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西代駅をスタート。 蓮池跡、西代の楠、シューズプラザ、新長田駅、靴のモニュメントの道を東へ 長田中学校の先を南へ 菅公匂いの梅旧跡:東尻池町1丁目 【901(昌泰4)年、政敵藤原時平の中傷によって都を追われ太宰権師に左遷されることになった 菅原道真は、京から九州への道中、順風を待つために大和田泊に上陸しました。 そのとき、えも言われぬ梅の香りがするのでそれを慕って西にさまよって行きました。 ちょうど苅藻川が海に注いでいるすぐ東、真野の継橋という1つの橋が架かっていて、この橋の 東に1本の梅の木が今を盛りと咲いていました。 それを見た道真は、「風寒み 雪にまがへて咲く花の 袖にぞうつれ 匂う梅の香」という 和歌を詠んだと言われています。 近くには梅ヶ香町という地名もあります。】 【 】内 ながたすこやかマイロードより 宝満寺・青山幸利報謝碑:東尻池町2丁目 【臨済宗、本山京都南禅寺、本尊は大日如来。 808(大同3)年 弘法大師がもと和田山の字寺山(現兵庫区和田山通付近)に開創、のち 1180(治承4)年に平清盛が福原内裏増築のときに現在地に移したと伝えられています。 宝満寺金剛峰寺と呼ばれていましたが、後に、弘法大師は高野山に金剛峰寺を建てたので、 こちらは金剛山宝満寺と寺号を改めたそうです。 源平一の谷の合戦で伽藍の大部分が焼失しましたが、法燈圓明国師(ほっとうえんみんこくし) によって再建。 また、足利尊氏との関連も深く、後醍醐天皇に敗れ九州に落ちる際に本尊に武運を祈り勝利を 得たこと、湊川の合戦で当寺に本陣を置いたこと、伽藍の修復及び寺領を寄進されたことなどが 見られます。 本尊である大日如来坐像をはじめ、重要文化財指定の寺宝が数多くあります。 境内は立ち入り禁止です。】 高福寺:西尻池町4丁目 【真野山高福寺。 この辺りでは万葉集に「いざこども 大和へ早く白菅の 真野榛原(はりはら)手折りてゆかむ」 と詠まれているので真野山の山号をつけたのでしょう。 真宗佛光派の末寺で、1333(正慶3)年の創立とされています。 今から500年も昔、もともと80戸余りの村に大日寺、傳(田)福寺、薬師寺、安養寺の4寺があり ましたが、お互いにいがみあっていました。 そこで何とか村をひとつにまとめようと、高福寺を村の中心の寺と決めて、他の寺はそのもとで 協力をしていくことで落ち着いたということです。 大正の初めには西尻池村の所有地であった蓮池が市に買収され田地が次々と宅地になるなど、 村が裕福になったのを機会に、壮大で美しい大伽藍を建立しました。 しかし、昭和20年6月5日の大空襲により惜しくも焼失してしまいました。】 苅藻駅 尻池街園内の万葉歌碑 高松橋 八尾善四郎の像 苅藻駅、駒ヶ林駅を南へ曲がって 徳本上人六字名号石:駒ヶ林町1丁目 【工場の間の路地を入ると、その奥にまつられています。 1823(文政6)年に駒ヶ林の地に来た徳本上人は、その当時 鵯越に出没して旅人を悩ませていた 悪者を、仏教の力によって六字名号石(ろくじみょうごうせき)を建て、その下に封じ込めたと 言います。 自然石の六字「南無阿弥陀仏」は徳本上人独特の蔦文字で、無視すれば自然と頭が下がります。】 海泉寺:駒ヶ林3丁目 【1289(正応2)年、漸岸覚俊(ぜんがんかくしゅん)和尚が師である法灯円明国師(ほっとうえんみん こくし)を勧請開山として建立されました。 1924(大正13)年、堂の町(現駒ヶ林町5丁目)にあった大堂(阿弥陀堂)を移築し本堂としました。 境内には、湯川秀樹博士の全人類の幸福を祈る鐘など、湯川氏にまつわるものがあり、また、青山 幸利(よしとし)公の報謝碑、慶長年間の逆修碑が立てられています。 ※逆修:生存中に死後の仏事を修すること。予修ともいう。】 駒林神社:駒ヶ林町3丁目 【ご祭神は猿田彦・応神天皇・八幡大神・左義長の神様、厄神さん。 この神社には、988(永延2)年に始められた古い左義長の行事があって、壮観を呈したことが 「摂陽落穂集」にものっています。 境内の稲荷社の玉垣に往年の映画スター「片岡、大河内、山田、入江」等があるのは面白い。 また歴史上では、足利尊氏が戦いに敗れ西国に下るときにこの神社に参詣して、社前の駒ヶ林の 浜から乗船したとも伝えられています。 現在の社殿は、1924(大正13)年に建てられましたが、放火にあい、さらに再建したものです。】 平忠度腕塚、平忠度胴塚、満福治、大国公園と進み、 JR鷹取駅でゴールです。 【歩行時間約110分 約11,600歩】 |
*神戸あちこち 長田区*
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