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浮世離れの世迷言
嫌なものは嫌

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塔談義

五重塔が好きなのはインフェリオリティコンプレックスのゆえである、と看破したのはほかならぬワタシだけれど、最近は己を知り身の丈に鑑みて三重塔が好きになった。
それでもまだ針小棒大であるね。


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法輪寺の三重塔が再建されたのが1975年。
ワタシは高校生であったらしい。
当時はまだ西岡常一棟梁と言う人を知らなかった。ただ幸田文が尽力して再建にこぎつけたと言うことを、たぶん国語の教科書だったろうか、斑鳩の記、という文章で読んだ記憶があるばかりだが、それすらも実は怪しい。
果たして、ただいま進行中の話を書いた新しい文が教科書に載るだろうか?
そんなことはこの国では絶対にありえない。
それではなぜその文をワタシが知っているのか、あるいは法輪寺三重塔を知っていたのか。

まったく事情が思い出せない。

父の書棚で幸田文を探したら、文学全集に幸田文はあったが、1973年の発刊とて1975年に関わる文章など載っているはずもなく、こんなにネットが便利になっているのに、サマリーさえ出てこない。

つまり、ネット社会と言っても、ワタシに便利なものでは無くて、誰かが得をするための便利なのだと言うことを、いまさらだけど痛感するのだ。


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ワタシの憤慨などあっちに飛ばしておいて。

初めて法輪寺を訪ねたのはもうずいぶん昔のことで、たぶん塔の再建からすぐではないけれど、できたて感がまだ残っていた頃のことだと思う。西岡常一棟梁が存命のころだったはずだ。棟梁死去の報を知るよりも以前に観ているのは間違いない。

たぶん。


その時の印象は、今よりもずっとあっけらかんとしているお寺と、ずいぶんさっぱりした塔だなあという、そんな記憶が残っている。
観光客は誰もいない境内で、なんとなくさびしいような気配の中で観た塔の漆喰に朱だか丹だかが流れて、それでいてたとえば薬師寺の西塔や金堂や、あるいは興福寺の中金堂のような華やかさは感じず、ちょっと意外に思った。
もっと創建時は華やかだったのだろうという思い込みがどこから来たのか解らないが、たぶん天平と白鳳だか飛鳥だかの様式がごっちゃになっていたのだろうと推量する。
それに何より、ああやっぱり朱じゃなくて丹なのかな、木に塗った赤い色が想像より黒くてびっくりしたことも憶えている。


このたび、中宮寺から集落を歩きぬけ、途中であまりしつこくイソヒヨドリを撮影したものだから反撃を受けて脇の築地塀に突っ込んで飛び去られたあげく、


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集落から出た道のわきの田の畔に咲くレンゲに、

行く春や種撒き甲斐あり蓮華草

などとしたり顔で発句しながら、ふと見上げると立派な塀の先に見えた三重塔は、昔の印象とはずいぶん違っていて、

花散りて昭和は遠くなりにけり

などと、まだたいして散っていない桜の花びらを思わず想像で散らしたりしたのであった。


朱だか丹だかの刷き流れはまだ残っている。
白い漆喰がだんだん汚れていく中で周りと同化して消えていくのであろう。
それはまだしばらく先で、もちろんワタシはそれを観ることができない。
そのかわり、その時の人たちが見ることができない創建の姿をワタシは観ているわけだ。


講堂に入ると、どこの学校か判らないが、たくさんの学生が並ぶ仏像をスケッチしていた。
お寺の人が、ご迷惑で申し訳ありませんとしきりに謝るのだけれど、いやいやどうして、若い人が盛んに勉強するのを邪魔する年寄りの方が悪い。
彼女たちが仏像が好きかどうかそれは知らないけれど、一心不乱にスケッチをしている姿と言うのは、訳知り顔で芸術を語る年寄りに較べれば間違いなく数百倍は尊いものであって、そんな所に一緒させてもらったこちらが頭を下げるべきものに決まっている。

ワタシも学生時代に同じような経験をしたことがある。
さる寺の国宝だったか重要文化財だったか曖昧だけれど、秘仏を見せてもらい、さらには須弥壇に昇らせてもらい、ごく間近に像の細部や光背の造作を見学した。
美術館長を務める非常勤の教官が教室の遠足でセッティングしてくれたもので、つまりそういう類のものであろう。

