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邪馬台国

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百済の史跡(扶余・公州)を訪ねての稚拙な考察です。

’09年4月8日(水)から10日(金)まで二泊三日の短い旅であったが、

今回のテーマである百済についての勉強には最高に有意義な旅であった。

この旅で訪れた遺跡、博物館、寺院跡は倭国・日本にとって切り離すことの

出来ないものばかりであった。



松菊里遺跡

2千5百年前のものと判明している住居集落跡である。住居構造上の柱4本とは別に

炉の脇に2本の柱、柱は要らないのにある住居が特徴である。実はこの形の住居だが、

日本で多数発掘されている。和歌山(御坊)、三重、高知、岡山、広島、最近のナガハラ

と出土している。但し、日本のものは腰真直ぐ立ちのものは無くみんなパオ式である。

しかし、日本と同じ方式の住居のルーツがここで見つかったのであり、松菊里式住居

と呼ばれることとなった。又、満州・遼東で多数発見されている銅剣の影響を受けた

洋梨型が特徴の銅剣も発掘されている。これも日本でも発掘されているものであり、

遼寧式銅剣文化が満州・遼東から百済そして倭国に至る線の様なものが感じられる。

更に、炭化米も発掘されているが、インディカ種ともジャポニカ種とも見える両方の

米粒が混在していて日本への稲作伝播の過程がここにあると推測できる。この集落跡

では出っ張り部分のある柵の跡も確認されているが、日本の吉野ヶ里遺跡に復元された

物見櫓を思わせる。同行の奈良大学の名誉教授によれば入り口であり鳥居があったのだ

と言う。この柵の作り方も百済から倭国へ伝わって来ていたようだ。



石荘里(遺跡)博物館

白村江の北側に位置する韓国初の人間が加工した石器が出土した遺跡である。

炭素測定法により3万900年前(旧石器時代)のものと判明している。

この時代は氷河期の為、海水面が現在より約4m下がっており、マンモスが水の少ない

錦江の川沿いを歩いて陸続きになった日本列島まで来ていたとも考えられる。



プレ邪馬台国の性格と位置

チグリス・ユーフラテス川からナイル川下流までの黄金の三日月地帯の場合は

周辺の蛮族からの略奪征服を繰り返す対象となったが、満州・遼東から朝鮮半島

西側(百済)そして倭国へと至る文化伝播の高速道路では前述の状況とは違い、

当時は蛮族であった倭国から、言わば高速道路の逆走を繰り返す対象となったの

ではないだろうか。瀬戸内海が干上がって、そこをマンモスが歩いて朝鮮半島

から渡って来ていた時代から、これがメインストリートだったと考えられる。

従って、大阪湾南部がターミナルであり邪馬台国も初期には湾岸にあったと考えて

差し支えないであろう。私は池上曽根遺跡は時代的には古いが文化伝播の高速道路

を逆走する出発点としては相応しく、プレ邪馬台国の跡ではないかと考える。




参考

韓国中央博物館
国立扶余博物館
国立公州博物館
松菊里遺跡
陵山里古墳群
宋山里古墳群
武寧王陵
王興寺跡
定林寺跡
軍守里寺跡

渡来系弥生人と縄文系弥生文化の成立

中国春秋時代の動乱に端を発した移民・難民がついに九州北部に上陸したのが紀元前

5〜4世紀頃とされる。渡来人と遭遇した縄文人は、さまざまに対立融合しながらも

受け入れたのは不安定な生活スタイルから脱却するための策では決してなかった。

なぜなら、異文化への恐怖・不安が当の縄文社会を揺るがし滅ぼしてはいないからである。

縄文系弥生人は農耕文化にそぐわない伝統文化とのさまざまな葛藤を経験しながら

縄文系弥生文化を構築して行ったと思われる。

縄文文化から弥生文化への変革の主体が渡来人であったか、縄文人であったかという

主体論争について、考古学的には渡来入植者数は土器の量比から見て規模は小さく弥生

