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前回、邪馬台国は宗教的第三勢力とする説を無謀にも披瀝したが、今回はそれに至る
道筋を違う視点から大胆に推理したい。
15,000年前、気候が温暖化したが、その後12,800年前「ヤンガー・ドリアス
の寒の戻り」と言われ、ザ・ディ・アフター・トゥモローそのものの現象が起きたことが知られる。
縄文時代後期前半(4,000〜3,500年前)気候が激しく寒冷化して、メソポタミア
文明・長江文明が旱魃により崩壊。東アジアではこれを受け民族大移動がおこり、北方民族
が大挙して南下、沿岸部の畑作漁労民が押し出される形でボートピープルとなり日本へと
押し寄せることとなったことが定説となっている。それと相前後して日本列島でも倭の人々
が東日本から西日本へ大移動したと考えられているが、それを裏付けるように紀南地方、
南部徳蔵遺跡や泉南市、男里川に隣接する沖積段丘上に立地して泉南地域の弥生時代中期の
拠点集落としての男里遺跡には東日本から船で上陸したと考えられる遺物が多く出土している。
これまで、主として渡来人による稲作文化、鉄製品や鏡の西から東への移動が語られ
てきたが、倭人の東から西への大移動、ユーラシアからヨーロッパにかけてのフン族
やゲルマン民族の大移動には比らぶべくもないが、狩猟採集民の大移動が日本で起こったと
仮定したなら、紀南・泉南地域は海からの移動・上陸地となり、倭人の西への移動の
最前線或いは中心地となったであろう。
もとより、西日本は水田稲作の好適地であり堺市浜寺の四ツ池遺跡や河内の国府とされる
国府(こう)遺跡など大集落は随所にみられるが、特に南部徳蔵遺跡で祭祀用と思われる
石棒が6点出土しているが、鬼の金棒ならぬ石棒が鬼道をよくすると記述された卑弥呼
と関係するとは直ちに言えないが、倭人による祭祀が盛んだったことが想像される。
今回の説の要旨は東から西への倭人の大移動に渡来人勢力が圧倒されて起こったのが
倭国大乱であり、それに堪えかねた渡来人勢力が卑弥呼を共立し、和平を図ったことが
邪馬台国の始まりではないかということである。
これによって、大陸の儒教的な宗教観ではなく、日本人独自の八百万の神々を敬う多神教
の宗教観が定着したのではないか?
大胆極まる推理ではあるが、日本人の心のルーツをタイムマシンで遡ればこのような
邪馬台国・卑弥呼も有り得るのではないかと思われる。
参照: [文明の滅亡と環境カタストロフィ] レクチャー01
安田喜憲(国際文化研究センター教授/環境考古学)
http://www.kit-rg.jp/rep2005/rep2.html
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倭人がどの様な人達なのかと言う事は、諸説あり面白い説ですね。宋書に毛人55国と有りますから、毛人国が有ったと言う説なら同感出来ます。また読ませて頂きます。
2007/9/19(水) 午前 11:56 [ テオリアン ]
和歌山県の徳蔵地区遺跡は、縄文時代のみならず、弥生時代、古墳時代と各時代の遺跡が次から次へと発掘され、考古学研究の宝庫と全国から注目されている。
しかし中でも縄文遺跡は特筆で、近畿圏で初めて縄文時代中期前半期(5000〜4500年前)と確認できた集落跡に、西日本最古の埋甕(うめがめ)が存在していた。
また、各地の石器原石や土器の出土量が多い点、関東の土器が大量に出土し、幼児や胎児の墓・埋甕(うめがめ)が、起源地の東日本で本格化する時期に見つかることなどから、近畿中央部・瀬戸内・四国、さらには舟による太平洋ルートで東海・関東とも直結した交流・交易拠点・中継集落であった、と考えられる遺跡である。
また、気候が寒冷化して、東日本で大集落が失われ、人々が関東以南に移動したと考えられている縄文時代後期前半期(4000〜3500年前)の墓域(埋甕と配石墓)と、円形竪穴住居で構成された集落も確認できている。
つまり縄文徳蔵遺跡は、関東から舟で渡ってきた人々が、紀伊半島の突端から陸へ上がりここに住み着いた遺跡なのである。
2012/8/5(日) 午前 8:30 [ 底質汚染 ]