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すいません、宇佐の最終回になります。 宇佐神宮以外の番外編を。 宇佐といえば全国的に有名なところですし、 それなりに観光地化しているのかと思いきや、 駅前の旅館が閉まっていたり、 失礼ながらかなり閑散としている印象でした。 まあ、観光地化が進んで環境的にいいことは無いですからね。 上手く行けば財源としてはよいですが、 恒久的な軌道に乗せるのはタイヘンなことです。 それでも九州の親戚が言うことには、 初詣はたいへんな人出だそうです。 宇佐をローマ字表記すると「USA」ですね。 そこでお土産物に「MADE IN USA」って書いて売り出して、 問題になったことがありました。 宇佐の人曰く「"U.S.A."は点が入ろうが。"USA"にゃ入らん」。 今回MADE IN USAグッズ入手を密かに目論んでいましたが、 残念ながらざっと見たところ、見当たりませんでした。 宇佐神宮へ行くのに、朝は旅館からバスの時間に出ましたが、 帰りは特急に丁度のバスが無く(2時間に1本)、 やむを得ずタクシーとなりました。 タクシー会社は宇佐神宮の前にあるんですねこれが。 博多と大分を結ぶJR九州の特急「ソニック」。 行きは各駅停車だったのですが、 帰りは新幹線との乗り継ぎ割り引きもあるので、 このソニックに乗ってみることにしました。 近未来的でありつつどことなくクラシックでもあり、 ヨーロッパの特急を思わせるデザインだな、と感じました。 ・・・そうそう、滞在中、別の話をしている時ですが、 従妹に「お兄ちゃんテツやね〜」と言われました。 違うんですけど、いやテツでもいいんですけれど、 こんな写真載せるとますます言われそうです。 ソニックの床。 木なんですよ。いいですね。 30cmおきくらいに、この文字が焼き付けられています。 振り子式車両でカーブの連続もスムーズ。 "振り子式"は一般常識だと思っているのですが、違いますか。 流石に特急は早いですね。 小倉まであっという間(1時間くらい)で連れて行ってくれました。 筑豊の山々。 異様にゴツゴツしているように見えます。 なんかこう、山の形って地方で大きく違うことに、 最近になってやっと気が付きました。 今までは行く先々で「ここの山は特徴的」と思っていたのですが、 それはつまり、地方によって個性があると言うことですよね。 面白いですね。 次回からは奈良の行事紹介に戻りたいと思います。
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下野薬師寺・宇佐神宮周辺
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大分の『宇佐神宮』を訪ねた記事第3回。 すいません、もう少しお付き合いください。 称徳天皇(孝謙天皇重祚)の時、『宇佐八幡神託事件』が起きます。 弓削道鏡を天皇にするかどうかというこの一件。 先月JNN系テレビで放送された唐招提寺を巡るドラマでも、 「きえ〜〜っ!!」とか叫ぶ巫女さんにカミナリが落ちて(苦笑〜)、 八幡神が憑依するという・・・なんだか・・・ どうだろうっていう描写で、この事件が取り上げられました。 この時宇佐八幡へ使いに出されたのが和気清麻呂でした。 宇佐神宮の東側の山に「大尾(おお)神社」と、 和気清麻呂を祀った「護皇神社」があります。 私間抜けなことに、護皇神社の場所が分からず、 大尾神社にしか行きつけませんでした。 石段を登り切ったところに「和気公之碑」がありましたが、 ここから右へ行けば護皇神社だったのに・・・ 左の大尾神社の道しるべにしか気がつきませんでした。 大尾神社は、この小さな山の頂にあります。 東大寺大仏殿建立を無事に終えた八幡神が帰ったとき、 しばらくこの山上に留まるという託宣があり、 ここに本殿を築いて15年間留まったそうです。 その間に起こったのが、和気清麻呂が派遣された神託事件。 つまり清麻呂は、この場で神託を聞いたことになります。 ほ〜。 今は八幡神の分霊を祀っています。 この地では和気清麻呂は、道鏡の皇位のっとりの野望を阻止し、 天皇家の万世一系を護った英雄として、護皇神社に祀られています。 道鏡の人物像は地方や語る人によって様々です。 道鏡が晩年を生きた下野地方では、立派な人物として伝わります。 事件後、「穢麻呂(きたなまろ)」と名前を変えられ追放された清麻呂。 後に復帰して桓武天皇に仕えました。 仏教との距離が近すぎる奈良からの遷都は、 清麻呂の進言であったという説があるそうです。 こちらは境内の逆である西側の、弥勒寺跡。 738年に神宮寺として、聖武天皇により建てられました。 薬師寺形式(東西塔も三重)の立派なお寺だったそうですが、 長い歴史の中で勢力を弱めていき、 明治の廃仏毀釈で完全に廃寺となりました。 今は礎石が残っているのみとなり、旧境内の一部は、 宝物館という展示室、一般の社務所にあたる 神宮庁などになっています。 弥勒寺跡のすぐ西隣にある「呉橋」。 寄藻川に掛かる屋根付きの橋で、 勅使が通る時のみ開けて使用されるということです。 10年に一度執り行われる「勅使祭」の時には開放されます。 2002年10月に行われた、 宇佐八幡神輿の東大寺大仏参拝再現イベントの 記念碑が、境内に建っていました。 |
