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うっそうとみどりの木々がおいしげり、
すきとおったみずうみがあって、 色とりどりの草花が咲き乱れ、 まだ人間は誰も足をふみいれたことのないようなふかい森林の奥に、 一羽の年若いねむりうさぎがいました。 ねむりうさぎというのは、ただずっと、いつまでもねむりつづけるふしぎなうさぎで、全身を真っ白なふさふさの毛におおわれた、とても美しい生き物です。 そのねむりうさぎの名前はハルシャ。 ハルシャを前にすると、たった今まであばれまわっていたいのししもカモシカも急におとなしくなります。 できるだけ足音を立てないように静かに歩いて、ねむりうさぎが目を覚まさないように気を使います。 もちろん周りがどんなに騒がしかろうが、ねむりうさぎハルシャはすやすやとねむり続けるのですが、ほかの動物たちの方が自然にやさしくしてくれるのです。 ハルシャがねむっている場所は、幹からじかに葉っぱの生える大きな樹、森林のみんなからはパルラと呼ばれる樹の根元でした。 そのパルラの樹は、風にざわめいて、かすかなおしゃべりのような音を立てることがあります。セロファンを口に当てて、ないしょ話をしている声に聞こえます。 そんな時にだけハルシャの鼻の下はもぞもぞと動き、まん丸のおしりのボンボンみたいなしっぽがちょっと持ち上がって、右か左の耳が伸びかかります。 みんながはっと驚いて見ていると、ハルシャはまた直ぐにすやすやと寝息を立てはじめて、みんな何故かほっとします。 そうです。 ねむりうさぎハルシャは、ただすやすやとねむり続けることで、けものたちの安らぎとなり、森林の静けさを守り続けていたのです。 まっ白な雲をつきやぶり、空にむけて切り立った、高い高い山のてっぺん、半分くずれてすいちょくのがけ、そのがけからまだ上に向かってぐにゃぐにゃと伸びた木の枝の先にまだ一匹の年若い豆はんみょうがいました。 その豆はんみょうの名はカンタリ。 カンタリは自分が特別な生き物であることを知っていました。 豆はんみょうは、毒虫と呼ばれていました。 はんみょうの仲間の中でも、毒を持たない者も大勢いましたが、見かけが豆はんみょうに似ていることで、恐れられている者さえいます。 何故なら鳥にせよ、蛇にせよ、もちろん人間も、豆はんみょうをふつうに食べてしまえば、もう命はありません。 ただふるえ苦しみながら死んでしまうしかないのです。 それなのに人間の中には、豆はんみょうを捕まえてすりつぶしてしまうものがいます。 それからすりつぶされた仲間がどうなってしまったのか、カンタリはうすうす知っています。 弓矢の先にぬられて殺し合いに使われ、それからひざまずいたつみびとにばつとして飲ませるのです。 カンタリが自分の命を捨てる覚悟をすれば、おろちもひぐまもまるで相手になりません。 だからこそカンタリは自分がそんな特別な生き物であることにおびえて、誰にも会わないようにと、たった一人で暮らせる場所を探して旅を続けました。 そしてついにこんなさびしい場所にたどり着いたのです。 独りになってカンタリは、色んなことを考えました。 ただ考えるより外にすることがなかったからです。 カンタリは自分が誰も傷つけたくないだけなのに、周りから恐れられ、煙たがられてしまうことを悲しく思い出しました。もっと別の生き物に生まれ変われたらなあ、と思いました。 その時カンタリの頭の中に浮かんだのが、一度森林の奥の方で見かけた美しいねむりうさぎのことでした。 ねむりうさぎはただ体を丸めてねむっているだけなのですが、セキレイはあのけたたましいさえずりを忘れ、小首をかしげて見つめています。腹ぺこのはずのきつねでさえも、傍らに伏せ、気持ち良さそうに寝息に目を細めています。 カンタリはねむりうさぎの側を通る時、ガシャンとかドシンとか大きな物音を立てられないものかと、ちょっと意地悪なことを考えました。もしもカンタリにススメバチのような鋭い牙と毒針があれば、つい何となく、その場でねむりうさぎハルシャのおしりにかみついていたかもしれません。 でもカンタリは食べられてこそ無敵の毒虫ですが、自分から大きなけものをこうげきするようなぶきを持っているわけではありません。それに意地悪な気持ちもちょっと浮かんだというだけだったので、カンタリは何もしないでハルシャの横を通り過ぎました。 その時のことを思い出して、カンタリは複雑な気持ちになりました。