その機会をワタシは全く活かせることができなかったところが先生にとっては無駄な手配だったわけだが、あのスケッチをしていた学生たちは、ワタシのような間抜けな人生を送ることは無かろう。
素晴らしい未来が訪れてほしい。


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三重塔と言うとずいぶん小さいイメージがあるけれど、そんなことは無い。
実にがっしりとした立派な塔で、重厚と言うほどには重たくは無いよね、と言うくらいの違いであろうか。

以前観た時の50倍くらい感心しながら見上げたのは、やっぱり西岡常一と言う人を知ったからであろうということは認識している。


塔にも花にも像にも学生にも、好もしい印象に振り返りながら、法輪寺を後にした。

ワタシだってたまにはそんな気分になることがあるのだった。

法住寺殿は朝日将軍に焼き討ちされたのに、ある。
平家物語しか読んでいない人は驚くことだろう。
建物は焼けても造りなおせばあるし、今ある建物だって焼けたり壊れれば無くなる。
つまり諸行無常を建物で表現した姿である、ということなのだろうね。

へえぇ。


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京都で下車した目的は三十三間堂だから、ラウンジに荷物を預けてすぐに塩小路通りを東に歩いた。この時点でお昼を回っていたけれどお昼ごはんは食べていない。
もちろん米食という意味ではないので為念。




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三十五間の三十三間堂。
この外構が庇だったなんて知らなかった。
屋根構造、母屋が基準なのだから、そう言われればそうなのだが、三十五間なのに端から数えて三十三間と納得していたところが我ながら間抜けでおかしい。
意識が現実を支配しているわけだ。

ただの間抜けだな。


まあ、いいです。



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勘違いってのは誰にでもあることだけれど、ワタシは特に多いと言う自覚はある。
三十三間堂の一千一体の千手観音像と言うけれど、ずっと真ん中のでかい仏像を含めて一千一体だと思っていた。
うしろの一千一体めだって観ているのだけれど、すっかり忘れている。
だから今度は忘れないようにと思ってじっくり見たけれど、とりあえず今はまだ憶えている。
そのかわり表の二十八部衆はずいぶん忘れかけているようだ。

まあ、仕方ない。記憶容量が256KBくらいだし。


なにしろ比喩が古いね。


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二月の奈良行きでもういいやと思ったほど仏像を観たときに、鎌倉仏ってのはちょっと違うなあと思い、いろいろな人たちが言ってきたことをようやく実感した。
よく言われていることだけれど、リアルでもあるし、だからだろうか感情移入ができそうでもある。移入ではなく、読み取れる、かもしれない。
拝む的と言うより観る対象と言うべきか、観る側の自我が問題になるところが古代との訣別だろうし、現代に続く意志の端緒なのだろう。

そういう視点で比較しながら観てやろうと思ったのだけれど、よく考えたら、

ぜーんぶ鎌倉仏だった。




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中に、ずいぶん優しげで、あごが細く見える、とてもすっきりした像が何体かあって、それがしばしば目を惹いた。
どれも院なんたらの作で、つまり院派の仏師の作の内なのだと言うことは解る。

何が違うのか考えた。

でも、ワタシなんぞが考えたところで始まらないから、隣の像と較べて観た。
たぶん、肩にかかる髪の毛の量が違うのだろう、と気付いた。
スッキリした像はいずれも肩の髪の毛が肩の稜線より少し手前にしかない。
それでスッキリ見えるのだろう。
他の像は肩のこちら側にもずいぶんとある。

しかし。あれは髪の毛なのか?
そもそも、観音様は長髪なのか?
もしそうだとしたら、観音様が長髪だったと言うことを初めて知った。

ワタシが好きな秋篠寺の伎芸天は頭の上でぐるぐる巻いている。
こないだ観た浄瑠璃寺の吉祥天女は真ん中分けで両側に流したロングである。
興福寺の阿修羅はアップしてもとどりを立てている。
愛染明王なんか髪の毛が火焔になって燃え盛ってるもんね。

なーるほど、如来のらほつ以外の仏様はみんな長髪なんだ。
いやそもそもらほつは螺髪だから長髪をサザエみたいにしてまとめた、言わばドレッドヘアの若冲の鳥獣花木図屏風のような桝目描きのようなタイル型分割版みたいなものだろう。

