|
椎名麟三を読んだ二十歳のころ
大学に入学してすぐ,ゼミに入りました。
学部1年生から大学院生までがともに学ぶ,昭和文学ゼミというゼミでした。
単位が出ない「自主ゼミ」なので,サークルみたいなものですが,毎週毎週レジュメを作って発表する人がいるので,参加するための準備として,とりあげられる近代文学をしっかり読み(たいていは2度読んでいました),参考文献も読み込んで参加していました。
二十歳になった年にゼミがテーマにしたのは,たしか戦後文学でした。
野間宏を取り上げたときには,他大学から専門家の薬師寺章明先生が参加してくださるなど,ぜいたくな時間を過ごしていました。
戦後文学を読むことは,当時の私にいろいろなものをもたらしたのですが,いま思い返して忘れ難いと感じるのは,椎名麟三の文章をたくさん読んだことです。
「深夜の酒宴」「重き流れの中に」「深尾正治の手記」「永遠なる序章」と読み進めてその世界に感化され,エッセイのたぐいも読み漁りました。
二十歳の私が深く納得し共感したのは,椎名麟三の「ほんとう」をいう言葉に対する嫌悪感でした。
戦中から戦後にかけて,価値観が180度転倒する状況の中で「ほんとう」という言葉を口にする人間に対する嫌悪と,「ほんとう」という物言いに対する徹底した懐疑を口にする椎名麟三の言葉に,大げさに言うと「文学」の真髄を観た気がしました。
ひとつの反措定
昭和文学ゼミの顧問は,文芸評論家にして文学史家の大久保典夫先生でした。
お忙しかったのでしょうか,ゼミに顔を出すことはそれほど多くなかったですし,文学についてじかに詳しく「教えてくれる」タイプの先生ではありませんでしたが,何かしら奥深いところで影響を受けてきた気がしています。
たとえば,こんな言葉を知ったのは,大久保典夫先生からです。
小林多喜二と火野葦平とを表裏一体と眺め得るような成熟した文学的肉眼こそ、混沌たる現在の文学界には必要なのだ。 平野謙の「ひとつの反措定」(1946)の一節です。
このふりはば,左から右へ一気に振り切る暴力性。
ビートたけしに言わせれば,こういう振り幅は,暴力であると同時にユーモアでもあります。
異質に見えるものの奥にある同質性を喝破し,物事を相対化すること。
こういうところにも文学があるなぁと,二十歳の私は考えました。
野田市虐待死事件(冷水シャワー虐待死事件)で命を落とした少女の母親が,父親の暴力を制止できなかったということが理由で逮捕されました。
母親もDVの被害者であったらしく,自分に危害が及ぶことを恐れて,娘が傷つけられることを制止できなかったと言います。
娘に暴力が及んでいる限り,自分は攻撃されないという考えがあったと言います。
暴力を制止したら,自分に危害が及ぶ可能性があるので,何も言えなかったと言います。
そして,そういう状況に陥っていた母親について,「学習性無気力感」という言葉が使われていました。
これって,他人事ではないなと直感しました。
小林多喜二と火野葦平を等価に眺めるように,「栗原勇一郎容疑者と××××」あるいは「栗原なぎさ容疑者と××××」を等価に眺めるような成熟した文学的肉眼。。。
さて,「××××」には何が入るのでしょうか?
|
全体表示
[ リスト ]







わかってしまった気がするのですけれども、ここに書いていいのかなー。
2019/2/6(水) 午後 11:35
> テハヌーさん
書いちゃってください^^
2019/2/7(木) 午後 10:10