文化への変革の主体性は考えにくい。しかし、人類学的には人口増加率に一割の差が有れば

人口比の逆転は可能とされている。

板付遺跡における土器の様式も突帯文土器(縄文系)、無文土器(渡来系)、板付祖型甕

(弥生土器)と変化しており、福岡平野→岡山平野→近畿と進むうちの融合対立の光景は

集落によって変異したであろうから弥生文化への主体論争の二者択一は難しいというのが

実際のところであろう。

その後、渡来系の拡大は名古屋周辺・濃尾平野(縄文の「牙城」)で一時ストップし、

両者200年間睨み合いとなるのである。



近畿と東日本との関係

近畿では渡来系弥生人が入植しはじめる縄文晩期後半から弥生時代前期初頭に、結晶片岩製で

粗製の大型石棒が突如増加し始める。これらが存在するのは縄文系のムラであり、多くは破壊

された状態で出土するが、縄文系の弥生文化において内部矛盾は避けられず、これらを用いて

祭祀により集団関係の緊密化を図ったとの説も有力である。

東日本・特に関東と中部地方の高地では大規模な祭祀が縄文晩期前半にピークを迎えたが、

その後寒冷化による環境変化に伴った生態的・社会的状況の変容は人口減少及び低地への進出、

そして東日本から西日本への相当規模の人口移動をもたらした可能性も十分にある。

東日本の縄文人たちは西方の情勢と新来の文物獲得のために西日本に大移動して行ったのでは

ないか。

大阪府と奈良県境に位置する二上山で産出するサヌカイト原石を使ったナイフ、矢じり、短剣

が広く出土しており、専門工人の存在や交易の盛んな弥生社会が想像される。

国府遺跡と同型のナイフが山形県の頁岩を使っているにも拘わらず、越中山K遺跡、新潟県

御渕上遺跡等で技術が共通するものが出土しているのは人間の移動を考えさせる。

近畿のナイフ作り技術は九州ではなく瀬戸内地域と近畿が一つの共通な文化圏となっており、

北部九州方面とではなく東北地方と強く結びついていることを示している。

縄文・弥生を通じて土器が発明されても非常に良く似た土器を近畿と東北が共有する傾向は

続くが、ある時期から近畿は北九州・西日本方向を向くようになったと考えられる。

それは縄文時代晩期中頃に近畿の縄文人が米づくりを始めたことによって水稲農耕文化が

九州あるいは岡山地域から移入され、近畿の人々はそれまでの東北・北陸との文物の交流

関係は途絶してしまったようである。しかしながら、近畿の初期農耕において九州との違い

があることが知られる。食糧貯蔵法としての高床の倉、方形周溝墓という墓制、祭祀専用具

としての大型化した銅鐸等である。近畿の弥生人は現代日本人と同様に外来文化を自らの文化

として消化し、再生産発展させたものを他に輸出するという特性を身につけていたのでは

ないか。それは当然主として東方に対してであり、東日本の縄文人たち”縄文の牙城”に

対して影響力を持つ立場になったのではないかと思われる。



縄文人の大移動と邪馬台国

近畿弥生社会を特徴づける遺構として高城・水城とも表現される高地性集落・環濠集落がある。

弥生時代中期には西は山口県から東は神奈川県まで高城が出現して日本列島を広く巻き込む

大きな戦いがあったことを示している。

それは縄文の「牙城」に発する人的な大移動によるものではないだろうか。

近畿の弥生人たちは、渡来人入植者から農耕文化を吸収し、その後東日本の縄文人たちの流入

・攻勢に曝されたのではないだろうか。しかも、九州勢力も侮れない存在であったに違いない。

池上曽根遺跡に見られるように、近畿の弥生環濠集落が極めて大きいことの理由として、かねて

友好的であった東日本からの人口流入を吸収するための措置だったのではないか。

弥生人同士の戦いに流入縄文人も加わったことが”倭の大乱”だったのではないか。

「魏志倭人伝」に描かれている邪馬台国は共立された女王である卑弥呼が鬼道(呪術・祭祀・占)

