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生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)とは、生田神社を囲むように点在している裔神八社のこと。 近年は 港神戸守護神厄除八社とも呼ばれ、数字の淳に巡ることを八宮巡りといい 厄除けになるとされている。 2月3日が縁日。 この八社の並び方については、現在は相当ズレているが‘北斗七星’に似ているのではという説がある。 (北斗七星の6番目の星は 正確には2つで、八星となるため。 また 北斗七星のひしゃくに 現在の生田神社が納まる形となる。) また 近代以後の移転(六宮・八宮が該当する)前の位置において、概ね東から西に数字が大きくなるが、 例外として 二宮は 旧生田川をはさんだ東側に、七宮は 旧湊川をはさんだ西側(つまり 他の六社から見れば 川の対岸=外側)に位置する。 生田神社を 現在の新神戸駅の北側の裏山にあたる砂山(いさごやま)から水害を逃れるために抱えて来て 現鎮座地で足が止まったと言う‘刀禰七太夫’(とねしちだゆう)は 北斗七星を示している可能性もある。 また 砂山(別名 布引山)は、現在も崩れることなく健在に見える。 神戸八社は ‘天照大神’(あまてらすおおみかみ)と‘素戔嗚尊’(すさのおのみこと)が、 剣玉を交換して契約した時に生まれたという 三女神・五男神が それぞれに祀られているが ‘七宮神社’のみ 全く関係のない祭神となっている。 何故か ‘活津日子根命’(いくつひこね)は どこにも祀られていない。 創建年代不明だが 201年 神功皇后が朝鮮出兵した帰りに巡拝した順を社名に冠したという伝説が 残されている。 <素戔嗚尊> 多岐都比売(たきつひめ)命 ← 瑞津姫命 (三宮神社) 市寸島比売(いちきしまひめ)命 ← 市杵島姫命 (四宮神社) 多紀理毘売(たきりひめ)命 ← 田心姫命 (一宮神社) <天照大神> 熊野久須毘(くまのくすび)命 ← 熊野杼樟日命(八宮神社) 活津日子根命 天津日子根(あまつひこね)命 ← 天津彦根命 (六宮神社) 天之菩卑(あめのほひ)命 ← 天穂日命 (五宮神社) 天之忍穂耳(あめのおしほみみ)命 ← 応神天皇 (二宮神社) イザナギの神の末っ子であるスサノオは、母のイザナミが恋しくて 黄泉の国まで会いに行く決心をし、
そのための挨拶を姉のアマテラスにするため 高天原に行きました。 でも その勢いがあまりにも激しいので アマテラスは 弟のスサノオに邪心があると思いこみました。 スサノオは 自分には邪心がないことを証明するために 天の河をはさんで「誓約」という占いをしました。 (このときの「誓約」とは 清らかな女の子を産んだら 邪心がないというものでした) アマテラスがスサノオの剣を三つに折り、清らかな泉で洗い清め かみ砕き 息を吹きかけました。 すると 三人の女神が生まれました。 スサノオが アマテラスの勾玉を五つに割り、清らかな泉で洗い清め かみ砕き 息を吹きかけました。 すると 五人の男神が生まれました。 これにより アマテラスはスサノオの持ち物である剣から三人の女神が生まれたので スサノオに邪心が ないことを承認しました。 このときに生まれた五男三女神の祀られた神社を 神功皇后が三韓征伐(摂政元年2年)の帰りに 巡拝されたのが由来で その順番に一から八の宮とよばれるようになったと言われています。 |
ξ 生田裔神八社巡り ξ
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娘が 夏休みの自由課題として取り組んだ題材を残しています。
画像は 全てオリジナルですが、本文などは いろんな所から抜粋しているようです。
なので 誤記や重複内容、他記事などのコピーがありますが ご了承下さい。
なので 誤記や重複内容、他記事などのコピーがありますが ご了承下さい。
あくまでも 小学生が調べて学習した作品ですので 寛大な気持ちで見て下さりますようお願いします。
