした。 中学生になり,語彙力や読解力が高まった(はずの)私にとっても,自衛隊は明らかに違憲でした。 大人たちの中にもそう主張している人たちがいましたが,現実問題としては自衛隊は合憲であると見なされ続け,今日にいたっています。 最高裁判所も自衛隊について違憲判決を下すことはありませんでした。 市民が憲法違反を放置すれば、権力の側は、憲法に違反しても大丈夫だと学習する。憲法を平然と破った前例ができることは、憲法を破る心理的抵抗感を弱め、憲法規範の力を縮小させてしまうのだ。
そうなると何が起きるのか。表現の自由の保障や裁判所の独立など、他の憲法条項の力も縮小するだろう。これは権力にとって好都合なので、政府は、さらに憲法の空文化を押し進める。他方、市民が憲法の力を回復しようとしても、表現の自由などの武器は失われている。憲法規範は、一度空文化されると取り返しがつかないのだ。 これは今回の安保法制についての記事です。 でも,1972年から9回も最高裁が違憲または違憲状態と判断したのに選挙は無効にならず誰も責任を問われていないとしたら,一票の格差問題における事情判決の法理適用も「憲法の空文化」に加担してきたという話になります。 憲法はもうとっくに「空文化」してしまっているのです。 高等学校の国語教科書に載っている「「である」ことと「する」こと」という文章の中で,丸山真男はこう言っています。 「国民は今や主権者となった。しかし、主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているという事態が起きることは十分にありうる」というわけです。
これは、大げさな威嚇でも、空疎な説教でもありません。ナポレオン3世のクーデターから、ヒットラーの権力掌握に至るまでの西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。 「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし、自由を市民が日々行使することは、さらに困難である。」という言葉があるように、いつの間にか、自由の実質がカラッポになってしまう危 険性は、極めて現実的にありうることです。 自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってのみ守られる。言い換えれば、日々自由になろうと努力することによってはじめて、自由でありうるということなのです。 問題は,日々「現実の行使」に努めているのが主権者の一部に過ぎないのであれば,「自由の実質がカラッポ」になることを回避することは難しいということです。 「現実の行使」をしない他者に対して強圧的になったり攻撃的になったりすることなく,いかに「主権者としてのわれわれ」を立ち上げることができるのかが問われているわけですが,世の中の動きを眺めている限り,その方途は容易に姿を現わしてくれず,ただただ私は茫洋たる世界にじっと目を凝らすばかりです。 |
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ボーイのドリーミンという歌の歌詞にもあるように
表向き自由が欲しいと夢見る人は実は束縛された日常に安堵している
らしいです
平気で共産主義や社会主義を公言する馬鹿者(とはいえ学校で理想として教えている)もいるが本気の馬鹿は一人もいない、これは右翼とて同じことですね
表現は自由だが実際には嘘をつく自由としか思えないです
自衛隊は不要ですね
はやくつぶして自衛軍になってほしい
でなければ自衛団に名前を変えてほしい
(それも欺瞞と詐称でしかありませんが)
2015/8/15(土) 午前 5:27 [ 不思議な泡 ]
素敵な先生と出会えたのですね♪ちなみに私は1962年生まれです。
とても共感できる考察でした〜!
2015/8/15(土) 午前 9:42
> 不気味な泡さん
現実が現実である以上,束縛はまぬかれず,だからこそ人は自由を希求し,自由を希求するというふるまいの持続のみが“自由”を担保するということでしょうか。強引なまとめですが…。
「自衛団」と「団」が着くと,一気にあやしさが増しますね(笑)。「死ね死ね団」みたいな悪の秘密結社を連想するからでしょうか?
2015/8/17(月) 午前 7:18
> にこにこくんさん
おお!同い年でしたか。それはそれは。
この記事を書くに際してググってみたら,書家としてご活躍を続けていらっしゃるようなので,お目にかかる機会があるといいなぁと思っています。
ありがとうございます。
2015/8/17(月) 午前 7:21