によって治める社会であるとされる。

素直に解釈すればその地域の様々な異なる文化を持つ人たちに受け入れ可能な祭祀を執り行う

ということではないか。近畿の縄文系弥生人は渡来の農耕文化にそぐわない伝統文化との様々な

葛藤を経験しながら弥生文化を構築し、東日本の人たちとの文物の橋渡しもしてきている。

しかも、近畿に特徴的な大規模環濠集落に多くの地域からの人たちを受け入れ、住まわせていた

としたならどうだろう。更に、朝鮮半島・九州方面から瀬戸内海を通っての交通を考えれば、

有柄石剣を出土している大阪湾岸沿いの池上曽根遺跡付近が邪馬台国の場所として合理的に符合

し有力ではないだろうか。

素人が畿内説を臆面も無く出すと、考古学の先生方から考古学では弥生時代には北九州の出土数

が圧倒的で、古墳時代になって初めて近畿の出土数が北九州を上回ると言われるでしょう。

しかし、私はむしろ東日本の縄文人の西日本への大移動があったとしたなら、近畿では以前から

の文化的な結びつきもあり比較的平和裏に早い段階で戦いは収束できたが、北九州方面では

異文化同士の衝突となり戦いは峻烈なものとなって長期化したのではないだろうか。

それが、北九州での多数の鉄剣等の武器の出土となって現れているのではないだろうか。

結果として北九州勢力は弱体化し、畿内にあった大和朝廷の源流である邪馬台国が興り、

天照大神のモデルとなる卑弥呼が共立されたのではないだろうか。この後の”国譲り神話”は

余りにも有名である。



参考図書

NHKスペシャル 
日本人はるかな旅 第5巻 そして”日本人”が生まれた  日本放送出版協会


古代近畿と東西交流        石 野 博 信    (株)学 生 社


逆説の日本史1古代黎明編 
封印された[倭]の謎       井 沢 元 彦    (株)小 学 館

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前回、邪馬台国は宗教的第三勢力とする説を無謀にも披瀝したが、今回はそれに至る

道筋を違う視点から大胆に推理したい。

15,000年前、気候が温暖化したが、その後12,800年前「ヤンガー・ドリアス

の寒の戻り」と言われ、ザ・ディ・アフター・トゥモローそのものの現象が起きたことが知られる。

縄文時代後期前半(4,000〜3,500年前)気候が激しく寒冷化して、メソポタミア

文明・長江文明が旱魃により崩壊。東アジアではこれを受け民族大移動がおこり、北方民族

が大挙して南下、沿岸部の畑作漁労民が押し出される形でボートピープルとなり日本へと

押し寄せることとなったことが定説となっている。それと相前後して日本列島でも倭の人々

が東日本から西日本へ大移動したと考えられているが、それを裏付けるように紀南地方、

南部徳蔵遺跡や泉南市、男里川に隣接する沖積段丘上に立地して泉南地域の弥生時代中期の

拠点集落としての男里遺跡には東日本から船で上陸したと考えられる遺物が多く出土している。

これまで、主として渡来人による稲作文化、鉄製品や鏡の西から東への移動が語られ

てきたが、倭人の東から西への大移動、ユーラシアからヨーロッパにかけてのフン族

やゲルマン民族の大移動には比らぶべくもないが、狩猟採集民の大移動が日本で起こったと

仮定したなら、紀南・泉南地域は海からの移動・上陸地となり、倭人の西への移動の

最前線或いは中心地となったであろう。

もとより、西日本は水田稲作の好適地であり堺市浜寺の四ツ池遺跡や河内の国府とされる

国府(こう)遺跡など大集落は随所にみられるが、特に南部徳蔵遺跡で祭祀用と思われる

石棒が6点出土しているが、鬼の金棒ならぬ石棒が鬼道をよくすると記述された卑弥呼

と関係するとは直ちに言えないが、倭人による祭祀が盛んだったことが想像される。

今回の説の要旨は東から西への倭人の大移動に渡来人勢力が圧倒されて起こったのが

倭国大乱であり、それに堪えかねた渡来人勢力が卑弥呼を共立し、和平を図ったことが

邪馬台国の始まりではないかということである。

これによって、大陸の儒教的な宗教観ではなく、日本人独自の八百万の神々を敬う多神教

の宗教観が定着したのではないか?

大胆極まる推理ではあるが、日本人の心のルーツをタイムマシンで遡ればこのような

邪馬台国・卑弥呼も有り得るのではないかと思われる。



参照: [文明の滅亡と環境カタストロフィ] レクチャー01
    安田喜憲(国際文化研究センター教授/環境考古学)
    http://www.kit-rg.jp/rep2005/rep2.html

    

邪馬台国池上曽根説
(宗教的第三勢力説)