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<御祭神> 大己貴命 天児屋根命 航海海上安全・土地開拓の神 <鎮座地> 神戸市兵庫区七宮町2丁目3−21 創建の年代は遠く詳かではありませんが、 延喜式に載する八部郡汶賣神社(現 敏馬神社)が七宮の前身で、 会下山の南麓の集落で北風家が祀っていたと伝えられています。 JR兵庫駅の北川に羽坂通という町があります。 平安時代、この辺りには 塩槌山という小山がありました。 応保3年 福遷都計画として平清盛公が兵庫の津北浜の産土神として整備するに当たり、 経ヶ島(きょうがしま)築造の工事のために この小山を切り崩して埋め立てに使ったところ 暴風雨などで海が荒れたために なかなか工事が進捗しなかったそうです。 不審に思った平清盛公が調べさせたところ、塩槌山には 大己貴命を祀った祠があったそうで、 その山を崩された神が怒りのために暴風雨をおこしていたという結論に至りました。 そのため 現在の七宮神社の地に社殿を建立して大己貴命を遷都し、自筆の「南無七大明神」の神号を奉って お祀りしたところ風雨も収まり、無事に兵庫津の開港が実現したということです。 1582(天正10)年には 天親町天皇より「七宮大明神」の勅額や三種の神宝画が下賜されたこともありました。 1602(慶長7)年には 社殿の建立や太刀・金幣・狛犬などの寄進を行ったそうです。 1799(寛政11)年には、徳川幕府の命を受けて国後・択捉航路開拓のために出航するのに先立って 高田屋嘉兵衛が七宮神社を参拝し、3隻の模型船を奉納して海上安全を祈願しました。 これをきっかけとして、海上業者は 必ず七宮神社を参拝して航海の安全を祈願することが風習になったと いいます。 これらの宝殿や文化財は、残念ながら 1945(昭和20)年の神戸大空襲で全て焼失してしまい、 さらには 1995(平成7)年の阪神・淡路大震災でも 大きな被害を受けました。 境内や社務所は建て替えられてしますが 清盛に関する謂われの立て札や史跡類は 特にありません。 七宮という名前は 神功皇后が7番目に巡拝されたからだという言い伝えのほかに
御祭神である 大己貴命が大国主命・大物主命・葦原醜男・八千矛神・大国玉命・顧国玉命という7つの 呼び名を持つ神様であるがゆえに七宮神社とされた、という説もあります。 |
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【 六宮神社 】 <御祭神> 天津彦根命 応神天皇 厄除の神 旧 坂本村の氏神 <鎮座地> 神戸市中央区楠町3丁目4−13 六宮神社は 八宮神社に合祀しています。 拝殿正前に その旨を記した板が掛けられています。 六宮神社は現在の楠寺の前に鎮座されていましたが、 明治42年12月に 楠高等小学校の新設により 八宮神社の御社殿に合祀されました。 厄除の守護として 古くから厄年の人の参詣が絶えません。 坂本村に皇別坂本臣紀朝臣が御住みになっておられましたので、 坂本臣紀朝臣は 武内宿禰の御仕えさせられていました応神天皇を御祀りせられたものと伝えられています。 出雲系の神ですから 御一緒に祀られたものと思います。 旧 矢田部坂本村鎮座として奉斎。 六宮神社は 大和国高市郡の御県神社の祭神の天津彦根命と同じで、 これは 武内社の高市御縣神のことのようです。 紀朝臣は 中央で活躍して紀氏の一族をさしていますが、その氏族の祖先は武内宿禰とされています。 紀の国の紀氏は紀直であったが、後に 朝臣となっています。 また 紀直の祖神を素戔嗚尊とする秘密系図が日前国縣神宮の紀氏に伝わっていると言われています。 【 八宮神社 】 <御祭神> 素戔嗚尊 熊野杼樟日命 厄除の神 旧 坂本村と 旧 宇治野村の氏神 <鎮座地> 六宮神社と同じ 八宮神社の御祭神は、天照大御神と素戔嗚尊とが 剣玉を交換して誓約された際に生まれ給いし 五男神の一柱で、神公皇后 三韓征討の際に巡拝を賜った一社である。 当社は 橘通の旧・県警庁舎の所に鎮座されていたのですが、 明治42年に神戸市役所を当社鎮座地に新築されるにより、現在の楠3丁目 大倉南東の地に移転されました。 素戔嗚尊を御奉祀せられましたのは 紀朝臣でありまして、 紀朝臣は後 紀伊国造となり素戔嗚尊を御祀りせられたものと伝えられております。 旧 矢田部郡坂本村鎮座として奉斎されている厄除守護神として 名高い神です。 八宮神社の祭神は 遠江国周智郡の横須賀神社と同じである旨のことが 昭和11年発行の「兵庫県神社誌」 に記されています。 現在 横須賀神社の名前は 湖西市横須賀に見出されますが 祭神は大国主命となっています。 横須賀神社は式内社ではありません。 今の楠町の辺りは、昔は 坂本村と呼ばれており、六宮神社と八宮神社は 坂本村の鎮守社として 厚い崇敬を集めていました。 この辺りのは 坂本臣と呼ばれる一族が住んでいたそうです。 