意地悪な気持ちになってしまって、ハルシャにもうしわけなく思う気持ちと、ハルシャをうらやましく思う気持ち、それにねむりうさぎにあたりちらそうとするまでおいつめられてしまった悔しさ。 カンタリは前足で触覚をなでて、気持ちを落ちつかせようとしながら、何度も背中の翅を広げたり閉じたりしました。 その時カンタリの体の中では一滴一滴、恐ろしいしびれ毒がたくわえられていました。 カンタリが口の中の苦いねばりけを飲み下すと、それが胸の重苦しいつかえと混ざり、腹の底にたまっていたどろどろとした黒い液に落ちます。 そがやがて毒袋に集められ、じっくりと時間をかけて化学変化をくり返し、恐ろしいしびれ毒へと変わっていくのです。 もちろんカンタリは自分の体の中で起きていることは知りません。 ただ毒袋がしびれ毒で一杯になると、背中のはん点の黄色がいっそうあざやかになるのです。 そしてカンタリは自分の目の前が深い青にかすんでいくのを感じました。 ひとまわり大きくおなかが膨らみ、体のふしぶしがぎりぎりときしみます。 そしてカンタリは触覚をぴんと立て、風向きを読みました。 カンタリはねむりうさぎの森林に向かって伸び上がりました。 そしてせっかくたどりついたたった独りの静かな場所から静かに飛び立ちました。 木々の間を温かな風がゆっくりと吹きぬける午後、パルラの木もれ日と落ち葉のふとんに包まれ、ねむりうさぎハルシャはいつものようにすやすやとねむっていました。 ねむりうさぎハルシェの上に降りかさなった落ち葉を、鼻息でそっと吹き飛ばしていたのは、大つのしかのタモラウです。 タモラウは時々こうして、ねむりうさぎが葉っぱに埋もれてしまわないように世話をしていました。 そこへ、ふらふらと揺れながら、一匹の小さな虫が飛んできました。 カンタリです。 小さな虫のことなので、タモラウはカンタリがやって来たことには気がつきません。 ふんっと一つ大きな鼻息をして葉っぱといっしょカンタリも吹き飛ばしてしまいました。 タモラウは最後にじいっとハルシャの寝顔を見つめて、満足そうにパルラの樹の根元から歩き去って行きました。 カンタリはハルシャのすぐ横に落ちました。 地面に引っくり返ってじたばたする毒虫をよく見てみると、左の真ん中の足が一本、途中からちぎれてなくなっています。 翅がきちんとたためなくて、甲羅からはみ出しています。 そしてじたばたに力がありません。 高い山の上から、こうして森林に降りて来るのに、そうとう疲れてしまったようです。 草に背中をこすりつけて、なんとか起き上がったカンタリは、ねむりうさぎの方へ向かってゆっくりと歩いて行きました。 そしてこっそりその体にはい上がり、長い耳の側までたどりつくと、カンタリはねむりうさぎにささやきました。 ♪ 悲しいけれどぼくは毒虫 ぼくを食べるとみんな死ぬ 何も悪いことをしていないのに みんながぼくを殺そうとする だからぼくは決心したんだ たった独りで暮らそうと でも独りじゃ何もない 悲しいことを考えるばかり 何も悪いことをしていないのに せめてぼくは君に食べられて みんなをがっかりさせてやりたい ぼくの悲しみは消えないけれど ぼくは独りじゃなくなるのさ それからカンタリは、パルラの樹が風に吹かれてざわめくように、くしゅくしゅとささやきの口まねをしました。 そしてねむりうさぎハルシェが鼻の下をもぞもぞと動かしたのを見ると、その上唇の透き間から口の中にもぐりこもうとしてカンタリは頭を突っ込みました。 しかしいくらふんばっても、中には入って行けません。 どうしたことかと前を見ると、唇の下には、丈夫そうな前歯があって、口にふたをしていたのです。 それでもしばらく唇のなかに頭を突っ込んでいたカンタリですが、しだいに体に力が入らなくなってゆきました。 だんだんと動きは小さくなり、夜になるとついに全く動かなくなりました。 翌朝、さあっと風が森林を吹きぬけて、パルラの樹がざわめくと、ハルシャは鼻をもぞもぞと動かし、カンタリは仰向けにぽとりと地面に落ちました。 それから丸一日かけて、ゆっくりとカンタリの足は縮まっておりたたまれました。 数日後、すっかり乾燥して軽くなった豆はんみょうカンタリは、アリの巣に運ばれて行きました。 ねむりうさぎハルシャは、それからもずっと静かにねむり続けました。 タモラウの気づかいも、カンタリの死も、森林の平和も、何も知りません。 うっそうと木々がおいしげり、 すきとおったみずうみがあって、 色とりどりの草花が咲き乱れ、 まだ人間は誰も足をふみいれたことのないようなふかい森林の奥に、 今日もハルシャはねむり続けます。 了