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週間ブログランキングからもランク外になり、 平穏な(・・・)日々が戻ってきました。 大分県の『宇佐神宮』第2回です。 第1回で『本殿』としてご紹介したのは、『上宮』と呼ばれます。 それに対して同じ祭神を祀る『下宮』が、 200mほどやや下ったところに存在します。 古くは上宮は皇族や位の高いもののため、 下宮は庶民のためということだったようですが、 かなり昔からそういった住み分けも無くなったようで、 宇佐八幡に参る時には下宮にも参らないと 「片参り」と言われるようになったそうです。 以前は神饌を炊く場所に建てられた下宮は、 庶民らしく、主に農業や漁業の神様として信仰されたようです。 上宮の開けた雰囲気とはまた違い、 自然に溶け込むような、味わいのある社です。 横からみた下宮。 八幡造ではありませんでした。 八幡神は初めて仏教と融合した神様とされ、 ここ宇佐が神仏習合の始まりの地と言われます。 この地が根本にあたる国東半島では、 この影響で独特の仏教文化が花開き、 多くの石仏が残っているようです。 ぜひいつか、巡ってみたいと思います。 御祓い所。 落ち葉でちょっと分かりづらいですが、 池の中に舞台のような御祓い所が作られています。 御祓い所の奥には、細い滝が見えます。 この近くには「放生池」という池もあります。 744年には初めての「放生会」が宇佐八幡で行われ、 それから全国に広まっていったと言うことです。 摂社「八坂神社」。 後に触れますが、宇佐八幡境内にあった神宮寺、 「弥勒寺」の鬼門守護であったのがこの八坂神社。 毎年2月12日から15日まで、ここで「鎮疫祭」が行われます。 古くは夜中に行われ般若心経が唱えられたため、 別名「心経会」というのだそうです。(今は昼間) 期間中13日には、4メートルもある大御幣をこの鳥居越しに投げ込み、 それを参観者が奪い合うという、豪快な行事もあるそうです。 このお祭では、舞楽「陵王(りょうおう)」の奉納も行われます。 |
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大分県ではありますが、 奈良時代の出来事に大いに関係する『宇佐八幡』へ 行ってきましたので、ご報告いたします。 なお今回は弔事で九州へ行ったため、 一眼レフではなくコンパクトでの撮影です。 743年、聖武天皇は紫香楽宮にて「大仏建立の詔」を出すものの、 事故や天災が続き、なかなか実現できませんでした。 そんな中宇佐八幡から、「大仏建立に全面的に協力する」といった旨の 託宣が出され、天皇は奈良へ八幡神を招き、その神力によって、 無事大仏と大仏殿が建立されたとされています。 本殿前の八幡鳥居と西大門。 奈良へ招かれた八幡神は、 お輿に乗って転害門から東大寺に入りました。 これが後の「お神輿」の最初と言われています。 また八幡神は東大寺の守り神として分祀され、 手向山八幡宮となりました。 これが現在全国に4万と伝えられる 「八幡神社」分霊の最初だとか。 本殿の門。 この門の向こうにある本殿は、「八幡造」という造り。 切妻屋根の建物が前後に並んで付けられた形です。 2つの屋根の間に、金属製の立派な雨どいが付きます。 例えば「春日造」でも軒の間の雨どいは、 異様に大きいものが付けられていますね。 「雨どい」というものに、大きな意味があるのかも知れません。 土曜日ということもあって、 境内では七五三や結婚式など、 いろいろな理由で多くの人がお参りに訪れていました。 本殿は「一ノ御殿」「二ノ御殿」「三ノ御殿」と三棟あり、 「八幡大神(応神天皇)」「比売大神」「神功皇后」が祀られます。 宇佐八幡のお参りの作法は特殊で、二拍手ではなく「二礼四拍手一礼」。 昔からこの作法となっており、理由は分からないそうです。 横から見た本殿。 2つの切妻屋根が見えています。 |
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宇佐八幡神託事件の後、左遷された下野国で 庶民として亡くなったとされる道鏡。 そのお墓と伝えられる『道教塚』が下野市に残ります。 古墳のような塚の上に、「弓削道鏡禅師」とある 木製の小さな墓標が立てられています。 残念ながら墓標までは近づくことは出来ません。 『道教塚』があるのは真言宗の「生雲山地蔵院 龍興寺」。 道鏡が別当として送られた「下野薬師寺」の別院です。 創建は680年の薬師寺創建とほぼ同じようで、 薬師寺(現安国寺)のすぐ近くに位置しています。 奈良時代の銅製誕生仏などを所有するそうです。 現在の本堂は江戸時代くらいのものでしょうか。 山門は近年建てられたばかりのようでした。 山門を入って本堂の手前、すぐ左に『道教塚』があります。 道鏡については「女帝をたぶらかして権力を得ようとした悪僧」 というような評価が、わりと一般的なようですし、 江戸時代くらいからは下品なネタにもされてきました。 当地に立っていた説明板によりますと、 こちらのお寺ではそのような歴史観を払拭し、 正しい歴史を持って道鏡の名誉を回復しよう、 という運動をなさっているようでした。 道教塚前に集められた奈良時代の礎石。 上記、道教塚の説明板にはこうあります。 「従来の正史は、その時々の権力者の都合で記されたもので、 決してありのままでなかったことを遺憾に思います。」 道鏡が実際どうであったか、今の私達には知る由もありません。 (ハメられた・・・というところなのだろうと私は思いますが。) しかし、今私達が正しいと思っている歴史の多くは、 誰かさんの都合のいいように記録されているということは、 しっかりと認識しておいたほうがよいと、常々思っています。 近代史でさえ、どんどん捻じ曲げられていますから。 主な参考資料:NHK「その時歴史は動いた」〜『道鏡事件』
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