坂本臣(さかもとのおみ)は 平安初期の815(引仁6)年に編纂された氏族名鑑である新撰姓氏禄の 「第八巻摂津国皇別」の件に 「紀朝臣(きのあそみ)と同じき祖。彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の孫、 武内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)の後なり。」 と記されているように 大和朝廷の初期に景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えて活躍したとされる武内宿禰の子孫と されています。 武内宿禰ゆかりの応神天皇をともに祀ったのは この坂本臣と考えられています。 白蛇稲荷大社 |
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<ご祭神> 天穂日命 厄除、国家安穏、家内安全、五穀豊穣の神 <鎮座地> 神戸市兵庫区五宮町22−10 ご祭神である天穂日命は、天照大御神と素戔嗚尊が剣玉を交換して誓約(うけい)をした際に 天忍穂耳神に次いで天照大御神の勾玉から生まれたといわれています。 古事記や日本書紀によると、 天穂命姫は高天原から葦原つ中国平定の交渉のために出雲の国の王・大国主命のもとに遣わされますが、大国主命に心服して その家中に留まり、娘の下照姫を妻に迎えて 3年間 高天原に戻らなかったといいます。 国譲りの交渉役を放棄したということで 記紀では否定的に扱われています。 一方、天穂日命の末裔といわれてる出雲氏によって記されたという 「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」では、 天照大御神より葦原中つ国の悪神を鎮圧し乱れを糺すために遣わされます。 天穂日命は 息子である天夷鳥神(あめのひなどりのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を 地上に派遣するなどして任務を遂行、天孫降臨の露払い役を見事に果たした偉大な神さまとして 扱われています。 境内からは、東はポートアイランド、南は神戸港、西は高取山や淡路島まで眺めることが出来るほど 眺望に優れ、また 北の背後のうっそうと茂る緑の山々からは風が流れてきます。 この地に創祀された年代は不詳ですが、 出雲国能美郡天穂日神社よりこの地に観請され、神功皇后が 三韓へ行かれた帰りに巡拝された一社です。 出雲国能美郡天穂日神社と関係があり、古来より 平野一帯の氏神として祀られています。 八社の中では 最も高い場所に立地している。 社殿の上は 平地となっている。 本殿が鎮座しているようではない。 その昔は、この神社の東側を通る道が北に抜ける動脈のうちの一本の役割を果たしていました。 真北にある鍋蓋山を経由して 再度山大龍寺へ参拝したり 有馬へと向かう人々で賑わいを見せ、 そういった人々にために境内に茶店が設けられた時期もあったそうです。 また 花隈の花街が盛んだった頃には 四宮神社と並んで芸妓たちの厚い崇拝も受け、 その当時に奉納されたという絵馬も若松稲荷社に残されています。 1872(明治5)年に 湊川神社が創建された際には 湊川神社の氏子社に指定されましたが、 古くからの生田神社との深い繋がりを訴え、地元・奥平野村の庄屋や年寄りなどの代表者たちが連名で 嘆願書を出した結果 認められということもあったそうです。 これは 稚日女尊の神託「吾は活田長狭国に居らむと 海上五十狭茅(うなかみのいそさち)の 子孫の家があったからといわれています。 若松稲荷には花隈芸者の絵馬も残されています。 境内に祠が三社鎮座、
祭神は 猿田彦神、大国主神、倉稲魂神の三柱である。 |
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<御祭神> 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 芸能の神、「花隈芸者の名付けの神」 旧 花隈村の氏神 <鎮座地> 神戸市中央区中山手通5丁目2−13 <御由緒> 創建年月は不明ですが、神功皇后が摂政元年二月の三韓征伐の帰途、ご神託により活田(生田)の神を 長狭の国に お祀りせられる時に、同国八ヶ所に鎮座されている神々を東から順に巡拝された一社として 「四の御前の神」とご名付けをされたのであります。 