何で僧侶は剃髪なのか。
とても不思議に思い始めた。
悟りを開いたらようやく髪を伸ばすことが許されると言うことなのだろうか。

ワタシなぞは顔がでかいので短髪派である。
ということは、仏像は総じて顔が小さいのかもしれない。

解脱すると顔が小さくなる、なんてのは、今日的にはトレンディなネタかもしれない。
考えすぎて、おなかがすいた。
まだお昼は食べていない。

春の花の浄瑠璃寺を観たいと思った。

運好く休暇を取れた。
いったんは諦めた時点でホテルをキャンセルしなかったのは良い判断だったと言えるかもしれないが、そうなりそうなことを解っていたからでもあるので、まあ、いいです。


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すぐに奈良に行くつもりだったけれど、朝早く出掛けるのはもう本当につらくて嫌なので、ゆっくり出て、京都にちょっとだけ寄って、それでみんなが乗りたがっているJR大阪東線に乗って奈良に行くことにした。
なんと言うか、あまりにも清々しく、世界中に愛を振りまいたような計画であるね。


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いきしな、電車から眺めた荒川新河岸川境界の土手の桜はまだ八分くらいで、帰ってきてもまだビールには間に合うな、と思ったのは、関東にしか桜は無いと思い込んでいたからかもしれない。

でも実際は、今度は行く先々で桜が満開であった。
たぶん人生で一番素晴らしい旅になったのかもしれない。


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奈良の夜。
好きなお店で美味しいお酒を飲んだ翌日は早くから雨上がりの斑鳩。

そうだった、八日は仏生会、花祭り。
おかげで、ふだん入ることのできない国宝建造物に入り、灌頂し、散華をいただき、甘茶を振る舞われた。
外は桜が散って、空は青い。


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次の日。
こないだと同じバスで浄瑠璃寺まで。
前回は冬だったから開門が10時だったけれど、今はもう9時から観ることができたばかりでなく、ちょうど吉祥天女の開帳で、初めて真物を観た。

拝んだ、ではないところが、まあワタシの宗教的に言えば善悪二面であるね。
ワタシの精神で言えば、ごく当たり前であるけれど。



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今度の旅程はゆっくりしていたつもりだったけれど、かなり歩いたせいか、ずいぶん草臥れた。
初日  19000歩
二日目 27100歩
三日目 19700歩

四日目は朝から冷たい雨。
へばって起きられない。
仕方ないから伎芸天だけ観て予定を切り上げた。
大和西大寺駅を12:15に乗って東京駅には15:23に着いた。
たいへん速い。速いけれど、どこでもドアがあったら好いのになと、たった3時間が思いのほかしんどくて、そう思った。
だから6700歩。

でも、やっぱり良い旅だった。

だから本心から、

まあ、いいです、

だなぁ。

見沼の桜

シュタットパークリーニエという路線はさいたま市の鉄道の要衝グロッサーパラスト駅からクレヨンしんちゃん所縁のフリューリングスターゲスクルブ駅を経て千葉県に入って沿線隋一の醤油都市フェルトライスフェルト駅、さらにその先のスイッチバック構造のモッテ駅で方向を変え海に近いであるブリュッケアウスモース駅まで通じている。
この路線を運営しているのは東武鉄道と言うれっきとした日本の会社だけれど、埼玉とか千葉とか、一見外国風の街を繋いだせいか日本とは思えない路線名だったりするのだが、歴史上仕方のないことである。

家に帰る道をナビに逆らってしばしば通る道にしたら、春の景色が待っていた。
その幸運を喜んで公園の駐車場に車を置き、歩き始めたら、シュタットパーク線ご自慢のレツターツークが走って行った。


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この辺りは江戸時代に広大なスウォンプビジブルを干拓した農地で、いまでもフェルトスウォンプビジブルと呼ばれて小学校で必ず習うのだけれど、たぶんいまでも市街化調整地域が多いのだろう、ワタシどもが子供のころに、東武野田線と言っていた前世期に岩槻に住む親戚を訪ねた際に見慣れた車窓に広がる段丘川田圃川田圃川段丘の景色がほとんど今でも残っている。

そこに立派な公園があって、桜がとても立派だ。
でも、今日まですっかり忘れていた。



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埼玉は昔からオランダで、ワタシどもが子供のころは西の方の台地に風車があったが、あれはいつ無くなったのだろう、定かではないが、当時の園児は遠足で風車を見上げてアイデンティファイした。

