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「責任」を負わせるべきは?
ここ数日,冷水シャワー虐待死という痛ましい事件をめぐる報道がニュース番組で繰り返し取り上げられています。
当初は父親の無慈悲な行いに焦点を当てる報道が多かったのですが,昨日からは「お父さんにぼう力を受けています」というアンケートの回答コピーを野田市教育委員会が父親に渡していたことが問題視されています。
たしかにこれは問題で,批判されてしかるべきですが,それで終わっていいのかという思いもぬぐえません。
「父親」や「教育委員会の人」を悪玉にして血祭りに上げて一丁上がりということだと,こうした悲劇はなくならないのではないかというのが,私の感想です。
いつも思うのは,こうした悲劇は何によって生まれているのかということを考えられないかということです。
悲劇を生む構造にまなざしを注ぐことは,個人の責任を免罪することにつながりかねないところがあるので,慎重に考えなくてはならないのかもしれませんが…
「理不尽」に服従する行動特性
「しつけ」という名の下に暴力を行使する父親のふるまいには,日本陸軍の新兵いびりや運動部のしごきを連想させるものがあります。
おそらくこれらはすべて,児童・生徒に対する教師の暴言や体罰とも地続きです。
理不尽な指示にも従順な身体を作り上げる規律・訓練の手段として,身体的な暴力とことばの暴力,集団の相互監視システムが巧妙に行使されます。
「嫌ならやめちまえ!」と言われると,「申し訳ありません! 心を入れかえてがんばります!! もう一度やらせてください!!!」と叫びながら相手の意図を忖度して行動する習性が身に着いてしまいます。
善悪の判断基準よりも,作り上げられている上下関係を維持・強化することに貢献するか否かが判断基準になってしまいます。
叱責されると,条件反射的に「忖度回路」が発動し,自分の意志や判断をおさえこんで服従することを選択します。
それが学級活動や部活動を含む学校教育というシステムに適応的な優等生の行動特性であったとするなら,「(父親の)威圧的な態度に恐怖を感じ、屈して渡してしまった」という教育委員会の人のふるまいは,先生に恫喝されると言うとおりに行動するという意味において,学校教育にきわめて適応的(優等生的?)だと考えることもできるわけです。
理不尽な環境下で教育やしつけを受けた人間が,教育やしつけをする側にまわった時に同じような理不尽を相手に強要するのだとすれば,あの父親も理不尽な教育に服従することを是とする世界の住人だったのかもしれません。
学校と社会の関係は,ギャップがあるからギャップを埋めればよいというような単純な関係ではないようです。
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