ご祭神は 天照皇大御神が素戔嗚尊と誓約をされた際に お産まれになった五男三女の一柱 市杵島姫命、 七福神の一柱といわれている弁財天を お祀り申し上げております。 広島県の安芸の宮島の厳島神社とも関係があるようです。 其の後、永禄年間 摂津の武将・荒木村重が織田信長の命令で 花熊(隈)城を築くや、その鬼門鎮護の神に 定められ 城主より幣帛が捧げられました。 天正8年7月2日 花熊(隈)城の落城により 戦火を受けましたが、安政元年9月 現在地に移転・再建され 鬼門鎮護・福徳円満・文学芸能の唯一の神として 特に 芸能人・文化人の崇敬が篤く、 「花熊芸者の名付けの神」として 有名でありました。 明治38年6月2日 当地一帯の大火で再び その災害を罹りましたが、 同43年5月11日 再度 芸能人・文化人をはじめ 当地の有力な崇敬者によって ご造営されました。 当神社前に 兵庫県政を司る県庁が置かれ、初代知事 伊藤博文公も氏子に住まわれ、歴代知事の公舎も 当神社氏子内に建てられ、県政守護の神様として 県関係者からも崇敬され、昭和2年11月19日 「村社に列せられ」 兵庫県知事の幣帛料指定献上社として 歴代県知事が例大祭に参列されるように なりました。 昭和20年6月5日の第二次世界大戦の空襲で その被害を受けましたが、 昭和35年5月、当時の副知事 金井元彦氏により、 復興奉賛会が結成され 芸能人・文化人・兵庫県民・神戸市民・氏子崇敬者から浄財を募集、 昭和38年5月10日に 現社殿が ご造営されました。 境内の摂末社、三義稲荷神社は 安政元年、八幡神社は 安政2年、崇敬の篤い氏子崇敬者により半減し、 560坪となりましたが、官公庁街の一角に 朱塗りもあでやかな社殿こそは 人々の「いこいの場」「心のふるさと」として その尊厳さを保っており、神戸市民より崇敬されています。 山手幹線に面して立つ鳥居の隣、高層マンションの一階が 社務所です。 戦国時代の1574(天元2)年、石山本願寺と毛利氏との補給路を分断する大きな楔として 織田信長公の命のよって 花隈城が大改修された際、四宮神社は 城の鬼門鎮座の神と定められ 城主・荒木村重公より幣帛が奉納されました。 その頃の花隈城は 山手幹線辺りまで城域が広がっていたと伝えられており、 荒木村重公の謀反を受けた織田軍の制圧戦によって 花隈城が落城して際には 兵火に巻き込まれたことも あったようです。 現在の場所に移されたのは 1854(安政元)年。 その際 三義稲荷神社が境内に祀られ、続く 1855(安政2)年にあh 八幡神社が祀られました。 1902(明治35)年6月に起きた大火事によって被害を受けましたが、 芸能・文化人や角界の有力者の助力を受けて 5年後には 無事 復興されます。 1927(昭和2)年には 村社に列せられ、 歴代の兵庫県知事も 四宮神社の列大祭に参列されるようになりました。 1945(昭和20)年の空襲で大きな被害を受けますが、 当時 副知事を務めていた金井元彦氏の声掛けによって 復興奉賛会が結成され 1960(昭和35)年5月から 浄財を募集、氏子崇敬者・神戸市民や芸能・文化人など多くの方々の 協力を受けて 1963(昭和38)年5月10日に 現社殿が再建されました。 【弁財天芸能塚】 その昔、神戸で「花街」といえば 福原ではなく花隈のことを指していました。 料亭やお茶屋さんが50軒以上立ち並び、多いときには1000人近くの芸妓さんがお座敷に彩を添え、 客層も皇族から財芸人まで錚々たる顔ぶれだったそうです。 そんな花隈に鎮座する四宮神社は、芸能の神さま・市杵島姫命を祀っていることもあり 花隈芸者は 一度は鑑札(営業許可書)を受けなければならなかったといわれており 「花隈芸者の名付けの神」として有名でした。 1984(昭和59)年4月に 弁財天崇敬会結成され、多くの方の浄財を受けて 1年後の1985(昭和60)年4月に 建立されたのが この弁財天芸能塚です。 毎年4月の第一土曜日 もしくは 日曜日には 「芸能塚祭」が執り行われ、 文化・芸能活動に打ち込んでいる方々から奉納された愛用の筆や扇や楽譜、鉛筆等を炊き上げて その長年の労をねぎらい、供養するという神事が行われています。 【弁財天巳大神】 ご本殿のご祭神である 市杵島姫命に仕え、お護りしている白蛇を祀っている。 社殿前に鎮座する八幡神社。 1855(安政2)年に 歓請されました。 奥には 「武富稲荷大明神」「三義稲荷大明神」「白獄稲荷大明神」が祀られています。
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