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転載「負荷」別館
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どういうわけか,2007年夏に更新することをプツリとやめてしまったkobachou(小林長太郎)さんのブログ「負荷」の記事を少しずつ転載していきます。
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【村上春樹】
…(むらかみ・はるき) 作家。 山羊座のA型。(多分) 昭和の白鳥、平成の漱石などと呼ばれた不世出の人気作家。 一言で言えば、「頑固な人」。 早稲田大学に七年間通い、ヤクルトスワローズの優勝した年に、新宿の紀伊国屋の下にあった万年筆屋さんで万年筆を買い、缶ビールを飲みながら『風の歌を聴け』を書いて群像新人賞を受賞。 日本文学界を震撼させる。 『1973年のピンボール』を勝手に全集に収めようとした編集者が後に入水自殺をする。 おでんを食べる。 三作目の長編『羊をめぐる冒険』で鼠は死ぬ。 お寿司を食べる。 以降一作ごとにその地位を固め、ファンを拡大し、『ノルウェイの森』をベストセラーにする。 厚揚げを食べる。 その後、『国境の南、太陽の西』ではやや厳しい批評を受けることになるが、この作品が一番好きというブロガーも珍しくない。 作品についていちいち書いていたらきりがない。 吉本隆明はもっとも優れた作家であると評する。 その通りである。 ■ □ ■ □ ■ 有意味なものを貶下し、無意味なものに真剣に取り組んで見せること。 これは『風の歌を聴け』において、アメリカ人もほとんど知らない、また知る必要もない作家デレク・ハートフィールドを大々的に持ち上げて、彼から書くことを学んだといってみせたりするところにもあらわれている。 (『終焉をめぐって』/柄谷行人/福武書店/1990年 /p.83) ■ □ ■ □ ■ ……村上春樹・川西蘭・島田雅彦らのものを読んでいると、内向の世代・空虚凝視の世代どころか、いまでは〃ライト・タッチの世代〃というべき世代が成立してきているように思うが …… (『私の見た昭和の思想と文学の五十年』小田切秀雄/集英社/1988年/下巻P.443/) ■ □ ■ □ ■ これまでの小説を書くための体系みたいなものが、崩れちゃってるわけでしょう。 それを認識して、手持ちの断片を拾い集めて、なんかつくっていかなきゃならない。 その断片が、たまたま風俗だった、だから風俗小説というとらえ方をされると、非常に困るんじゃないかな。 (『ウォーク・ドント・ラン』村上春樹/村上龍/1981年/ 講談社/p.19) ■ □ ■ □ ■ 「これは僕の個人的な意見ですが、あなたのストーリーと日本の伝統的な短編小説のあいだにはある種の共通項があるんじゃないでしょうか?」 「ふうむ。たとえばどんな?」 「たとえばですね、あるひとつの状況があって――これはどちらかといえば個人的なドメスティックな状況なわけですが――そこに変化が起こる。ひっそりとした目立たない変化です」 「うん、そう。ひっそりとした変化だ」 「そして状況も変わる。しかし本質的なレベルでは何も変化しない。そしてストーリーはそこでカット・オフされて終る」 「そう、カット・オフだ。イエス。何も変らない。ザッツ・ライト」 (『夜になると鮭は……』レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳/中公文庫/あとがきの中にあったインタヴュー) ■ □ ■ □ ■ 「荒廃」ruin,devastation,それらの言葉はまるでまじないみたいに、繰り返し繰り返し、この本に登場してくる。 ギルモア家の人々はそれを「ゴースト」と呼ぶ。 遠い過去から、深い暗闇から現れ出て、彼らの襟首をひっつかんで地獄につれていく恐ろしい永遠の死霊。それは逃れることのできない伝承であり、遺産である。 マイケルが勇気を振り絞ってこの本を書き上げたことによって、果たしてゴーストの追跡からうまく逃げおおせるのかどうか、僕にはもちろんわからない。 