今はここにも風車がある。
埼玉は風が強いから風力発電をしようと言う魂胆なのか、あるいは埼玉は意外だけれどうどん県なので風車小屋で粉を挽いて、水車小屋じゃないけどフリッツブンダリッヒのような色気のあるテノールで美しき水車小屋の娘を歌わせようと言うのか不明だが、何か壮大な秘密があるのだろうと邪推している。


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桜の花に似合うのは菜の花であるね。
菜の花に最新型電車が似合うかどうかは微妙である。

さ、それでは桜を観に行こう。


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今日は朝から、走る道々でたくさんきれいな桜を視た。

練馬の大泉のあたり、三鷹の天文台のあたり、多摩川の中野島から登戸の先までの土手、二子玉から等々力のあたり、そして目黒川、千鳥ヶ淵
ああああ、車に乗ってる場合じゃねーよ、と思いながら後ろ髪をひかれる思いだったのだけれど、へええ、見沼の桜もたいしたもんじゃん。


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街の桜とはまた趣を異にするけれど、結構なものだった。

ここはとても広い公園で、小さい子供を連れてピクニックに来たお母さんたちのグループがたくさんいて、だから子供たちの声があちこちで聞こえて、やっぱり子供の声が遠くから聞こえる空間は良いなあと思った。


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冷たい風が吹いてくる。
北関東は雪が降ったらしい。
埼玉も北関東の一部というが、さすがに雪は降らず、空が青い。
寒くて写真を写す手がかじかんだけれど、おかげで花の時期が伸びてくれそうで、嬉しい。

この季節を寝ないで楽しみたいくらいである。

でも、そうは言っても毎晩寝不足でたいへん辛い。
寄る年波だろう。


まあ、いいです。

一度目が覚めると二度寝できないことが多い、というのが最近の悩みで、多いと言うよりは連日のことだ。
なるほど、定年と言うのは意味があるのだろうと言うことを最近は実感している。


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演習が終わってホッとして飲みに出ることが昔あったのかどうかすら思い出せない。

つい最近、学校のそばの、学生愛顧の食堂が店主の寄る年波だか建物の老朽化だかで惜しまれながら閉店と言う地方新聞の見出しをネットで視て、はてどこかしらと思ったら、つづいて開店以来三十年と書いてあったので、なんだ、知らない店だったと気付いて、一世代の長さ短さについて少しばかり思うところがあった。

長短なんてのは落とし噺のように気の長い短いだけで済ませたいところで、生きた時間の長短は切実に不眠だの疲労だの忘却だの混濁だのに関わってくるのだからいたたまれない。
ましてやたいへん長いと世間が思う単位を越えた昔をあからさまに思い出せるとあっては、なるほど若い者に足元を見られるはずだと、いささか悔しい思いすら抱いた。

その食堂は昔は居酒屋で、ワタシどもの同級生がしばしば通っていた店であるが、ワタシはそれほど行った記憶が無い。
あの頃もその少し後もワタシはあまり酒が強くなく、だから熱燗でおでんなどと言う立派な愉しみをあまり好まず、バーボンソーダとフレンチフライみたいな嗜好であった。そしてそういう店ではそこは無かったのであるね。

もちろん吉田拓郎をリスペクトしているんだけれど。


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ワタシどもの教室では演習と呼んでいたけれど、それは他の学部や他の大学であればゼミと言うのだけれど、つまりそういうみっちりと汗と恥をかくような時間を過ごすと、一杯飲みたくなる気持ちは解る。
そんな時に先輩に、どれそれはどういう意味かしら、などと訊ねられればつい浮き浮きしていい加減なことをこたえることくらいあるのだろう。

ワタシの専攻の違う同級生がどうして同じ演習に出ていたのか今となっては理由が全く理解できないけれど、もしかしたら教官によっては演習の設定日が違うケースがあったのかもしれない。

そんな馬鹿なと思うが、だってワタシの専攻は学年一人しか毎年いないのだから、ワタシども三人以外はみな違う専攻のはずだもんね。

その専攻の違う同級生が、ワタシの同じ専攻の来年学部に上がる予定の後輩に、
巧言令色鮮人ってどういう意味なんやろ、と訊ねたのだが、
実に軽やかに、巧言令色が鮮やかな人と言う意味ですねー、と答えるのを目の前で見て仰天したのを一昨日思い出した。


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選ぶに事欠いて間抜けな文字であるなあ、というのが率直な感想である。

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