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オラたち、いわき市の人間は小さい頃から、この人の名を何度も聞かされて育ちます。
この人を知らない人はまっとうな磐城人ではありません。
その人の名は
沢村勘兵衛勝為 さわむらかんべえかつため
あまり高い地位でなかった武士の家に生まれたようです。
しかし、武道勉学に熱心で、正しいと思えば相手が誰であろうと頑として曲げず主張する性格。
磐城平藩主・内藤公の目に止まるところとなり、若いながら郡奉行(農政担当官)に抜擢されます。
藩公には忠義篤く、どれほど多忙な中にあっても下々の話に耳を傾ける度量あり民衆には慕われました。
慶安三年の六月ごろ、雨が全く降らず、いわき地方が大干ばつ(日照り)に見舞われます。
干ばつは長期にわたりついに用水池の水さえ尽きてしまうほど。
勘兵衛は自ら現地に赴いて緻密な調査を行い、大規模な用水事業が必要であることを上申します。
慶安三年、藩主の認可をとりつけ、翌慶安四年二月十五日に起工する準備がされました。
工事方見張所が平久保に設置されましたが、
なんと勘兵衛は屋敷を離れ、そこの二階の一室に泊まりこんで現場を指揮していたのです。
高級官僚とは思えぬ行動ですが、
村々から集められた人足(農民)たちは、
自分たちの事を真剣に考えてくれ、また自ら現場で粉骨砕身陣頭指揮をとって
ピンハネなど決して許さぬ勘兵衛の高潔な姿を見て
「人夫みな嬉々として働く」様子であったといいます。
工事は困難を極め、何度も中断しますが、そのたびに地元農民を含め周囲の助言をよく聞き、
着々と掘り進みました。
工事開始から三年三ヶ月、
土木工学史的に見てもいまだに価値のある
斜め取水口をもつ小川江堰・小川江筋はついに完成しました。
しかし、沢村勘兵衛のようなスピード出世をする有能な人間を毛嫌いする者はいつの時代にもいるもので
ましてや頑固で清廉潔白な性格が災いして敵の多かった勘兵衛は
藩の重役、諸橋某の讒言(ざんげん=チクリ)により、
寺社地(当時まだ天領だった土地とも言われる)を藩に届出なく普請(工事)して水路を通したことをとがめられ、
切腹を申し付けられます。
実際には、勘兵衛は何度もその土地に水路を通す許可を申請していました。
しかし彼の出世を面白く思わなかった一部の悪意ある藩の重役たちによって握りつぶされていたのです。
自分の危うい立場に勘兵衛自身も気づいていたことでしょう。、
命がけの大事業になることを知りつつ、
あえて農民のために自分が犠牲になることを選んだのかも知れません。
彼は無実を申し立てることもなく、
黙って腹を切りました。 享年、四三歳。
しかし、彼の偉業と人柄は農民たちによって語り継がれ、
その遺志を継いだ各地の名主・庄屋たちは、自らの私財を投じて
有名な所では夏井の愛谷江筋など大規模な用水事業を次々と成功させてゆきます。
沢村勘兵衛の魂はいまなお「沢村神社」として民衆の信仰・尊敬の対象となっております。
沢村勘兵衛勝為のような人間の魂は、
決しておのが私欲にまみれた者たちの手によって葬られることはないのです。
ゆえに我々いわき人はサムライという言葉を思う時、
まっ先に「沢村勘兵衛勝為」の名を思い出すのであります。
我ら磐城人は、彼の生き様を忘れません。
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