僕にわかるのは、この物語を読んだ多くの読者が、本の最後のページを閉じたあとで、おそらくはそれぞれのゴーストに向かい合うだろうということだけだ。 多かれ少なかれ、向かい合わざるを得ないだろう。 もちろん僕も、その「向かい合わざるを得ない」読者の一人であった。 (『心臓を貫かれて』マイケル・ギルモア著/村上春樹訳/文藝春秋 /1996年/訳者あとがきより) ■ □ ■ □ ■ この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけれど、一つの比喩的な装置である。 それはきわめて効率的に、きわめて狡猾に、人を傷つけ狂わせる装置である。 それがオブライエンにとってはたまたま戦争であったのだ。 (『(『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン著/ 村上春樹訳/文藝春秋/1990年/あとがきより) ■ □ ■ □ ■ 僕は小説家として、原則的にはフィクションを翻訳することが自分の仕事だと思っている。 フィクションという形態が基本的な 洗いなおしを迫られている今の時代に、フィクションの持つ可能性を、いろんなかたちで意欲的に追求していくことが、僕の役目であるし、翻訳についてもそれはおなじだろうと。 しかし先にも 述べたように、この『心臓を貫かれて』を訳したことによって、僕が一人の人間として学ぶことのできたものは数多くあった。 予想を超えて数多くあった。 そしてまた同時に、事実の――少なくともある種の事実の――巨大さと強烈さというものを、一人のフィクション・メイカーとして、身にしみて感じることになった。 (『心臓を貫かれて』訳者あとがきより) ■ □ ■ □ ■ でも僕も今度日本に落ち着いたら、何か自分にできることを身近に探してみようという気にはなっている。 (『やがて悲しき外国語』/村上春樹/講談社 /1994年 /P.62) 【おまけ】 オシム語録87 「昨夜のことですが、ふと問題が一番最初のところに戻ったような気がしたんです。 今更ですけど、小説を書くのは何故だろう、なんて考えていました。 それは、ふと「三島は小説をコンプレックスの附属物に貶めてやしないか」と思いついたからです。 商売や、見栄の為なら、小説なんて書かなくてもいいのです。 書かなくてはいられない、なんてのは一種の病気ですから、そこには分析すべき病因というものがある筈なのです。 私はそれを仮に今、コンプレックスと呼びましたが、そちらが主であれば、それを治療しないで自殺してしまったのは間違った行動です。 そこで小説は症状でしかありません。 でも、そういうロジックの道筋を否定する感情があるのですね。 また、初期の三島、そして定家に関する文学観には、コンプレックスの附属物とはいい難い何かがある。 それを今、じっくり読み解いている最中です。 時間はかかりますが、そうした作業を通じてしか、前に進めないと考えています」 なんて言うわけないですね。
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『海辺のカフカ』の負荷
1/語り残されたもの 語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。 おまけにことばは死ぬ。 一秒ごとにことばは死んでいく。 (『街と、その不確かな壁』/村上春樹/『文学界』/1980年/p.46) * 『海辺のカフカ』から遡ること二十二年前に書かれた『街と、その不確かな壁』はこんな「ことば」で始まっている。 言葉でしか伝えられないけれど、言葉でしか伝えられないという所謂「書くことの不可能性」というモチーフに関して語られた言葉であるとすれば、これはいかに脆く、幼く、感傷的な表現だ。 だが『海辺のカフカ』でもさらに脆く、幼く、感傷的な表現で、このモチーフは繰り返される。 * 「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにはできないものだから」 (『海辺のカフカ』下巻/村上春樹/新潮社/2002年/p.413) * この表現の脆さや幼さについて、具体的に批判する必要はなかろう。 書くという行為はそもそも「書くことの不可能性」に挑む試みであるからして…などと書いてみてもつまらない。 そう書いてみたい程真剣に文章に取り組んでいる者であれば、己自身が、しばしば口に出さないまでも、「そのようなもの」の影を感じている筈だからである。 