畿内説・九州説ほか諸説ある中で武器を重視する九州説、鏡を重視する畿内説とは別の事情

(宗教的な第三勢力の存在)が邪馬台国・卑弥呼共立にあるのではないか。

私は倭国大乱後の日本に軍事的統一も、銅鏡等の権威による統一も無かったのではないか。

すなわち、鉄剣や鏡のように遺物として残らないが、宗教的な第三勢力が当時存在していて

その宗教的な畏怖心によって従わせるという方法で倭国を統括したのではないか。そのような

考えの基に地理的に見直すと、池上曽根は九州と畿内(箸墓)との争い線上の真っ只中という

わけではなく、宗教的第三勢力として影響を行使するには格好の位置ではないか。

九州を本拠とする鉄剣文化の人々には自然崇拝的な神仙思想がすでにあったと思われますが、

卑弥呼の操る鬼道とは異なり、日本古来の呪術と思われる卑弥呼の鬼道が当時未だ未開の倭国の

人々には多数派だったのではないか。従って、仲裁者としての役割を果たすことが可能で、争いの

仲裁者が共立されたと見れば池上曽根説が唱えられない理由はない。すでに何方かが池上曽根説

を唱えておられるかも知れませんが、地元の一人としてこの地に邪馬台国があったとの説を唱え

ることを試みたいと思います。


  その傍証として私は次の点をあげたいと思います。

1、地理的に畿内(箸墓)から適度に離れており、なおかつ陸路海路とも交通が便利であること。

2、後年、和泉の国となったことから、水に関係する起源が日本国の発生に相応しい。又、古代
  から永く人の住む土地であることから文化度も高く、鬼道をよくするとする条件にあてはま
  りやすい。

3、旧約聖書の最高神=エホバ=ヤハウェ(Yahveh)と同源の原始言語から訛ってヤマタイ
  になったのではないか。原始言語のアカ(水)はアクァ(Aqua)と兄弟的な関係にある
  との説もある。(邪馬台国は宗教国家)

4、池上曽根遺跡には巨大建物(神殿)・井戸があり、今後の発掘で更に大規模な遺跡であること
  が判明する可能性が高い。

5、卑弥呼没後の乱を経て再度共立の後、九州・畿内・邪馬台(池上曽根)三つの勢力が同化し、

  大和政権へと移行したのであれば、東征伝説とも符合する。

  以上 稚拙な説ですが池上曽根遺跡で巨大神殿及び大井戸が発掘された事実からの発想です。
  この説が絶滅せずに、可能性を残していられるなら嬉しいものです。

池上曽根と吉野ヶ里

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先日、文化の日に大阪府立弥生文化博物館でタイトルの講演会があると知り行きました。

以下は私個人の感想を交えた要旨です。


講演会
  弥生人躍動す

対談
  「池上曽根と吉野ヶ里」

 水 野 正 好  (財)大阪府文化財センター 理事長  

 金 関  恕    大阪府立弥生文化博物館 館長

と き:H18年11月3日(金・祝)午後2:00〜4:00

ところ:大阪府立弥生文化博物館 1階ホール



吉野ヶ里の方位観

   金 関  恕  氏

吉野ヶ里はBC200年頃の遺跡であり弥生中期(邪馬台国の時代)に相当する。

北内郭は冬至日入←→夏至日出線を意識して造られているようだ。

南墳丘墓には環濠の一部とみられるものが発掘されはじめ、墳墓ではなく祭壇では

ないかと推測される。

東墳丘墓も同様に考えると古代中国の一部にあった三神の祭りに符号する。

先 祖(ソウビョウ)北内郭

土地神(シャシヨク)南墳丘墓

農 神(レイセイ霊星)東墳丘墓




____________________________________________


躍動する弥生人・弥生社会

  水 野 正 好  氏


まず、卑弥呼は倭国王であるとし、共立とは連邦的な国家ではなく、中央集権的な

大和政権の前身・邪馬台国において男系後継者に適任者がなく、重臣が擁立した形態

を指すとした。

そして、この時代 宮城以北一帯と九州北中部を大宰府のような大卒とし、その内側

すべての女王国を想定している。驚くべきは平安時代の国家形態がすでに存在したと

する点である。

この説では、邪馬台国は大和(奈良)にあった。

吉野ヶ里は一大卒の役所として大陸からの使節や移民の受け入れ窓口的な役割を

もっていたと結論している。

愚説を付け加えるなら、できるなら邪馬台国は池上曽根にあって欲しい。

池上曽根遺跡の中央建物の柱の太さ・井戸の存在から多数の来客への応対と、役所

としての建物の機能から、邪馬台国は池上曽根にあったと考えても構わないであろう。

今後の池上曽根の発掘でそれを裏付ける発見があることを期待したいと思います。

発掘の説明会、又は研修会があるらしいので、参加できればここで報告させて頂きます。

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