だからある人は「上手く言えないけど君が好きなんだ」とか「言葉にできないこの気持ちを伝えたい」というような「書くことの不可能性」に阿った表現に点が辛い。 上手く言えないけれど、そこで表現を工夫するのが文学であろう。例えば「不器用ですから…」と言いさしにするのも一つのレトリックであろうか。 しかし四半世紀もの間、休むことなく書き続けてきた日本を代表する作家が、その初版から数十万部印刷する長編小説の最終章において「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできない」などと書いてしまうことが凄いといえば凄いし、まあ、無責任と言ってしまえば無責任ではある。 読者の中には、ただ何となく雰囲気を愉しもうというだけではなく、作品のテーマを理解し、作者の意図を突き止め、その哲学に関して深く考察したいと考えている人たちがたくさんいる。 そういう人たちにとっては『カフカの海辺』という小説は、「謎」や「不可解」を多く残したまま、ぼんやりとした読後感を与えてしまったようだ。 ただ言わずもがなではあるが、この作品も頭から書きおろして修正なしで発表されたわけではないので、プロの作家の技術をもってすれば辻褄あわせそのものは簡単にできた筈である。面倒くさいから「謎」や「不可解」を解決しなかったということではなかろう。 読者が感じた「謎」や「不可解」は「ことばにできないもの」としてわざと語り残されたのだ。 だから私がここに書こうと思うのは、厳密に言えば『海辺のカフカ』の謎解きではない。 そのように感じられる要素があるのは否めないが、それだけではない。 では一体何を書こうとしているのか。 それはどうしてもことばにできないものなのだ。 (次回は「2/カフカとは誰か?」の巻)
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携帯電話会社が顧客の奪い合いにしのぎを削る中、テレビ・コマーシャルでは極端にいびつな表現が工夫され始めた。
「薄さ○○ミリ」 …という表現が露骨に使われる。 厚さ、と云うべきところで、薄さと云ってみる。 つまりわが社の携帯電話は、薄いのだと宣伝したい訳だ。 * こういう露骨さには敏感な人でも案外気がつかないことがあるのではないか。 原子力発電所の○○性については、是非公開でやってもらいたい…と云う時、必ず「安全性」という言葉が選ばれる。 それは違うだろうと思う。 原子力発電所の安全性、なんて概念はそもそもナンセンスなものではないか。 原子力発電所はそもそも危険なものであるが、経済的な理由から必要なものであり、我々はその危険性を管理しなければならないのではなかろうか。 安全性をコントロール …では、何の話かわからなくなる。 危険性をコントロールしなくてはならないのではないか。 * 何度も書いているが、原子爆弾を原子力爆弾と書くと、なにやら前向きな感じがしてしまう。 原子力発電所も、これから「原爆発電所」と名称を改め、その危険性をきっちり管理すべきではないかと思う。 未
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庄司薫論オメガ4
4/全共闘と『ぼくの大好きな青髭』 十・三大衆団交に勝利するぞ! 十・三大衆団交を実現するぞ! 吉田体制を打倒するぞ! 最終的な打撃を与えるぞ! 吉田体制を粉砕するぞ! 全理事は総退陣せよ! 十月三日大衆団交に出てこい! 十・三大衆団交に勝利するぞ! 吉田体制を打倒するぞ! 吉田体制を破壊するぞ! 全共闘は打倒するぞ! 日大十万学生は打倒するぞ! 吉田体制打倒! 打倒するぞ! 吉田体制を打倒するぞ! 全共闘は闘うぞ! 全共闘は勝利するぞ! 日大闘争に勝利するぞ! 勝利するぞ! 勝利するぞ! (『「全学連」研究』本橋信宏/青年会館/発行年月日不明 /P.139) これは『反逆のバリケード――日大闘争の記録』(日本大学文理学部闘争委員会書記局編三一書房1969年発行)からの孫引きになる。今(1998年12月)改めてこの文字面を目で追うと、オウム真理教の「修行するぞ、修行するぞ……」という暗示テープに似ている気さえしてくる。 実体験として私は「民青を追いかけ回す中核派」とか「積み上げられた椅子の上で自己批判を迫られる教授」を目撃はしているが、さらに無限に正直に語れば(あくまで文学者としての正直さという意味だが)全共闘世代ではなく、全共闘でもない。 (※小林長太郎の公式プロフィールでは生没年月日不詳ということになっています。by黒幕kobachou) 全共闘に関しては全く無知であり、興味もなかった。 このシュプレヒコールがごく有り触れた形式であるのか、標準的なものであるのか、それともこれが究めて得意な文体であるのか判断がつかない。 オウム真理教の「修行するぞ、修行するぞ……」を初めて聴いた時には不気味というよりはおかしかった。 自己暗示をかける言葉の語尾として「〜するぞ」が適当であるとは思えなかったからである。 シュルツ式自律訓練法では「〜するぞ」とは言わない。 意志を問題にしないで、自然にそうなる様子を思い浮かべるようにする。 池袋駅の東口で右翼か左翼かの街頭宣伝を見た時には、「〜せよ」と言っていた。 命令形である。 命令形ということは右翼だったのだろうか? しかし命令形とは言え、これも意志を問題にしている。 勿論革命の為のシュプレヒコールが洗脳であってはならないので、意志を問題にしていることは悪いことではない。 またオウム真理教の元信者がマインド・コントロールに犯罪責任を押し付けることも間違いであろう。 シュプレヒコールに於いて言葉は究極的に単純化される。そこで語られている内容の単純さを批判しても仕様が無いし、形式の単純さを指摘することにも意味はないだろう。しかし何か感想を言わなくてはならないとしたら、やはりこのシュプレヒコールは「単純」であり「純粋」であり「若い」と言わざるをえない。 庄司薫の『ぼくの大好きな青髭』はその全共闘世代へのシンパシーに満ち満ちた作品だが、当然批判も含んでいる。 高橋君という青年が小規模な共産社会を実現しようとして挫折し自殺することになるのだが、彼は仲間たちからはオカマをやって体を張ってお金を稼いでいると思われていた。 ところが高橋君はおぼっちゃんで、父親からおこずかいを貰って、それを使っているに過ぎない事が分かった。 その事実を知らされると、仲間の一人は高橋に裏切りさえ感じる。 高橋がお金をどうやって手に入れていたかという問題が、この小説では注目されている。 小説全体に流れる常識としては「親からおこずかいを貰っていては偉そうなことは言えない」ということになっている。 この素朴な常識には、革命運動全体に対する厳しい指摘が含まれている。 実際多くの学生が親からの仕送りとアルバイトで生計を立てていたことは間違いない。 実家から大学に通っている者ばかりが親の臑噛りである訳ではない。 自活している孤児でなければ学生運動をやってはいけないという法律はないが、自活していなくては主張できないこともある。 多くの人にとって働いてお金を儲けるということは、簡単なことではない。 自分の好きなことをやってお金が貰えることは滅多にない。 路上生活者にならない為には多くのことを我慢しなくてはならない。 ぎりぎりの生活をしている労働者には、革命の為にカンパをしてくれと言う学生はお気楽に見える。 幸運な労働者もあれば、不幸な労働者も存在する。 他人を傷つけることなくしては生活ができなかったという人が存在する。 一方で幸運にも人に喜ばれる仕事をして、生活している人がいる。 アレックスは親におこずかいを渡していた。(素晴らしい)(かみそり)を使って集めたお金だ。全てのお金が汚いわけではないが、きれいでないお金で養われている者もけして少なくはないことだろう。 だがこうも言える。 悪いことをして何が悪いのか? 薫くんは体を売るふりをして背伸びをして仲間の関心を集めようとしたお坊ちゃんの甘さや、そんな彼のおふざけにふりまわされて大活躍する自分の純粋さ、そして生意気で我儘な若者への甘ったるいシンパシーに満ち溢れた幼稚な大人たちを一まとめ肯定しようとした。 いや、実は庄司薫には、答えがあるのだ。 ちっちゃな女の子には優しく、海のような男になろうという理想と、若者の夢を飲み込む不夜城を好きになれる…ような結末に持っていった。(正確には好きになれると思うかい?と訊き、由美はあなたならできるわよ、と答えたのだ。) そんな場所ではアレックスたちが(素晴らしい)(かみそり)を使って遊びまわっていることを最初から知っている筈の庄司薫が? (続く)
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